読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

lucciora’s diary

「詩人が詩を書くのは、自分と同じ言葉を話す人間を見つけるためだ。」ジャン・コクトー ーー言葉はどこまで「心」に近づけるのだろう。共感する魂を求めて、言葉の海へと漕ぎ出してみよう。 自分の心に響いてきた本、映画、表現など、備忘録的に書き留めています。どうぞよろしく。

シェーファーの万年筆

<p>今週のお題「自己紹介」</p>

f:id:lucciora:20170416161129j:plain

普段使いの万年筆。

シェーファーの、たしか'60年代のものだと思ったのですが、名前を忘れてしまいました。…画像で調べるとインペリアルだったかな。

ペンの胴体と一体型のニブ(ペン先)は、硬めの書き心地で、スピーディにぐんぐん書きたいときに使います。

もう随分前に、万年筆と筆記具&アンティーク文具のお店で働いていたことがあります。ブックカフェも併設。

もともと文房具は大好きだったので、仕事自体は面白かったです。

万年筆を好きな方というのは、皆さん自分なりの思いとこだわりのある方たちが多いんですよね。

大抵は文字を書くことが好きな人が万年筆を探しに来るので、そういう方たちと色々なお話をするのも楽しかったです。

そんなわけで、当時は一生懸命、万年筆について勉強してました。一本一本の書き味や、持ち味、そしてビンテージ万年筆や、限定の万年筆。漆や蒔絵の万年筆。

万年筆って、なめらかなインクにペン先をのっけて筆圧軽く書ける、とても手に優しい筆記具なんですよね。

自分に合うものと出会えると。

ダライ・ラマの言葉から…

自分を害する相手と戦わずして、自分の信念を貫くということ、それはどんなに難しい事だろう。

観音菩薩の生まれ変わりとされるダライ・ラマの人生は、この時代にあっても、わたしにはやはり神秘的なものに思える。

ダライ・ラマの言葉から、
他者"others"と自分との関わりについて、ガイドになるような言葉を3つ。

"Our prime purpose in this life is to help others. And if you can't help them, at least don't hurt them."

この人生で私達がまずすべきこととは、他者を助ける事である。
だが、もしあなたにそれができないのなら、少なくとも彼等を傷つけてはならない。

(…少なくとも彼らを傷つけてはならない、というところがわたしは好きだ。
この世界には、簡単に人を傷つける人が多すぎるように思う。時として心がしわしわになって、ボロボロになる。
自分とて、他者を助けることはできてはいないけれど。少なくとも…)

"What is love?
Love is the absence of judgement."

愛とは何か?
愛とは判定の不在である。


(そう…。自分の物差しで人を"ジャッジ"するのはやめよう。誰かを愛した時は、相手の全てを許容してしまう。
そんな風に、相手をジャッジすることをやめれば、その相手のことを受け容れることもできるのかもしれない。)

"Do not let the behavior of others destroy your inner peace."

他者の振る舞いによって、あなたの心の平穏を乱されることのないように。

(強くなりたい…心が。ずっとそう思ってるけど。笑)

ひとつぶの麦もし地に落ちで死なずば…

f:id:lucciora:20170325212106j:image

一粒の砂の中に世界を…

イリアム・ブレイクの詩を昨日書きました。

 

それで思い出したけれど、

ひとつぶの…と云えばアンドレ・ジイドだったか、一粒の麦、落ちて死なずば…


「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、
死なば多くの実を結ぶべし」

新約聖書ヨハネ伝」第12章

 

聖書のことばって本質をついていて、すごいなといつも思います。

『聖書』なのだから当然といえば当然ですが。笑

仏教的な思想観が好きですが、聖書はすごい。

 

よく思います。

この世で偉業をなす人もいますが、多くの人は無名でその人生を終えるでしょう。自分もまた…

 

それでも、その人の家族や関わった人たちにとっては、その人は多分とくべつで大切な存在であったと思うし、代わる者などいないのだと。

生命をつないでいるということは、すでに多くの実を結んでいるということかもしれない。

 

anonymous・・・無名性ということ。

たまに絵画や詩歌でもありますよね。

詠み人知らず。

anonymous、作者不明の歌や絵。

中には素晴らしいものもたくさんあります。その人に想いを馳せてみる。

 

でもそんな時、ふと名も無い、とくに取り柄もない…もっと大勢の通り過ぎていった人たちについても考えたりします。

 

それでも良いのだとある時思いました。

それでも、この時空にたしかに刻まれている、そのものの場所があるのです。

 

ひとつぶのザクロの実。

それをひとくち食べてしまったがために、地上と冥界を行き来することになってしまったギリシャ神話の美しいペルセポネ。

 

シモーヌ・ヴェイユはそれを、神と知らぬうちに結ばれたものの姿に重ねていました。

ヴェイユの『重力と恩寵』は、ある時期私にとっての聖書のようになっていました。

わたしは彼女のように生きることはできないし、しないけれど、

その言葉にはとても魂をゆさぶられました。付箋だらけの文庫をバッグにいれていた時期がありました。

 

ーーざくろの実。

人は、自分からすすんで神を愛すると約束するのではない。
自分の知らぬうちに、自分の内部でむすばれた約束に、同意するのである。
シモーヌ・ヴェイユ

 

今でもやはり、彼女の残した言葉は、私にとってとくべつな言葉です。

そう。

わたしたちもまた、ひとつぶの・・・

無限のなかのひとつぶの…

 

ひとつぶの砂に世界を…

       一粒の砂の中に世界を見

  一輪の花に天国を見るには
  君の手のひらで無限を握り
  一瞬のうちに永遠をつかめ

 

           f:id:lucciora:20170323231828j:image

 

Auguries of Innocence : William Blake

  To see a World in a grain of sand,
  And a Heaven in a wild flower,
  Hold Infinity in the palm of your hand,
  And Eternity in an hour.

 

ウィリアム・ブレイク詩集「ピカリング草稿」から「無垢の予兆」Auguries of Innocence(壺齋散人訳)

 

最近、この詩が頭のなかで浮遊していました。むかし母がくちずさんでいた詩。

 

同じようなタイトルの展覧会も、今やっているみたい。情報には疎いのですが、たまたま見つけました。

 

…いま、これは私たちにとって、大切なテーマの1つなのかもしれませんね。

 

ひとつぶの砂の中には世界がある。

そこにすべてあるんですね。

そして一瞬の中には永遠が。

 

自分の中に、自分の必要とするものはすべてある。

それをみとめるならば。

 

 

 

 

 

 

手紙

手紙を書くのが好きです。
手紙をもらうのも、大好きです。

最近あまり、もらわないから淋しいですけど…自分もあまり書いていないんだから仕方ないですね。

電子メールだって、もらえば勿論うれしいけれど、
家の郵便受けに、ちょっと厚みのある封筒のざらっとした手触りだったり、
海外からのエアメール便を見ると、思わず軽くスキップしてしまいます。

封筒の手触りって、どうしてあんなに素敵なのかな。
このふくろの中に自分へのメッセージが折り畳まれて入っている。

たくさんの文字が、私だけに向かって、ひそかに話しかけてくる。
そのことが嬉しいのです。

だから私も、手紙を書くのは楽しみです。

万年筆に青いインクを充填して、コーヒーでも飲みながら、相手のことをつらつらと考えながら、幸せな時間を過ごします。
切手も相手のイメージに合わせて、特別なものを選んだりして。

ポストが赤いのは、手紙を入れるイメージとして、本当にピッタリだと思います。
あの朱色というか赤というかの、ぼってりした、どっしりした鉄のボディが、温かく見えるのです。

そして赤いポストに投函するとき、
はなれた場所にいる相手のことを思い出し、手紙をうけとる姿をちょっと思い浮かべてみる。

手紙っていうのは、すごく人間らしいものだと思います。

〒 〒 〒 〒 〒 〒 〒

あなたへの手紙 /寺山修司

あて名のない手紙を書いたことがあります

それを郵便ポストに入れずに楡(にれ)の木の穴にいれたことがあります

まだ逢ったことのない女の子への手紙でした

愛の手紙でした

ところが その手紙に返事がきたのです

お手紙ありがとう

愛の手紙に 愛の手紙で

お返事できるのがとてもしあわせです

この返事も

ほんとはぼくが自分で書いたものです

僕が今より若く まだ人生の苦渋を知らなかったころ

空はいつも真青だった

流星ワゴン

f:id:lucciora:20170209104705p:plain

 

流星ワゴン

 

ーーやっとわかった。

信じることや夢見ることは、未来を持っているひとだけの特権だった。

信じていたものに裏切られたり、夢が破れたりすることすら、

未来を断ち切られたひとから見れば、それは間違いなく幸福なのだった。

  

 

 

ドラマにもなった重松清さんの小説。

小説というものを私はあまり読んでこなくて、どちらかというと

心理学・宗教学や、思想・エッセイなどが好きで読んできたけれど、

最近、歳のせいなのか…やっと小説が面白いと思うようになってきた。

 

それでも小説のなかの風景描写だったり、セリフだったりが、

自分の感覚に合わないとなんだか面倒になっていたのだけど、

重松清さんは、私にとってその辺りがとてもすんなり入ってくる作家なのだろう。

 

この小説では、積極的に死のう、と思うほどの気力もなくなった、

生きることに疲れはてた主人公が、夜の駅前のロータリーで

「死んでしまってもいいな…」と思うところから物語が始まる。

そう、・・・生きても死んでもどちらでもよいけど、自分には何かする余力もないように感じるとき。

 

そこに、流星ワゴンがやってくるのだ。

そのワゴン車に乗っている二人は、もうこの世の住人ではない。

主人公は、二人に誘われて、自分の人生のやり直し、というか

自分が見逃していた、本当に大事なものを見つけに行くのだ。

 

よく聞く話だけれど、亡くなるときに、自分の人生が走馬灯のように

すべてすごい速さで見えるというけれど、

まさにそんな話だ。

その時、すべてが見えるのだろうか。

楽しみのような、さみしいような。

 

けれど、この話が何か胸に訴えてくるのは、本当に流星ワゴンがあるのかとか、

人生のやり直しはできるのか、ということよりも、

自分自身が気づく、ということができればそれが大転換なのだということ。

 

たとえ現実がひっくり返るわけではなくても、

自分が「わかって」、自分の中に真実がすとんと落ちてくることが、

その人の人生の質を180度変えてしまうことだってある、

ということではないだろうか。

 

日常を生きていると、その中に自分が埋没してしまい、

いつの間にか見えなくなることはたくさんある。

その現実のあわただしい時間の流れから離れて、もう一度生活を眺めてみれば、

見えてくるものがある。

 

自分がそれまで到底理解できなかった近しい人たちの真実、

吐露できないで呑み込んでしまった相手の気持ち、

思いもよらなかったできごとがクリアに感じられることがある。

 

もし死がせまっているなら、自分はそれでよかったのか、

この世で生きているあいだに、自分がしたかったことはなんなのか、

それを、生と死の間をさまようワゴンの持つ「死者の視点」が教えてくれるのだ。

 

いつか私も流星ワゴンに乗って、旅をしてみたい。

今はもういない人たちと、おしゃべりを楽しみながら。

 

ーー僕も苦笑して「でもさ」とつづけた。

たとえばデジャ・ブや、昔どこかで会ったような気がするひとに会うことは、

誰かのやり直しの現実に付き合った痕跡なのかもしれない。

星座のような記憶の回路からぽつんとはずれた、そんな記憶を、

もしかしたら、僕たちはたくさん持っているのかもしれない。

 

 

 

 

心に微かな風が…


f:id:lucciora:20170131083152j:image

あなたのブログを読んでいました。
それで、

ーあ、この言葉はどこで聞いたんだっけ、と思ったんですよね。
いつか、誰かが言ってくれたなぁと。

そして思い出しました。


「ほんの少しだけね、あなたの心のドアを開いておきましたよ。
あまり大きく広げると、辛いかもしれないから、ほんのちょっとだけ、ね。
そこから入ってくる新しいものを、何か感じられるといいね。」
と言ってくれたなぁと。

 

あの頃、多分しんどかったんですよね。それで体がこわばって、背中とかいつもバリバリに固まっていて、息が詰まってくるしい…

そういう時に、行く場所があのころあったなって。

 

その場所は夕方になると、柔らかい灯りがともってる、沈香とか白檀のお香の香りがして、静かな東洋的な音楽が流れている、リラックスできる場所でした。

 

週に何度か気功のクラスがあって、ふだんは気功治療をやっている場所だったんですけども。…私は東洋思想とか興味もあって、ヨガも何度か試したことはあるんですが、気功も面白いと思ったんです。でも長続きしないんですけども…。

 

そこの気功の先生は、ちょっとお坊さんみたいに見えて…作務衣を着て、髪の毛を短く剃っていたから、そう見えたのかな。気功の治療を、時々受けていました。

 

勿論、気、みたいなものも感じますし、少し離れたところから、あったかいエネルギーみたいなものも感じるんです。そういうのに敏感な人に言わせれば、かなり力がある先生だって、言ってましたよ。

 

それなのに私は頭でっかちの人なので、気、よりも実際に押してもらったりするのが実は好きでしたけども…

 

今振り返ると、ほんとのところでは、その先生に何かを相談した時の「助言」みたいな言葉を聞くのが結構好きで、もしかしたら話がしたくて行っていたのかもしれません。

 

ある時、何の話からだったのか、ふと言ったんですよね。

…私ね、すごく疑い深いっていうのかなー。うちの母なんて、人の言うことをそのまま真に受けて信じちゃうのに。

相手のことを、疑ってるというのとは違ってて。…でも何となく、人は変わるもんだと思ってて、気持ちや考えも変わるって。人が「変わらない」と言ったりしても、いつか変わるかもしれないし、だけど自分はそれで構わない、とか思ってるんですよね。

でも、信じても良いんですよね。その人の言葉を…とりあえず。

 

すると、その先生が言ったんです。

…なんとなくね、ビジョンみたいなのが見えたんです。

まだ産まれたばかりの赤ちゃんだと思うんだけど、お母さんが貧しかったのか、病気だったのかな、置き去りにされてしまったみたい。

それで、ずっと泣いているんだけど、誰も来てくれなくて。…寒いのか暑いのか、どんどん弱ってしまって…っていう姿が見えたんです。

そんな事が、あなたの魂の歴史の中にあったのかもしれないし、あるいは心象風景かもしれないんだけど。

 

…その先生は普段そういうことは言わない人だったので、その時はちょっと驚いた。

ただそんな光景が浮かんだのかもしれない。前世か、私の心象風景なのか、たとえ話なのか。でも、それがなんであったのか、ということはそれ程大事ではなかった。

先生の話してくれたビジョンは、私にとても響くものがあったんです。

 

子供の頃から、決して開放的な子供ではなかったと思うし、

色々なことに敏感すぎて、いつもどこかで疲れていたんですよね。

家族の軋轢のなかで、誰も自分の話を聞いてくれないような気がしてたんです。

… もっと言えば、自分が大切だと自分でも思えなかったんです。

 

何かを信じて、それを失って傷つくよりは、初めから失われるものとして、すべてを見ようとしていたのかもしれない。

 

だから、棄てられる赤ちゃん、寒さに凍えて、暑さで息ができない、それは私に思えました。本当にその通りだなって。それで暫く、泣いていました。

その通りですよね、って。

 

だから、帰りぎわ、先生が言ってくれた言葉を思いだします。

「ほんの少しだけね、あなたの心のドアを開いておきましたよ。あまり大きく広げると、辛いかもしれないから、ほんのちょっとだけ、ね。そこから入ってくる新しいものを、何か感じられるといいね。」と。

 

そのとき心は開いたのか、開いてなかったのか、今は閉じてしまったのか、ひらいているのか?

 

わからないけれど、心を少しだけ、ひらくっていうことは、心の目では見えましたよ。

微かな風がすっと通るのを、心の肌で感じましたよ。

 

そんな事を思いだしました。あなたのブログの言葉から…