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lucciora’s diary

「詩人が詩を書くのは、自分と同じ言葉を話す人間を見つけるためだ。」ジャン・コクトー ーー言葉はどこまで「心」に近づけるのだろう。共感する魂を求めて、言葉の海へと漕ぎ出してみよう。 自分の心に響いてきた本、映画、表現など、備忘録的に書き留めています。どうぞよろしく。

ひとつぶの麦もし地に落ちで死なずば…

想起・雑記

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一粒の砂の中に世界を…

イリアム・ブレイクの詩を昨日書きました。

 

それで思い出したけれど、

ひとつぶの…と云えばアンドレ・ジイドだったか、一粒の麦、落ちて死なずば…


「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、
死なば多くの実を結ぶべし」

新約聖書ヨハネ伝」第12章

 

聖書のことばって本質をついていて、すごいなといつも思います。

『聖書』なのだから当然といえば当然ですが。笑

仏教的な思想観が好きですが、聖書はすごい。

 

よく思います。

この世で偉業をなす人もいますが、多くの人は無名でその人生を終えるでしょう。自分もまた…

 

それでも、その人の家族や関わった人たちにとっては、その人は多分とくべつで大切な存在であったと思うし、代わる者などいないのだと。

生命をつないでいるということは、すでに多くの実を結んでいるということかもしれない。

 

anonymous・・・無名性ということ。

たまに絵画や詩歌でもありますよね。

詠み人知らず。

anonymous、作者不明の歌や絵。

中には素晴らしいものもたくさんあります。その人に想いを馳せてみる。

 

でもそんな時、ふと名も無い、とくに取り柄もない…もっと大勢の通り過ぎていった人たちについても考えたりします。

 

それでも良いのだとある時思いました。

それでも、この時空にたしかに刻まれている、そのものの場所があるのです。

 

ひとつぶのザクロの実。

それをひとくち食べてしまったがために、地上と冥界を行き来することになってしまったギリシャ神話の美しいペルセポネ。

 

シモーヌ・ヴェイユはそれを、神と知らぬうちに結ばれたものの姿に重ねていました。

ヴェイユの『重力と恩寵』は、ある時期私にとっての聖書のようになっていました。

わたしは彼女のように生きることはできないし、しないけれど、

その言葉にはとても魂をゆさぶられました。付箋だらけの文庫をバッグにいれていた時期がありました。

 

ーーざくろの実。

人は、自分からすすんで神を愛すると約束するのではない。
自分の知らぬうちに、自分の内部でむすばれた約束に、同意するのである。
シモーヌ・ヴェイユ

 

今でもやはり、彼女の残した言葉は、私にとってとくべつな言葉です。

そう。

わたしたちもまた、ひとつぶの・・・

無限のなかのひとつぶの…

 

ひとつぶの砂に世界を…

想起・雑記

       一粒の砂の中に世界を見

  一輪の花に天国を見るには
  君の手のひらで無限を握り
  一瞬のうちに永遠をつかめ

 

           f:id:lucciora:20170323231828j:image

 

Auguries of Innocence : William Blake

  To see a World in a grain of sand,
  And a Heaven in a wild flower,
  Hold Infinity in the palm of your hand,
  And Eternity in an hour.

 

ウィリアム・ブレイク詩集「ピカリング草稿」から「無垢の予兆」Auguries of Innocence(壺齋散人訳)

 

最近、この詩が頭のなかで浮遊していました。むかし母がくちずさんでいた詩。

 

同じようなタイトルの展覧会も、今やっているみたい。情報には疎いのですが、たまたま見つけました。

 

…いま、これは私たちにとって、大切なテーマの1つなのかもしれませんね。

 

ひとつぶの砂の中には世界がある。

そこにすべてあるんですね。

そして一瞬の中には永遠が。

 

自分の中に、自分の必要とするものはすべてある。

それをみとめるならば。

 

 

 

 

 

 

手紙

想起・雑記

手紙を書くのが好きです。
手紙をもらうのも、大好きです。

最近あまり、もらわないから淋しいですけど…自分もあまり書いていないんだから仕方ないですね。

電子メールだって、もらえば勿論うれしいけれど、
家の郵便受けに、ちょっと厚みのある封筒のざらっとした手触りだったり、
海外からのエアメール便を見ると、思わず軽くスキップしてしまいます。

封筒の手触りって、どうしてあんなに素敵なのかな。
このふくろの中に自分へのメッセージが折り畳まれて入っている。

たくさんの文字が、私だけに向かって、ひそかに話しかけてくる。
そのことが嬉しいのです。

だから私も、手紙を書くのは楽しみです。

万年筆に青いインクを充填して、コーヒーでも飲みながら、相手のことをつらつらと考えながら、幸せな時間を過ごします。
切手も相手のイメージに合わせて、特別なものを選んだりして。

ポストが赤いのは、手紙を入れるイメージとして、本当にピッタリだと思います。
あの朱色というか赤というかの、ぼってりした、どっしりした鉄のボディが、温かく見えるのです。

そして赤いポストに投函するとき、
はなれた場所にいる相手のことを思い出し、手紙をうけとる姿をちょっと思い浮かべてみる。

手紙っていうのは、すごく人間らしいものだと思います。

〒 〒 〒 〒 〒 〒 〒

あなたへの手紙 /寺山修司

あて名のない手紙を書いたことがあります

それを郵便ポストに入れずに楡(にれ)の木の穴にいれたことがあります

まだ逢ったことのない女の子への手紙でした

愛の手紙でした

ところが その手紙に返事がきたのです

お手紙ありがとう

愛の手紙に 愛の手紙で

お返事できるのがとてもしあわせです

この返事も

ほんとはぼくが自分で書いたものです

僕が今より若く まだ人生の苦渋を知らなかったころ

空はいつも真青だった

流星ワゴン

読書・備忘録

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流星ワゴン

 

ーーやっとわかった。

信じることや夢見ることは、未来を持っているひとだけの特権だった。

信じていたものに裏切られたり、夢が破れたりすることすら、

未来を断ち切られたひとから見れば、それは間違いなく幸福なのだった。

  

 

 

ドラマにもなった重松清さんの小説。

小説というものを私はあまり読んでこなくて、どちらかというと

心理学・宗教学や、思想・エッセイなどが好きで読んできたけれど、

最近、歳のせいなのか…やっと小説が面白いと思うようになってきた。

 

それでも小説のなかの風景描写だったり、セリフだったりが、

自分の感覚に合わないとなんだか面倒になっていたのだけど、

重松清さんは、私にとってその辺りがとてもすんなり入ってくる作家なのだろう。

 

この小説では、積極的に死のう、と思うほどの気力もなくなった、

生きることに疲れはてた主人公が、夜の駅前のロータリーで

「死んでしまってもいいな…」と思うところから物語が始まる。

そう、・・・生きても死んでもどちらでもよいけど、自分には何かする余力もないように感じるとき。

 

そこに、流星ワゴンがやってくるのだ。

そのワゴン車に乗っている二人は、もうこの世の住人ではない。

主人公は、二人に誘われて、自分の人生のやり直し、というか

自分が見逃していた、本当に大事なものを見つけに行くのだ。

 

よく聞く話だけれど、亡くなるときに、自分の人生が走馬灯のように

すべてすごい速さで見えるというけれど、

まさにそんな話だ。

その時、すべてが見えるのだろうか。

楽しみのような、さみしいような。

 

けれど、この話が何か胸に訴えてくるのは、本当に流星ワゴンがあるのかとか、

人生のやり直しはできるのか、ということよりも、

自分自身が気づく、ということができればそれが大転換なのだということ。

 

たとえ現実がひっくり返るわけではなくても、

自分が「わかって」、自分の中に真実がすとんと落ちてくることが、

その人の人生の質を180度変えてしまうことだってある、

ということではないだろうか。

 

日常を生きていると、その中に自分が埋没してしまい、

いつの間にか見えなくなることはたくさんある。

その現実のあわただしい時間の流れから離れて、もう一度生活を眺めてみれば、

見えてくるものがある。

 

自分がそれまで到底理解できなかった近しい人たちの真実、

吐露できないで呑み込んでしまった相手の気持ち、

思いもよらなかったできごとがクリアに感じられることがある。

 

もし死がせまっているなら、自分はそれでよかったのか、

この世で生きているあいだに、自分がしたかったことはなんなのか、

それを、生と死の間をさまようワゴンの持つ「死者の視点」が教えてくれるのだ。

 

いつか私も流星ワゴンに乗って、旅をしてみたい。

今はもういない人たちと、おしゃべりを楽しみながら。

 

ーー僕も苦笑して「でもさ」とつづけた。

たとえばデジャ・ブや、昔どこかで会ったような気がするひとに会うことは、

誰かのやり直しの現実に付き合った痕跡なのかもしれない。

星座のような記憶の回路からぽつんとはずれた、そんな記憶を、

もしかしたら、僕たちはたくさん持っているのかもしれない。

 

 

 

 

心に微かな風が…

想起・雑記


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あなたのブログを読んでいました。
それで、

ーあ、この言葉はどこで聞いたんだっけ、と思ったんですよね。
いつか、誰かが言ってくれたなぁと。

そして思い出しました。


「ほんの少しだけね、あなたの心のドアを開いておきましたよ。
あまり大きく広げると、辛いかもしれないから、ほんのちょっとだけ、ね。
そこから入ってくる新しいものを、何か感じられるといいね。」
と言ってくれたなぁと。

 

あの頃、多分しんどかったんですよね。それで体がこわばって、背中とかいつもバリバリに固まっていて、息が詰まってくるしい…

そういう時に、行く場所があのころあったなって。

 

その場所は夕方になると、柔らかい灯りがともってる、沈香とか白檀のお香の香りがして、静かな東洋的な音楽が流れている、リラックスできる場所でした。

 

週に何度か気功のクラスがあって、ふだんは気功治療をやっている場所だったんですけども。…私は東洋思想とか興味もあって、ヨガも何度か試したことはあるんですが、気功も面白いと思ったんです。でも長続きしないんですけども…。

 

そこの気功の先生は、ちょっとお坊さんみたいに見えて…作務衣を着て、髪の毛を短く剃っていたから、そう見えたのかな。気功の治療を、時々受けていました。

 

勿論、気、みたいなものも感じますし、少し離れたところから、あったかいエネルギーみたいなものも感じるんです。そういうのに敏感な人に言わせれば、かなり力がある先生だって、言ってましたよ。

 

それなのに私は頭でっかちの人なので、気、よりも実際に押してもらったりするのが実は好きでしたけども…

 

今振り返ると、ほんとのところでは、その先生に何かを相談した時の「助言」みたいな言葉を聞くのが結構好きで、もしかしたら話がしたくて行っていたのかもしれません。

 

ある時、何の話からだったのか、ふと言ったんですよね。

…私ね、すごく疑い深いっていうのかなー。うちの母なんて、人の言うことをそのまま真に受けて信じちゃうのに。

相手のことを、疑ってるというのとは違ってて。…でも何となく、人は変わるもんだと思ってて、気持ちや考えも変わるって。人が「変わらない」と言ったりしても、いつか変わるかもしれないし、だけど自分はそれで構わない、とか思ってるんですよね。

でも、信じても良いんですよね。その人の言葉を…とりあえず。

 

すると、その先生が言ったんです。

…なんとなくね、ビジョンみたいなのが見えたんです。

まだ産まれたばかりの赤ちゃんだと思うんだけど、お母さんが貧しかったのか、病気だったのかな、置き去りにされてしまったみたい。

それで、ずっと泣いているんだけど、誰も来てくれなくて。…寒いのか暑いのか、どんどん弱ってしまって…っていう姿が見えたんです。

そんな事が、あなたの魂の歴史の中にあったのかもしれないし、あるいは心象風景かもしれないんだけど。

 

…その先生は普段そういうことは言わない人だったので、その時はちょっと驚いた。

ただそんな光景が浮かんだのかもしれない。前世か、私の心象風景なのか、たとえ話なのか。でも、それがなんであったのか、ということはそれ程大事ではなかった。

先生の話してくれたビジョンは、私にとても響くものがあったんです。

 

子供の頃から、決して開放的な子供ではなかったと思うし、

色々なことに敏感すぎて、いつもどこかで疲れていたんですよね。

家族の軋轢のなかで、誰も自分の話を聞いてくれないような気がしてたんです。

… もっと言えば、自分が大切だと自分でも思えなかったんです。

 

何かを信じて、それを失って傷つくよりは、初めから失われるものとして、すべてを見ようとしていたのかもしれない。

 

だから、棄てられる赤ちゃん、寒さに凍えて、暑さで息ができない、それは私に思えました。本当にその通りだなって。それで暫く、泣いていました。

その通りですよね、って。

 

だから、帰りぎわ、先生が言ってくれた言葉を思いだします。

「ほんの少しだけね、あなたの心のドアを開いておきましたよ。あまり大きく広げると、辛いかもしれないから、ほんのちょっとだけ、ね。そこから入ってくる新しいものを、何か感じられるといいね。」と。

 

そのとき心は開いたのか、開いてなかったのか、今は閉じてしまったのか、ひらいているのか?

 

わからないけれど、心を少しだけ、ひらくっていうことは、心の目では見えましたよ。

微かな風がすっと通るのを、心の肌で感じましたよ。

 

そんな事を思いだしました。あなたのブログの言葉から…

 

 

歴史と感情/集合無意識

読書・備忘録

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シュタイナー教育を語る / 高橋巌より

「感情は時間の中で存在しており、空間の中では存在していないということです。
過去と現在と未来は、大体感情で結びついていると言ってもいいくらいです。
歴史というのは、一言でいうと、人類的規模での感情の集大成、前に述べたこととの関連で言えば、人類の夢である、と言ってもいいくらいです。

歴史というのは、ほとんどが感情なのです。一般にはそういうふうには受け取られていませんが、歴史が現在の私の生活に意味があるとすれば、それは本来は、過去の流れのなかから今の私のほうに感情のエネルギーが流れてきているからなのです。

歴史から単なる知識を引き出そうとか、そこに科学的な法則を見出だそうとすることだけが、本来の歴史研究だと思うことは、ニーチェが語っていたように、人生にとっての歴史の意味を誤解させてしまいます。」


ーーー


感情は時間の中に存在している。…なるほど…。納得。

 

集合無意識の中には、神話、おとぎ話、歴史上の人物、あらゆる物語が溶け込んでいる。
それは、つまるところ、あらゆる生き物の感情の経験、なのかもしれない。
ユングとシュタイナーが意外と近くにいたのかもしれないということ。
感情が時間の中に存在している、ということ。では空間の中に存在しているもの、とは何なのか。
そもそも、時間のない空間てあるのだろうか。…

メランコリアーそして、憂鬱の逆転

読書・備忘録

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メランコリア。憂鬱。
今更ながら、シュタイナーの気質についての文章を読んでいて、以前から親しみのある一枚の版画を思い出す。

 

アルブレヒト・デューラーメランコリア
シュタイナーも、四体液説から、人間の気質について自論を展開していったようだが、この話はまた、ギリシャの宇宙を成す元素は何かという話とも、繋がっていくことだったなーと、改めて思い出す。

 

忘れたり、思い出したりの繰り返しだけれども、その時その時、自分の知りたいことにフォーカスが合っているから、以前とはまた違う視点で見ているのかもしれない。

 

学生時代、はじめはユングからの影響で、神話や神秘主義錬金術の本も結構読んだ。
人間の気質について四体液説も読んだけど、当時は4つでは単純すぎると思っていた。その点、占星術のほうがよりデリケートな解釈が出るので面白いと思っていた。


けれど、デューラーのこの版画は、ずっとイメージが残っていて、メランコリアという言葉も注視していた時間が長かったんだろう。
やはりデューラーの作品の力がある。


…私、まさに憂鬱質なんだな。と思う。
占星術的にも、憂鬱を示す土星が第1室に入ってるし。逆に自分を示す太陽は12室だし。
もちろん、4つの気質が混ざり合っているわけだけど。

 

けれど、今更、なのでデューラーの「メランコリア」の絵をよくよく見てみれば、そうだ、あの頃もよく考えたことを再認識できる。


このメランコリアの示す可能性とは、つまり自分が最も「重い」ものに、重力に、支配され束縛されている(という認識をもつ)者が、知性や自己認識や思索によって、高く、自由な、広がりの次元を識る可能性も示しているのだ。

 

アルブレヒト・デューラーメランコリアについて、若桑みどりさんの講義から、詳しく書き留めているブログがあって、面白かった。

http://blog.goo.ne.jp/masamasa_1961/e/81f32a463b176da027022eaa01a94b7d