lucciora’s diary 蛍日記
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共感する魂を求めて

2018-07-13

私たちはどこから来て、どこへ行くのか …(2)

映画 読書・備忘録 アート・展覧会

ミッドナイト・イン・パリ(字幕版)

ウディ・アレンの「ミッドナイト・イン パリ」を観た。とっても愉快な気持ちになった。

 

前回の「前世」についてのブログにひきつづき、この映画も「時間と空間の境界線を超えて」しまうお話だった。

 

きっと自分が本当に会いたい人には会えるんじゃないか。会うべき人には。

…たとえ生きてる時代すら違っていたって?

そう。多分、時代とか場所も関係なく。そんな気がした。

そんな風に思わせてくれる、愉しい作品。

 

 久しぶりにウディ・アレンの映画を観たのだけど、翻って考えてみれば過去に戻る話というのは、映画でも本でも結構あることに気づいた。

 

ストーリーを少し書く。

主人公はアメリカ人の脚本家ギル。本当は小説家になりたくて、はじめての小説を書いているけれど、まだ誰にも見せていない。見て欲しいと思える相手が周りにいないのだ。

 

婚約者の女性とパリに旅行に来たけれど、雨のパリが大好きな彼の感性を、婚約者の彼女はまったく理解しようともしない。(こんなに自分の感性にそぐわない相手と、人はなぜ結婚しようと思うのか… 客観的に見ていればわかるのに。私自身を含め人生はそんなことの連続だ。)

 

主人公のギルは、ひとり酔っぱらってホテルに帰りつけずに街角で座っている。

大好きなパリの真夜中…

とそこに、1台のクラッシックカーがやってくる。車からはギルに向かって「乗れよ」と呼びかける陽気な男女がいて・・・。

 

酔いも手伝ってこの車に乗りこんだ彼が行き着いたパーティは、なんと1920年代のパリだった!

これがまた登場人物を見ると私も大好きな時代。ジャンコクトー主催のパーティに出席してみたかった。(笑)

 

自分にとっての黄金時代。次から次へと惜しげもなく現れる、レジェンドな作家やアーティストたち。

フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、ピカソ、ダリ、そしてそのミューズ達。

 

…驚きと興奮のなかで、ギルは徐々にその時代を楽しんでいく。

 

フィッツジェラルド夫妻が「ホンモノ」だとわかった時の、ギルの表情がむちゃくちゃ可笑しい。海外の映画館での観客のリアクションを思わず想像してしまった。きっとこういうシーンは大笑いと拍手喝采。

 

 自分にとっての「黄金時代」ともいえる過去に行った主人公は、その時代に生きる彼らにとっては、そこは黄金時代ではないと知って愕然とするのだけれど、やがて彼も気づく。

「現在というのはいつも不満なものなんだ」と。

 

この話は「前世」ではないまでも、過ぎ去った時代に戻る話で、今はいない憧れの作家やアーティストたちが、彼らの時代に何を考えてどんなことを語り合い、どんな生活を繰り広げていたのか…こうだったんだろうなーという想像と妄想が美しい映像で再現されていてすごく贅沢。

 

夢だったとしても自分がそこにいたら誰とどんな話をして何を見るのだろう。

というか、もし自分だったら、いつの時代のどの国で誰と会いたいか…この映画を観てからずっと考えている。

 

ところで、出会いというのはリアルタイムの現実でなくても良いのだと個人的にはよく思う。本当につよく感動するような出会いは、なにも現実の世界で同時代を生きている人たちとの出会いだけではなくてもよいのだ。もちろんそれも重要だけれど。それも感動的で奇跡的なときもあるけれど。

けれどもし、今出会えていなかったら、時代は違って、タイムトリップしたら自分が話したい仲間たちはいっぱいいるのかもしれない。過去にも未来にも。

 

なぜか心惹かれる風景や作品、見たことがあるような情景、ある時代の建築物や服装、さまざまな様式。

なにかに特別に惹かれるのは何故なのだろう。もしかしたらいつかどこかで出会っていたのかも知れない、そう考えたほうが自分の世界観に厚みや広がりが感じられるし、なんとなく楽しくなってくるのではないかしら。

本や映画というものは、まさにそうした出会いのひとつとも言えるだろう。

 

ゴッホ:天才の絵筆(字幕版)

 

こちらも最近観たドキュメンタリー映画。

ゴッホが自分の製作や人生について、あたかも現在の私たちに話しかけるよう作りになっていて、これもとても良かった。並行して読んでいた本は「謎解きゴッホ」。

 

謎解きゴッホ: 見方の極意 魂のタッチ (河出文庫)

 

―有名な話だけれどゴッホが描いた油絵約900点のうち、生前はただ一枚の絵しか売れなかったという。それも画商でもある弟のテオが売ってくれた絵だった。

それが今やゴッホの絵はオークションで史上最高の値段がつく。

 

あまりにも皮肉な状況だけれど、ゴッホが貧しさや無理解や苦しみの中で自分を追い込みながらも描き続けたことは、彼の絵画を短期間で非常な高みへと導いたように感じた。そこまで彼を追い込んだもの、彼の人生、気質、愛、宗教、家族、そして絵に対する思い。

 

そうしたものに思いを馳せるとき、気づかせられる。

自分が信じたものを作り上げていくこと、周囲の無理解にあっても自分が投げてしまわないこと。自分の好きなものを大切にして生き生きと思い描くこと。

 

自分にとって大切にしたいものが、何かの形をとって自分に語りかけてくる時は、無視しないで意識をそこにもっと向けていこう。じっとみつめたり、耳を傾けるのは意味のないことではないはず。

何百年経っていても、それらは生きたメッセージであり情報なのだから。

 

人の生きざまだったり、作品だったり、場所だったり、自分をインスパイアして先に進む力をくれることがある。彼らが思いをそこに残している。

ゴッホは生きている間、社会的には何者でもなかった。こんなにも称賛されもてはやされる彼は、生きているときは成功者ではまったくなかった。

周囲からも孤立し、きちがいと呼ばれ、唯一の理解者は弟のテオだけだった。

それでも死をえらぶその瞬間まで、ゴッホは絵の中に自分の思いを込め続けた。

そのことのむずかしさと素晴らしさにあらためて今、心をゆさぶられている。

lucciora 2018-07-13 21:31 読者になる

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2018-07-11

私たちはどこから来て、どこへ行くのか…(1)

想起・雑記 読書・備忘録

前世への冒険 ルネサンスの天才彫刻家を追って (知恵の森文庫)

「ねぇ、前世ってあると思う?」 最近、友人の女性に聞かれた。

都内にあるスパニッシュ様式の古い建物を偶然見たとき、その重厚な美しい扉に目が惹きつけられ、説明のつかない感情でいっぱいになり急に涙がとまらなくなったという。

「その扉をずっと昔から知っているような気がしたし、そしてその扉のなかで起きたさまざまな出来事をすべて知っているような気がした」のだという。

でも具体的にどんな出来事かはわからなくて、嬉しいのか悲しいのかも、はっきりとは説明できないような気持なのだという。

「前世、きっとあるような気がする」私は答えた。

前世があるかないかは証明できないだろうし、証明する必要もないと思う。

どう考えた方が、自分にとってすんなり受け入れられるか、ということで良いような気がする。

 

かつて生きていたすべての人、今はもう生きていない人たちの人生。

彼らは、そして私たちは、何をしにやってきてどこへ行くのだろう。

歴史に残らない物語であっても、すべてこの世に生まれた人間、生物はそれぞれの物語を生きている。

人はみんな自分の人生を生きるわけだが、時には「自分以外の生」を生きている自分をリアルにイメージしてみることで、自分の枠を少し広げる作用にはならないだろうか。

 

 私が「前世」に一番興味をもっていたのは、じつはもう20年近くも前。

森下典子さんの「デジデリオ~前世への冒険~」はその頃読んだ本で、あまりに引き込まれてしまい、当時つきあっていた相手にもプレゼントしたっけ。

先日の友人の話で思い出し、また読み返してしまった。

あれから20年も経つのか…全然そんな気がしないのがこわい。(笑)

とはいえ、歳をとって読み返すとまた、思考も深まってたり?別の回路で読んだりできるので、色々楽しかった。

 

森下典子さんは他にもエッセイ集 日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)、猫といっしょにいるだけで (新潮文庫)、 

などなどを出している作家さんで、「前世」に関しては初めまったく信じていないどころか「胡散臭い」と鼻で笑っていたくらいだったと書いてある。

 

ところが、ある雑誌の企画で前世を見えるという女性に、前世を見てもらったところ、前世はルネッサンス期の若くして亡くなった美貌の彫刻家、デジデリオ・ダ・セッティニャーノだと伝えられる…。

まさかそんなことは無いだろうと、疑いの気持ちとともに資料を探すうちに、資料にも書かれていない史実を伝える前世の話に引き込まれ、いつしかイタリアまでデジデリオの足跡や作品を追う旅に出かける。エッセイストとしての文章の魅力もこの本を一気に読ませてしまう理由のひとつだ。

 

森下さんも書いているが、この若くして亡くなった才能あふれる彫刻家のデジデリオについて深く知っていくうちに、彼女が本当にデジデリオの生まれ変わりかどうかは、大して大事なことではないと思い至ったのだそうだ。

それよりも、こうしてデジデリオの生きた時代について考察を深め、ルネサンスの作家や芸術家たちの生き生きとした人間関係、友情、愛情、孤独を追いながら、知られることのなかったある人間の物語に光をあてること、伴走するように彼の生きた時代を生きること。

あたかも彼の生きた時代を自分も生きることができたかのような没入は、新鮮な驚きであり、ゆたかな喜びだったと思う。

 

前世療法―米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘 (PHP文庫)  魂の伴侶―ソウルメイト 傷ついた人生をいやす生まれ変わりの旅 (PHP文庫)

 

友人には森下典子さんの「デジデリオ」の他にも、やはり当時読んで興味深かったブライアン・ワイズ博士の「前世療法」の本を貸してみた。

この本を読んで、自分の前世の物語を知りたくなった私は、前世への退行催眠を受けた。見えた風景は自分の心象風景なのか、どこかで見た記憶をつなぎ合わせたイメージなのか、それはわからない。

わからないなりに、それはそれで面白い経験だった。

それについても、いつか書いてみたい気がする。

 

 

lucciora 2018-07-11 22:36 読者になる

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2018-05-13

必死に生きるか、必死に死ぬか…

映画 想起・雑記

ショーシャンクの空に [DVD](ショーシャンクの空に)

 

時として、だれかのブログを読んでいて「生きること」自体について悩んだり、考えているブログを読むと、ついつい読み込んでしまう。

というのも、自分もそうしたことを考えるくせがあるからだろう…。

 

何故生きるのか?について考えるとき、わたしが思い出す映画のひとつが「ショーシャンクの空に」という映画だ。

 「ショーシャンクの空に」は自分の人生観を大きく変えた作品だったと思う。

これは映画だ。けれど、このストーリーはわたしの心の中で本当に起きているストーリーなのだ、その時そう感じた。

 

死のうと思ったことはないけれど、全部が 消えてなくなれば良いとおもったことは何度もある。これが全部誰かの夢で、その夢が覚めたら自分も消えていたら…。とか。

けれど今私が思うのは、とにかくとりあえず生きていて欲しいと思う。

人生は長いし、あとで振り返ったら、自分のその時の状況はそんなに焦ったり責めたりすることもなかったんだなと思えるようになると思っている。

 

今日、あきらめてしまったら、明日わかるはずだった答や、あなたに出会うことを待っていた誰かに、会いそこねてしまうかもしれないから。そういう日はきっとくると思う。多分、本当は自分がむしろ恵まれていることにいつかきっと気づくと思うから。

 

「自分が本当にやりたいこと」について考えることができる幸せ―やれるかどうかわからないにしても、可能性について考えることのできる状態は、けれど渦中の人には振り子時計のような苦しみでしかないこともある。

まあでも、とりあえず、悩める力を持ってる自分、それを希望ととらえても良いのだと思う。

日本という国の、戦争の無い時代に生まれて、もちろんさまざまな問題はあるが、

町には情報や食べ物があふれ、多くの人が一見何不自由なく暮らせる今。

そこで、生きることについて悩むことができるのは、多分悩むことのできる自由があるからだ。

 

そのチャンスを無駄にはしないで、時間と気力のある時は好きなだけ考えたり挑戦したり、恋をしたり、旅に出たり、親友と語り合ったり、あるいはほかの喜びに出あったり、もちろん休んだり…人生をじぶんなりに味わうのが大切。

 

今回、この映画について書いてみようと思って改めて気が付いたのだが、ステファン・キングの言葉が映画の副題になっている。 

“Fear can hold you prisoner. Hope can set you free.”

 恐れは君を囚われの身にする。

希望は君を自由の身にする。

 

 (以下、ネタバレあります)

映画の中で、主人公のアンディは「妻を殺した」という無実の罪をきせられ、ショーシャンク刑務所に入って来る。

冤罪ということは本当にあってはいけないことだ。それでも現実にしばしばそうしたことが起こる。

 自分の犯していない罪で刑務所にいれられるなんてことになったら?

そのために自分の一生が牢獄の中で、さまざまな苦しみの中で過ごすことになってしまったら?

本気で想像するとどれだけ恐ろしいことだろう。

 

けれど、例えばもしこの映画のストーリーが自分の見た「夢」だったら、

自分が冤罪で牢獄に投獄されたとしたという「夢」を見たのだとしたら、

視点を変えて、どんな風にこの夢の意味を考えられるのか、ちょっと考えてみた。

 

そう。そもそも、人間はさまざまな牢獄に入っているのでは無いだろうか。

様々なしがらみ、他人からの評価、既成概念やレッテルや常識、自分という人間についての思い込みの「牢獄」。

罪を犯した記憶はないのに、いつの間にか入れられている牢獄なのだ。

今の日本で言ったら、どんなことが自分を縛り付けることになるのだろう。

 

生まれた国の文化や宗教、戦争をしているか、先進国なのか、後進国なのか、それは自分で選んだわけではない。家族の関係、もって生まれた病気、兄弟関係、土地。

当たり前だと思っていることすら、生まれた時代や環境によって大きく違うのだ。

本当に偶然(または必然?) に人はあるときに、ある場所に、ある家族の中に生まれてくる。

 

これは絶対にどうしようもない、変えることができないと思っているような自分の囚われが、実は単なる思い込みだったり、あるいは周りの人間も同じ思い込みを共有しているために、本当は逃げられる場所が、逃げられない牢獄のような環境になっている場合もあるだろう。

でも、そのことに気づくのだ。

自分は無実の罪でここにいる。自分はもう、十分にそれを贖ったのだと。

そうしたら、意を決して牢獄から脱獄するのだ。

 

アンディは、妻を殺したという冤罪をきせられ、ショーシャンク刑務所にやってくる。

若くして銀行の副頭取にまでなった彼は、非常に頭のいい青年だ。けれど、決して人を馬鹿にしてのし上がるようなタイプではなく、静かでむしろ内省的な青年だ。

 

環境とはおそろしいもので、冤罪で牢獄に入れられた彼は、やがて自分が妻を殺したも同じだという。

そんなアンディに、もうずっと長く刑務所にいるレッドは言う。「それは違う。お前は引き金をひいてはいない。」と。

そう。牢獄にいるうちに、やがて自分が犯したわけでもない罪の一端が、自分の責任のように人は感じてしまうものだ。

 

そこで必要なのが友人の存在だ。この刑務所でアンディが出会い、信頼関係を築いていくのはレッドという黒人で、殺人を犯して刑務所にいる。アンディよりも10年以上前に刑務所に入ったレッドは、自分は罪を犯したことを認めている。

 

やがて刑務所で何年も過ごすうちに、アンディは銀行での経験と能力を生かして、刑務所の所長たちに特別な待遇を受けるようになるが、その立場を生かして囚人たちも本を読んだり音楽を聴けるようにさまざまな努力をする。

 

牢獄に囚われて、何も希望を抱けない仲間たちにアンディが言う印象的な言葉がある。

「心の豊かさを失っちゃだめだ。」

「どうして?」

「どうしてって、人間の心は石でできているわけじゃない。心の中には何かがあるんだ。他の誰かが手に入れることも、触れることすらできないものがそこにはあるんだ。それは君だけのものだ」

「一体何について話しているんだ?」

「希望だよ。」

 

そして、「希望は危険だ」という親友のレッドに対して、アンディが言う。

「希望はいいものさ。最高のものかもしれない。そして良いものは決して滅びない。」と。 けれど、やがてアンディの無実が証明されるチャンスがきた時、刑務所の内部のさまざまな秘密を知ってしまったアンディには、釈放どころか、逆に命を奪われる危険が迫る。

そこで有名なセリフがある。

「選択は2つにひとつだ。必死に生きるか、必死に死ぬかだ」

 

この「必死に死ぬ」とは、どういう意味なのだろうと考えていた。 

人生のうちの50年間を刑務所ですごした年配のブロンクスにとって、刑務所は彼の居場所だった。

仮出所することになったブロンクスは、外の世界に戻ることを恐れて、わざと刑務所内で再び罪をおこして仮出所をやめさせてほしいとまで願う。

そう。彼にとっては刑務所の中ではあっても、そこは自分をよく知っている仲間たちの中で、自分自身のアイデンティティを保つことができたのだ。

仮出所をした彼は、めまぐるしく変化していた社会の中で、自分の居場所も存在意義も見つけられず、自殺してしまう。

 それは、彼にとって自分を失わないための、必死の死だったのかもしれない。 

 

ところで、夢の中に出てくる黒人や未開人のイメージについて、ユング心理学ではシャドウというアーキタイプ(元型)、すなわち自分のなかの未発達の可能性や影の人格、無意識のもう一人の自分、を意味していると解釈することがある。

人は自分自身の内なる未知の自分、自分の知らない自分の声に、時として耳を傾ける必要があるのだ。それは自分の影の部分であったり、自分の中でそれまで生かしてこなかった部分でもある。 

自分の中には、まだまだ未知の力が眠っている。未知なる可能性が眠っているのだ。

 

映画の中には沢山の象徴的なシーンがある。

刑務所の中で拾った鉱石を削って掘り出すチェスの駒、

知らないうちに深く掘りさげられていた、暗闇のなかのトンネル、

解き放たれるカラス、

一瞬のスキをついて囚人たちに聞かせた「モーツァルトのフィガロの結婚」、

土砂降りの雨の中でのシーン、

長い時間、大木の根本に埋められた箱、

そしてラストの美しい光あふれるシーン。

 

そう、他人があなたの心の中にある希望に触れることはできない。

けれど希望を奪われてしまったら、おしまいだ。

だから、必死に生きるか、必死に死ぬかしかないのだ。

 

「希望は危険だ」といったレッドが、もう一度自分を信じるとき、

それは静かだけれど、必死に生きようとする再生のときだ。わくわくする。

とにかく、ラストは美しい。

 

lucciora 2018-05-13 16:25 読者になる

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2018-03-31

「星の肉体」水原紫苑著より―短歌

想起・雑記 読書・備忘録

 興福寺少年阿修羅にかなしみを与えし仏師の背や広からむ

  

 風狂ふ桜の森にさくら無く花の眠りのしずかなる秋

 

 死者たちに窓は要らぬを夜の風と交はる卓の薔薇へ知らせよ

 

 うつくしき弥勒となりしあかまつのいたみをおもふ幸ひとして

 

水原紫苑さんの「星の肉体」より。

散文集と短歌からなる構成…。

能・歌舞伎・夢・歌人たちへの思いが、水原紫苑の感性を通して綴られている。

とても興味深い。

短歌、時々読みたくなるのだけれど、少しこれからは集中して

読んでみたいと思った。とくに古の歌人たち。

時間の流れかた、心のありかたが、このせわしい現代とは決定的に

ちがうような感じをうける。

そうした時間の感覚を、自分の中に見つけてみたい。

lucciora 2018-03-31 23:18 読者になる

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2018-03-28

願わくば 花の下にて…

想起・雑記

f:id:lucciora:20180328223025j:plain

大切なひとが、永遠の世界へと旅立ったことを知った。

何となく予感があった。

不思議なほど、静かな気持ちで受け止めている。

 

桜の満開の季節に、旅立つことはとても似合っているのかもしれない。

西行が好きな、たくさんたくさん旅をした人だった。

 

願わくば花の下にて春死なん

その如月のもちづきのころ

 

どれだけたくさんのものを、与えてくれたのかわからない。

穴の開いた袋のように、受けても受けても

流れていってしまったものが沢山あったのに、

おおらかに笑いながら、屈託なく与えてくれた。

大きくてあたたかい包み込んでくれるようなひとだった。

 

人と人はどこで出会っているのだろう。

物質のレベルだけではなく、目には見えない「心」の場所があって、

確かにそこの場所で出会えたひと。

そう思った人は、私にとってはこの人生では、ほんのわずかだ。

 

ある時間、深くかかわり、語り合えたことの奇跡に、感謝している。

そこで目に映った風景の鮮やかさ、美しさ、光の明度。

花の香りのかぐわしさや優しさ、

言葉が魂に触れることができること。

心からの信頼。

 

神への信仰に命をかける人は、その信仰を失うことがあるかもしれない。

だが、神そのものに命をかける人は、決してその命を失うことは無いであろう。

全然触れることのできないものに命をかけること。それは不可能である。

それは死である。が、それが必要なのだ。

 (シモーヌ・ヴェイユ 「重力と恩寵」より)

 

 

あたらしい旅は、きっと光輝く空間への旅なのだろう。

Buon Viaggio! 

そしてまた、いつか会えるときまで。

その時まで、私もひとつの魂として、成熟していけるように。

 

 

  

 

lucciora 2018-03-28 22:31 読者になる

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2018-02-11

小説「ポニーテール」を読みました。

想起・雑記 読書・備忘録
f:id:lucciora:20180211145722j:plain

ポニーテール

「だいじょうぶ。おねえちゃん、強いから」

「でも・・・」

「ほんとよ。マキってね、ひとりぼっちに強いの。みんなと無理してベタベタくっつかなくても平気な子だから」

「・・・・・友達がいなくても平気なの?」

「いないんじゃなくて、まだ出会ってないだけ。それまではひとりぼっちなのはあたりまえでしょ?だったら、ひとりぼっちなのを寂しがることなんてないし、無理やり友達をつくることもないでしょ?あの子って、そういうふうにものごとを考える子なの」

「ちっちゃなころから?」

「うん、いまのフミちゃんよりも小さなころから、ずっとそう。」

 不思議な気がした。自分の子供がひとりぼっちだったら親はふつう心配するはずなのに、お母さんの口ぶりは、それを応援しているみたいだった。(p74)

 

重松清さんの小説「ポニーテール」という作品を読みました。

重松清さんの小説「流星ワゴン」や「とんび」が好きで、また久しぶりに重松作品を読みたくなり、図書館で借りて読みました。

やっぱりとても好きな本でした。

 

この作品では、再婚同志の夫婦それぞれの連れ子の女の子2人が、はじめはお互いに関わり方がわからなくて、ギクシャクしてつらいのですが、さまざまなやりとりから、だんだんと心を近づけていく…とても繊細な少女の心の動きを描いた作品。

そして、まわりの登場人物の立場も、温かいまなざしで捉えられていて、どの人物にも何かしらの共感を感じられます。

 

人と人ってどうやって近しくなっていくんだろう。

どんな気持ちの動きがあったんだろう。

自分では気づいていないような、心のやりとりがあって、はじめて関わりって重なっていくんだよね…って、とても気づかされる作品でした。

 

年下の少女フミの亡くなったお母さんの視線も途中から絡み始め、この少女たちや家族の成長や、生そのものを死者の視線からとらえるシーンもあり、なんか泣きながら、あっというまに読んでしまいました。

そう、あの世からの視点でみれば、ねえ、生きていることは美しいことなのだと、

苦行を尽くした釈迦が、亡くなるときに「この世は美しい」といったと聞きますが・・・。

 

そうですね、この世の苦しみも悲しみも、生きているということの証なのですね。

いつも楽しいわけじゃないけど、でも生きているってそういうことなんですね。

途中、電車で読んでいたら、涙が止まらなくなり、あせって読むのをやめました。

 

このお姉さんのほうは、間違いなく「内向型」の少女。気持ちがわかりすぎました。

…そう、本当の友だちが見つかるまでは、一人だって平気…。

本当のともだちってなんでしょうね。私もよく、親友ってどんな関係だろうと思います。数少ないけれど、本当に長いつきあいの数人の友だち。

本当に深くかかわりあいたい相手が友達。

 

特別じゃなくても、どんな少女も少年も、おじさんもおばさんも…、みんな輝いてる。

誰かを大切にしたいと思っているならば。きっと。

そう感じました。

 

 

 

 

lucciora 2018-02-11 21:32 読者になる

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2018-01-24

静かな人の力…内向型人間の時代

読書・備忘録 想起・雑記

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内向型人間の時代/スーザンケイン著 より

備忘録的に書き写しています。

 

多くの内向型は同時に「過度に敏感(ハイリ―・センシティブ)でもある。この言葉は詩的に聞こえるかもしれない。心理学で実際に使われている表現だ。敏感な人は普通の人よりも、ベートーベンのソナタに深く聞きほれたり、スマートな言い回しや特別な親切に強く感動したりしがちだ。暴力や醜悪なものを目にしたり耳にしたりするとすぐに気分が悪くなりがちだし、道徳心が強いことが多い。子供のころは「内気」だと言われ、大人になってからも他人から評価されるのが苦手で、例えば人前で話すとか、はじめてのデートとかではいたたまれない気分になるだろう。内向型と過度に敏感な性質との関連については、この本の中で追って詳しくお話しする。(P20)

 

「私は一頭立て用の馬で、2頭立てにもチームワークにも向いていない・・・・

なぜなら、明確な成果を手にするためには、ひとりの人間が考え、

指揮をすることが欠かせないとよく知っているからだ。」

 ―アルバート・アインシュタイン(P89)

 

「これまで出会った発明家やエンジニアの大半は僕に似ている―内気で自分の世界に生きている。彼らはアーティストに近い。実際彼らのなかでもとくにすぐれた人たちはアーティストそのものだ。そして、アーティストは単独で働くのが一番いい。(中略)

もし君が発明家とアーティストの要素を持ったたぐいまれなエンジニアならば、ぼくはきみに実行するのが難しい助言をしよう―ひとりで働け。独力で作業してこそ、革新的な品物を生み出すことができる。委員会もチームも関係なく。

(P92) アップルの創始者スティーブ・ウォズニアックの言葉

 

著名な心理学者のハンス・アイゼンクによれば、内向型は「当面の課題に意識を集中させ、仕事と関係のない人間関係や性的な問題にエネルギーを浪費することを避ける」のだ。(つまり、人々がパティオで楽しく乾杯しているときに、裏庭でリンゴの木の下に座っていれば、あなたの頭の上にリンゴが落ちてくる確率が高いということだ。)ニュートンは偉大なる内向型のひとりだった。そして、ウィリアム・ワーズワースは自分自身を「永遠なる心、至高という奇妙な海を孤独に旅する」と表現した。(P94)

 

 カフカは執筆中には愛する婚約者でさえ近づけたがらなかったそうだ。

 ―― 僕が書いているそばで座っていたいと、君は言ったことがある。けれど聴いてくれ、そうすると僕は何も書けなくなってしまうんだ。なぜなら、書くというのは、自分をなにもかもさらけだすことだから。そうした極限の状態に身を任せているその場に他人が入ってきたら、正常な人間ならば誰だって身がすくんでしまうはずだ・・・・だからこそ、書くときにはいくら孤独でも孤独すぎることはないし、いくら静かでも静かすぎることもないし、夜の闇がいくら深くても深すぎることはない。

(P110)

 

もうひとつ、アーロンが気づいたのは、とても敏感な人は時として強く感情移入することだ。それはあたかも他人の感情や、世界で起きている悲劇や残虐な出来事と自分を隔てる境界が普通よりも薄いかのようだ。彼らは非常に強固な良心をもつ傾向がある。過激な映画やテレビ番組を避ける。ちょっと間違った行動を取れば、どんな結果が生じるかを、鋭く意識する。他の人たちが「重すぎる」と考える、個人的な問題のような話題に関心を注ぐことが多い。(P175)

 

内向型が外向型よりも賢いということではない。IQテストの結果からして、両者の知性は同等だ。そして、課題数が多い場合、とくに時間や社会的なプレッシャーから、複数の処理を同時にこなす必要があると、外向型の方が結果がいい。

外向型は多すぎる情報を処理するのが内向型よりもうまい。内向型は熟考することに認知能力を使い切ってしまうのだと、ジョセフ・ニューマンは言う。何らかの課題に取り組むとき、「100%の認知能力のうち、内向型は75%をその処理にあてるが、外向型は90%を充てる」と彼は説明する。これは大抵の課題は目標を達成するものであるからだ。

外向型は当面の目標に認知能力のほとんどを割り当て、内向型は課題の処理がどう進んでいるか監視することに認知能力をつかうのだ。(P214)

 

内向型の人は、自分が重要視する仕事や、愛情を感じている人々、高く評価している事物のためならば、外向型のようにふるまえる。(中略)

リトルによれば、内容が重要であり、自分の能力に適し、過度のストレスがかからず、他人の助力を受けられるようなコア・パーソナル・プロジェクトにかかわるとき、

私たちの人生は大きく高められる。(P262)

 

内向型の特性を磨く方法

内向型の子どもに理想的な教育環境

★内向型の子どもはひとつか二つだけの物事に興味を抱くことが多く、それを仲間と分かち合うとはかぎらない。時には型破りな情熱で興味の対象に取り組むが、そうした集中は才能を発展させるために必要とされるものだ。彼らが興味を頂くことをほめ、熱心に取り組むよううながし、心を同じくする仲間を見つけるのを助けてやろう。

クラス内にいなければ、クラス外にみつかるかもしれない。(P326)

 

最後に一つ。内向型の我が子がどう考えても学校の人気者ではないと思っても、

心配しないように。子供の発達の専門家によれば、ひとりか二人とのしっかりした友情は子供の感情的。社会的発育にとって非常に重要だけれど、人気者である必要は無いのだ。内向型の子どもの多くは、成長すれば、素晴らしい社会的技能を身につける。

ただし、彼らなりのやり方で集団と関わるので、打ち解けるのに時間がかかったり、短時間しか付き合わなかったりするれはそれでいいのだ。社会的技能を身につけたり、友達を作ったりする必要はあるけれど、なにも学校で一番社交的な子供になる必要はない。だからといって人気者はつまらないという意味ではない。たぶんあなたは、我が子に用紙や頭の回転の速さやスポーツの才能を期待するのと同じく、人気者であって欲しいと願うだろう。けれど、自分の期待を押し付けず、満足できる人生を送るためにはいろいろな道筋があることを忘れないようにしようではないか。

(P330) 

 

lucciora 2018-01-24 22:02 読者になる

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2018-01-07

気質の北極と南極

読書・備忘録

f:id:lucciora:20180107214243j:plain

 

内向型人間の時代/スーザンケイン著 より

備忘録的に書き写しています。

 

私たちの人生は性別や人種だけでなく、性格によっても形づくられている。

そして、性格のもっとも重要な要素は、ある科学者が「気質の北極と南極」という言葉で表現した、内向・外向のスペクトルのどこに位置しているかである。この連続したスペクトルのどこに位置しているかが、友人や伴侶の選択や、会話の仕方や、意見の相違の解消方法や、愛情表現に、影響をもたらす。(p7)

 

人類の歴史が記されるようになってこのかた、詩人や哲学者は内向型と外向型について考えてきた。いずれの性格タイプも、聖書やギリシャ・ローマの医者の記述に登場し、この二つの性格タイプの歴史は有史以前にまで遡れるとする進化生物学者もいる。動物たちの世界にも「内向型」と「外向型」があるというのだ。(中略)男らしさと女らしさ、東と西、リベラルと保守といった相補的な組み合わせと同じように、この二つの性格タイプがなければ、人類は特別な存在にはならずに衰退しただろうと考えられているのだ。(P6)

 

多くの内向型がそれを自分自身にまで隠しているのには、それなりの理由がある。私たちは外向型の人間を理想とする価値観の中で暮らしている。つまり、社交的でつねに先頭に立ちスポットライトを浴びてこそ快適でいられる、そんな自己を持つことが理想だと、多くの人が信じているのだ。

 

内向性は、その同類である感受性の鋭さや、生真面目さ、内気といった性格とともに、現在では二流の性格特性とみなされ、残念な性格と病的な性格の中間にあると思われている。外向型を理想とする社会で暮らす内向型の人々は、男性優位世界の女性のようなもので、自分がどんな人間かを決める核となる性質ゆえに過小評価されてしまう。外向性はたしかに魅力的であるがゆえに、おしつけられた基準になってしまっていて、そうあるべきだ、と大半の人々が感じている。(p7~8)

 

だが、外向型の人間を理想とする考えを、そのまま鵜呑みにするのは大きな間違いだ。進化論からゴッホのひまわりの絵、そしてパソコンにいたるまで、偉大なアイデアや美術や発明の一部は、自分の内的世界に耳を傾け、そこに秘められた宝を見つけるすべを知っていた、物静かで試作的な人々によるものだ。内向型の人々がいなければ、つぎのようなものは、どれも存在しえなかった。

 

重力理論(サー・アイザック・ニュートン)

相対性理論(アルベルト・アインシュタイン)

詩「再臨」(W・B・イエイツ)

ショパンのノクターン(フレデリック・ショパン)

失われた時を求めて(マルセル・プルースト)

ピーターパン(J・M・バリー)

「シンドラーのリスト」「E.T」「未知との遭遇」(スティーブン・スピルバーグ)

グーグル(ラリー・ペイジ)

ハリー・ポッター)(J・K・ローリング)

 

科学ジャーナリストのウィニフレッド・ギャラガーが書いているように、「刺激を受けた時に、急いで反応するのではなく、立ち止まって考えようとする性質が素晴らしいのは、それが古来ずっと知的、芸術的偉業と結びついてきたからである。アインシュタインの相対性理論もミルトンの『失楽園』も、パーティ好きな人間による産物ではない」のだ。(p9)

lucciora 2018-01-07 21:45 読者になる

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2017-12-23

「内向型人間の時代/スーザン・ケイン」を読み始めました。

読書・備忘録 想起・雑記

 

内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力

「内向型人間の時代/スーザン・ケイン著」を読んでいます。

最近、心理学の分野で、HSP(ハイリ―センシティブピープル)という

「とても敏感な人たち」の特性についての研究と共に、「内向型」というユングのころからもあったテーマも割とよく目にするなと思っていて。

読んでみると、まさに、自分はずっと間違いなく内向型、という自覚があったけれど、

ほんとうに、まあそういう事なんだよなと、よくわかってもらえて嬉しい、というか

こう考えたらいいんだな、という事もあり。おもしろいし為になります。

ついにそうしたことが、本として何冊も出版されるほど研究されてきたのだと思うと、なんか個人的にありがたいです。私は下の簡単なチェック、全部〇でした。

・・・というか、自分で自分を分析するときに、出した答えそのものでした。

 

あてはまると思えば〇、あてはまらないと思えば✖、迷ったら比較的近い方を選ぼう...

 □グループよりも1対1の会話を好む

□文章の方が自分を表現しやすいことが多い

□ひとりでいる時間を楽しめる

□周りの人に比べて、他人の財産や名声や地位に

それ程興味がないようだ

□聞き上手だといわれる

□大きなリスクは冒さない

□邪魔されずに没頭できる仕事が好きだ

~省略~

□外出して活動した後は、たとえそれが楽しい体験であっても、

消耗したと感じる

□忙しすぎる週末より、なにもすることがない週末を選ぶ

□一度に複数のことをするのは楽しめない

 いかがでしたか。

lucciora 2017-12-23 16:44 読者になる

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2017-12-09

星野道夫さんのことば

想起・雑記 読書・備忘録

 

星野道夫さんの言葉。

―――

きっと、同じ春が、すべての者に同じ喜びを与えることはないのだろう。

なぜなら、よろこびの大きさとは、それぞれが越した冬にかかっているからだ。

冬をしっかり越さないかぎり、春をしっかり感じることはできないからだ。それは、

幸福と不幸のあり方にどこか似ている。

―――

結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。

そして最後に意味をもつのは、結果ではなく、

過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。

 

頬を撫でる極北の風の感触、

夏のツンドラの甘い匂い、白夜の淡い光、

見過ごしそうな小さなワスレナグサのたたずまい・・・・・

ふと立ちどまり、少し気持ちを込めて、

五感の記憶の中に、そんな風景を残してゆきたい。

何も生み出すことのない、ただ流れてゆく時を、大切にしたい。

あわただしい、人間の日々の営みと並行して、

もうひとつの時間が流れていることを、

いつも心のどこかで感じていたい。

(Michio's Norethern Dreams オーロラの彼方へ より)

オーロラの彼方へ―Michio’s Northern Dreams〈1〉 (Michio’s Northern Dreams 1)

―――

ほんとうに求めているものはなんなのだろう。

気が付けば、もうずっと考えているのに、

わかったような気がしては、また戻ってきている。

螺旋階段のように、少しずつ近づいているなら良いけれど…

 

そう、このあわただしい日々の営みのなかで、

感じなくてもよい(多分)孤独を感じたり、

…それなりにちゃんとやっているはずだけど。

さあ、どうなんだろう。

漠然としたさみしさが、たちのぼってくる。

それも自分のなかでは、自然なんだけれども…。

 

星野道夫さんの言葉は、そんな夜の一服の薬だ。

そう、こんな人が生きていたんだ。

なかなか現実には、出会えないけれど。

そう、でも、そんな優しいひとにも、

ちょっと思い起こせば、出会ったことがあるかもしれない。

 

空には満天の星、

風は甘い香りをふくみ、

木々の葉が揺れる音、

海の波の静かにうちよせる音が聞こえてくる。

自分が宇宙の生命のなかに包まれていることを

思い出させてくれるから。

 

lucciora 2017-12-09 21:24 読者になる

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2017-12-08

映画「火花」―誰が時代を作っているのか?

映画 想起・雑記

youtu.be

 

先日、映画「火花」を観てきました。

中学時代からの友達と、映画を観てランチしようかということになり、

吉祥寺のオデオンで観てきました。

 

…じつは私はお笑い番組とか全然見ないし、笑いのセンスもまったく無いのですが。

原作の「火花」はあふれるような言葉のエネルギーが面白く、

一気に読んでしまいました。

それで、どんな風な映像になるのか、ちょっと観たくなりました。

 

レビュー見ると大抵皆さんが書いてますが、菅田くんて才能ありますよね。

若いのに、自分とは全く別の経験をしている人のことを、リアルに演じるって

すごい感性。

実際うまい、と思うのですが、それ以上に「観ている人に共感を起こさせる能力」

とでもいうのか…、ひきこまれます。

自分の中にもあったよな、こういう時間、こういう表情、こんな風景、

友達のセリフ。 

 

映画の中で、徳永と神谷の漫才の相方をやってる芸人の方たちも、

当然のことながらリアリティあって、それぞれすごく良かったし、

桐谷健太の神谷役もよかったです。

 

原作の中で徳永が語る、神谷への気持ちの変遷、10年間の時の中でも心の機微、

それらすべては、言葉としては短い映画の時間には入りきらないのですが、

映像としての説得力はあります。

 

個人的には、原作のあふれるような「言葉」の中にあるもの、

そう火花、というより、本の表紙の絵みたいな、

心の中のマグマみたいな「熱」みたいなもの、

それも好きだったのであわせて観て欲しい作品。

 (以下若干のネタバレになるかもしれません。)

 

神谷は結局、自分のなかの笑いに対して純粋であるがゆえに、そして

ある意味エキセントリックというか、社会の枠からはみ出してしまっているがゆえに、

社会的には受け入れられず、だんだんと自分の本質すら見失いそうになるのですが・・・。

結局、芸人をめざしても、ほんの一握りの人間しか残らない。

ほとんどの人間はその世界から、シーンからは消えていく。

それは、あらゆる表現に関わることはすべてそうだと思います 。

音楽も、アートも、舞台も、身体表現も、文学も…。

 

だけど、神谷が喝破するように、シーンにあがってこない無数の人間も、

やっぱりその時代を作っているんだと。

シーンの裏側でさまざまな役割を演じてるんだということ。

そういう意味では、一緒に作ってるんだという事を思っていいんだと。

そう、みんな参加しているんですよね。

心のなかの燃えカスが、ちょっとうずいたシーンでした。

 

 

 

lucciora 2017-12-08 12:14 読者になる

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2017-10-15

映画のなかの色彩~青いパパイヤの香り

映画 想起・雑記

青いパパイヤの香り [DVD]

 

五月に花は咲くけれど 

それは去年の花ではない 

人はいくたび恋しても    

最初のキッスはいちどきり

(青い小径 竹久夢二)

 

映画の中の色のイメージから思いつく、さまざまな愛について

つらつら思いつくままに書いています。

 

実はこの映画を観たのは、イタリアのミラノでした。

イタリアについたばかりで友達もいない冬のある日、

町のシネマクラブ?コミュニティサロン?のような場所で、

この映画がかかっていて、ひとりで観に行きました。

 

当然のことながら、まだ言葉も全然わからず、

くわしい意味はとれませんでした。

それでも、この映画はずっと印象に残りました。

 

青いパパイヤの香り、青といっても原題はverteなので、緑ですね。

日本では、みずみずしい緑色を青と呼びますね。

 

パパイヤのみずみずしい香りが感じられるような生き生きとした情景、

微細な光の美しさ、少女の邪気のない笑顔。

 

舞台は1951年ベトナム、サイゴン。

田舎から奉公にやってきた10歳の少女ムイの成長を描く作品。

…大人になったムイの恋もよかったのですが、やはり個人的には

少女時代のムイの無垢な美しさ、輝きが、印象に残りました。

 

青いパパイヤの香り。

その芳香は、これから何度も出会うかもしれないけれど。

けれど…少女の額を流れる汗が光っている、

これはその瞬間だけのものなんだなと、

なにか強烈に感じたのを覚えています。

 

当時、自分も若かったですが、

時がどんどん流れていくことを、

今よりも強く意識していたのかもしれませんね。

 

夢二の詩のように、

”人はいくたび恋しても 最初のキッスは一度きり”

 

一回性というのか。

竹久夢二も、心のなかの永遠の少女像を、

追い求めた画家ではないかと思いますが、

 

”5月に花は咲くけれど、それは去年の花ではない…”

春は何度も来るけれど、同じ春は来ない。

 

青さ、若さ、そうしたものの輝きを見るとき、

なにかそうしたセンチメントが起こるのは、

とらえがたさ、そんなものへの憧れなのでしょうか。

 

無常感と初恋のはかなさ。

それが青いパパイヤの香り、なのでしょうね。 

lucciora 2017-10-15 15:27 読者になる

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2017-10-08

映画のなかの色彩~ショコラ

映画 想起・雑記

 

ショコラ [DVD]

秋なので、愛についてひさしぶりに?考えてみたくなったからなのか、

映画や音楽の中の愛について…ぱらぱらと思いつくことを。

 

大抵の映画や音楽はなにかしら「愛」をテーマにしていると思います。

タイトルにずばり「愛」という言葉がはいっているものも

すぐに思い浮かぶくらい。

恋愛、家族愛、宗教、自然、国、宇宙、動物、音楽、表現・・・、

それらのものに向けた愛なのでしょう。

 

以前、映画のなかの色について、考えていたことがありました。

とりあえず秋だから「ショコラ」を選んでみました。

 

チョコレートの色は秋の色のような気がします。

つやつやとした栗やドングリやチョコレート。

決して派手ではないけれど、温かみを感じさせるほっとする色です。

 成熟の色です。

 

この映画、大人のファンタジーともとれますが、女性にとっては

心のなかの自己の確立をテーマにしているような気がしました。

とても好きなタイプの映画でした。

 

 心の自由を失わずに、自分と折り合いをつけながら、自立すること。

かわいらしさや、愛情をわすれないで、歳を重ねていくこと。

 小説などを土台にした映画などでは、シチュエーションが日常的なので

まるで本当にあったこと・・・のように感じていたりしますが、

この映画は、随所のストーリー展開が「ありえなさそう」だけど

楽しくてわくわくして、

これはファンタジーだと思いながらも、見終わってみると、

ヨーロッパの小さな村なんかでは、これと近いことが

本当にあったことのような気がしてしまいました。

映画に対する共感というものでしょうか。

 

ジョニー・デップは、いくつかみているのですが、とくに私が好きだったのは

「妹の恋人」「フェイク」そしてこの「ショコラ」です。 

 

人恋しい季節ですね・・・。

 

lucciora 2017-10-08 16:12 読者になる

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2017-09-22

消された愛だけが 思い出になるのです

想起・雑記

 

f:id:lucciora:20170922221806j:plain

秋の夜長に読みたい本は?

 

そうですね。秋はなんだか詩を読みたくなりますね。

とくに、愛について、もっと深くかんがえてみたくなります。

神様の愛、親の愛、友愛、男女の愛、仏様のは愛ではなく慈悲、でしょうか。

 -----

 

鉛筆が愛と書くと
消しゴムがそれを消しました
あとには何にも残らなかった

ところで 消された愛は存在しなかったのかといえば
そうではありません

消された愛だけが 思い出になるのです
 
 

寺山修二「消す」

--------------

もうひとつ、今夜また思い出した歌。

 

闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば 生れぬ前の 父ぞ恋しき

 

一休さん作とも、白隠さん作とも、言われているようです。

暗闇の中の真っ黒いカラス。

闇の中で鳴きもしないその声を聴く。

心で聴いているのでしょうね。

…それを聞くとき、生まれぬ前の父を恋しく思う。

この「生まれぬ前の父」とは何なのか・・・。

 

キリストとも如来とも、自分を育ててくれた親とも、さまざまな解釈があるそうです。

そうした隠された、深い愛に、気づくことができる秋ですように。 

 

今週のお題「読書の秋」

lucciora 2017-09-22 22:24 読者になる

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2017-05-05

シェーファー バリアント

想起・雑記 文具

f:id:lucciora:20170505165953j:image

前回万年筆について書きましたが、いつもより沢山の方が見に来てくださったようです。

万年筆好きな方、結構いるんですね。嬉しかったです。

 

これが私の1番お気に入りの万年筆です。

1940〜50年代のものだと思います。

名前はシェーファーバリアント。(だったと思うのですが…まちがっていたら、教えてください)

 

まず、ボディーの色が気に入ってます。ビンテージ万年筆ファンのサイトpenheroで見ると「ペルシャンブルー」というカラーなのでしょうか…この色、私にはなにか懐かしい色なのです。

 

調べて見ると、ペルシャンブルーとは、もともとラピスラズリの色、紺青を指すらしいです。

ラピスラズリが大好きなので、今更ながら、このペンをひと目で気に入ったのも納得です。

キャップにあるシェーファーのトレードマークのホワイトドットもかわいい。

http://www.penhero.com/PenGallery/Sheaffer/SheafferTouchdownEarly.htm

 

ペン先は14金の個性的な形で、トライアンフと呼ばれるものです。書き味は硬めです。でも、インクの出が程よくて、するすると書けるので、ストレスフリーなのです。

 

インク吸入は、タッチダウン方式といって、現在ではほとんど見ない吸入式です。

ちなみに、どのようにインクを入れるかというと、

後ろのペン軸に一体化している一部分を、インクを入れるときに上に引き上げてから、インクボトルの中にペン先全体を入れます。

そしてボトルの中で、後ろの部分を下にぎゅーっと押すとインクがシュワーと中に入ってくるのです。

 

これが結構気持ち良くてですね…

しばらく文章を書いてインクが無くなったころに、ちょっと儀式的な感じで、ひと息いれながらインクボトルを開けて・・・というのが癖になります。

 

昔の万年筆のデザインは一本一本、味があってとても好きです。

古いペンでも、ペン先がちゃんとしていれば、まだまだ書けるものも多いです。気が向いたらビンテージ万年筆のお店とかに、遊びに出かけてみてはいかがでしょう。

 

東京での個人的なおすすめは、ユーロボックスさん。なんだかんだ時間が無くて、もうずいぶんお邪魔していないのですが。手頃な価格のものも、当時は結構ありました。

http://euro-box.com/

楽しいペンが沢山あった覚えがあります。

ではまた。

 

 [http://blog.hatena.ne.jp//odai/6653586347148057610:title=お題「お気に入りの文房具」より

 

 

 

lucciora 2017-05-05 21:05 読者になる

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「詩人が詩を書くのは、自分と同じ言葉を話す人間を見つけるためだ。」ジャン・コクトー

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