lucciora’s diary 蛍日記

共感する魂を求めて・・・。 自分の心に響いてきた本、映画、表現など、備忘録的に書き留めています。どうぞよろしく。

◆イタリアン・バロック①「イゾラ・ベッラ」◆ イタリアが好きな100の理由 

 

イタリアが好きな100の理由、ちょっと書けないでいたら、コロナの状況が幾分和らいできて、イタリアでも街に人が戻りつつあるようで良かった。

今日は、イゾラ・ベッラという島のことを少し。

 

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イタリア、ストレーザ、マッジョーレ湖のイゾラ・ベッラ

 

私の中でヴェネツイアとともに「やっぱりイタリアは特別だろう!」と思ってしまう場所が「イゾラ・ベッラ」という島。

 

 

高校時代だったか、友人からすすめられて澁澤龍彦著『ヨーロッパの乳房』を読んだ。

ヨーロッパのバロック的なる場所を旅して書かれた数々の断章から成る本の中に、「イゾラ・ベッラ(isola bella:美しい島)」という、北イタリアとスイスの間のマッジョーレ湖にある小さな島についての章があった。それを読んで、いつか絶対行きたいと思った。本の中の白黒写真で見たその部屋の風景の中に、いつか自分も立ちたいと思った。

そして大学時代、ローマの語学学校に短期留学した時に、その旅の中で訪れたのだった。

 

もともと海や湖が好きなので島も勿論大好きなのだが、この島はバロックの島…

庭園には白いクジャクが放たれ、世界中から集めたエキゾチックな植物が島のあちこちに植えられていて、地下の洞窟部屋や何世紀も前の本が並ぶ図書館もある、まさに幻想の島なのである。

 

期待と不安?とともに洞窟の部屋にたどり着き、目にした空間は「こ、これはなんなんだ?」と、思わず笑いがこみあげてくるような、「いくらなんでもやりすぎでしょ…」と思わずつぶやいてしまうくらい溢れんばかりの、過剰な、驚異の部屋だった!

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でもそこは、不思議な生命力にあふれていて、私にとっては気持ちの良い場所でいつまでも飽きることもなく眺めていた。

窓の外には湖の水面が夏のまばゆい光を反射して輝いていた。

 

この島をボロメオ家の当主が1630年に買い取り、庭園を作り上げるのに40年かかったという話。イタリアの貴族文化というか美へのこだわりというか、やっぱりスケールが違いすぎて思わず笑ってしまう。

このような日常から逸脱したひとつの島を、何百年も前に「実際に」作ってしまい、(多くの人間にとって、それはファンタジーでしかないと思うのだが、)それを今に至るまで維持している・・。そして今でも、夏になるとボロメオ家の人たちは利用していると、当時書かれていた。今もそうなのかわからないけれど、芸術的なものや美しいものに対する敬意や愛は見習いたいものだ…。

貝殻や螺旋、ガラス、大理石、そして庭園、中庭・・・。それらは私をいつも魅了する。自分をワクワクさせる「視覚的」「質的」要素について…今更ながら考えたりもする。

 

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以下、澁澤龍彦さんの『ヨーロッパの乳房』から少し引用してみよう。

  

“このボロメオ宮殿には、フランドルの壁織物のある長廊下、タブローのある部屋、音楽室、図書室、大階段、賞稗(メダイユ)のある部屋など、美術的にも見るべき部屋が多くあったが、なかでも私がいちばんおもしろいと思ったのは、六つの洞窟(グロッタ)風の部屋であった。

砕いた大理石の破片や砂利や金属で、モザイク風に周囲の壁や床を固め、貝殻の装飾を各所にあいらい、海の底の雰囲気を再現しようとしている。湖水の側の窓はアーケードのように大きく割りぬかれていて、涼しい風がそのまま入り込んでくるようにしてある。これらの部屋はおそらく宮殿の最も低い場所、水面すれすれの場所にいちしているのであろう、ひんやりとした底冷えの感じがする。たぶん、夏の暑さを避けるための部屋であろう。

この六つの洞窟風の部屋には、インドの彫像や支那の人形、地質学や古生物の標本、古い骨壺や盃や装身具や武具、それに馬具のコレクションなどがそろっていて、優に民族博物館に匹敵する豊富さであった。”

渋沢龍彦『ヨーロッパの乳房』より)

 

そして今回書きつつ、イタリアン・バロックが好きだったんだ、ということを思い出したので、次は他のイタリアン・バロック的なものについても書いてみようと思ったのでした。ではまた…。

 

イタリアが好きな100の理由  ◆文房具1◆

イタリアの好きなもの。今回は文房具編…。

 

もともと文房具は大好きだけれど、とくに紙モノが大好きで誘惑に負けてしまいがちです。

ノート類は表紙の美しいものや、紙質の変わったもの、サイズ感が絶妙なものを見つけると、つい欲しくなってしまう。イタリアの紙はそれぞれに個性的すぎるというか、紙一枚にも「世界」や主張がある(ように思える)。他のヨーロッパのデザインでも、ドイツなどは質実剛健な感じで余計な柄や模様が無い気がするし、フランスなどは綺麗めなデザイン。どれも良いけど、私はこのイタリアのルネッサンスバロックもあったよね… みたいなデザインが大好きなのです。

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上のノートはマーブル紙の表紙。

模様を見ているだけでなんだか贅沢な気持ちになれるのです。

職人さんが一枚一枚、インクを水に垂らして模様を描き手作りで作っているので、

同じ柄のものは無いという。この技法はもともとは日本の墨流の技術からインスパイアされて生まれたものらしい。

 

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 確かトスカーナ地方のLuccaという町だっただろうか。老舗っぽい感じの文房具屋さんだったか、紙製品の専門店ぽいところだったか、出会って一目ぼれした記憶。

でも何しろ20年ほど前なので、まだお店があるかどうかは…。中のページがオレンジ色なのがたまりません。

 

下はミラノの大好きな文具店PETTINAROLIで見つけた。お店が未だあるのだろうかと心配になりつつ見てみたら、ありました。場所が変わっていたけれど。www.fpettinaroli.it

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ワクワクしますよねーー。こんなお店。1881年創業です。何しろ紙の種類も、文房具の種類も豊富だし、洗練されていて、デザインも最高(好みがあるので私にとっては、ですが。)

下左はタロットカードの表紙のノート。中のページの紙はざらざらした色付きの紙で4色にわかれている。右側は手書きっぽいチェスのモチーフ?タロットカードのノートと同じ種類で中のページの紙がざらざらしている。タロットカードがここまで並んでる紙表紙って、私にとってはもう絶対買うしかないのだけど、これ好きな人ってマイナーなのかな、とかお店で考えてしまった。(その後、私なら花札で作りたいと思い、家でカラーコピーして作ったこともある。)サイズはB4とB5くらいのサイズ感。
 

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上の植物標本みたいな雰囲気のもの。同じくミラノのPETTINAROLIで。表紙もかわいいのだが、紙の裏側にもプリントがほどこしてあって、良い感じの厚みのある紙なのがなんとも言えない味わいがある。

 

下のペーパーウェイトはヴェニスのガラス工場を知りあいと見学をしたときに、このペーパーウェイトを見せてもらって「すごい!素敵!」と興奮していたら、おじさんが「試作品だけどあげるよ」とウィンク。え?本当に良いの?  

スカラベの形のペーパーウェイトは13センチくらいある。ずっしり重い。そして裏にはヒエログリフが刻まれているのです。

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下も同じく、ヴェニスだったと思うけれど、ガラスのペーパーウェイト。

じーっと見つめていると、自分の記憶ではなくて「ガラスの記憶」のほうに、意識が近づいて行ってしまうような…。この色合いがすてき。
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 ペーパーウェイトって実際ほとんど使わないのですけどもね。なんか綺麗で。(笑)

 

文房具店を見つけたら、日本でも大抵入ってしまうのだけれど、イタリアのちょっと田舎町の古そうな文具店で、ずっと昔の商品が売れ残っていたのをそのまま売ってる、みたいなものを当時はたまに見かけるのが楽しかった。レトロ、なんだけど日本とは違う色とデザイン。今はもうなくなっているのかな、あんなお店たちは。

あと、古いポストカードとかも大好きですね。写真がよくって。

今とはあきらかに違うデザインの流行や色合いなどからは、「その時代」を確かに感じられて、なんというか感慨深い気持ちになってしまう。自分がイタリアのその時代をよく知っているわけでもないのにおかしいですね。

色やデザインから勝手にその時代をイメージしてしまう…。文房具は愉し。

 

~コロナウィルスの海外での状況を見るにつけ、かつて留学したことのあるイタリア(今でも友人が何人かいる)の状況がかなり心配だったので、イタリアの好きなもの、こと・大切な思い出などを書いて、自分なりのエールを送ってみたくなりました。~

 



 

イタリアが好きな100の理由  ◆すべての道には名前がある◆

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写真はイタリアで買った絵葉書より。ローマのVia della Pace。

Via=通り、 Pace=平和、平穏のような意味なので平和通り…とか?

イタリアの道には、すべて名前がある。山の中の道などはわからないけれど、都市ではおそらくすべての道に。

 

大学在学中の夏休みにローマの語学学校に行った。どんな条件だったのかよく覚えていないのだけど、イタリア文化会館の語学留学のプログラムで、イタリア語を勉強したい大学生に、語学学校の代金は無料で交通費と滞在費は自分持ちで留学を斡旋してくれるというようなプログラムがあったので応募したところ、(応募者が意外と少なかったのか?)行けることになったと記憶している。…なにしろかれこれ30年前なので、曖昧ではある。

神殿の廃墟や遺跡が好きで、漠然とイタリアに憧れていた。

当時イタリア語はまったくの初心者で、イタリア語講座をテレビやラジオで聞いて、

簡単な自己紹介や「どこどこへ行きたいのですが」くらいしゃべれる状況での出発だった。

語学学校は1カ月コースと2週間コースがあったが、とりあえず2週間学校で語学を学んでそのあとはフィレンツェアッシジ、ヴェネツイア、ボローニャなどを1週間くらいだっただろうか、旅行をした。

 

語学学校はローマのスクールを選んだのだが、まず町中のすべての通りに名前があることに感動し、さらに通りの名前が大理石に刻んであることに驚き、石の文化すごいな、大理石の国なんだと感動したものだった。

通りの名前には歴史上の有名な人物の名前も多く、科学者、芸術家、哲学者、作家、などなど見飽きることが無い。

コペルニクスからボッカチオ、ダンテ、ゲーテ、ダ・ビンチ、ミケランジェロ、カラヴァッジョ、などなど・・・。そして名前の下には生年と没年が記してある。好きな芸術家の名前が続く区画などは自分の中でも何か良い場所のように感じたりした。

 

言葉や文字が好きということもあるのだろう。

名前の由来を知るのも好き。だから日本の地名でも、名前からその場所の歴史を考えたりするのは大好きなのだ。そんなわけですべての道に名前があるのはすごい面白いなあと思った。イタリアの道の名前の場合は、都市の自治体がつけているらしいので、とくに名前とその場所の組み合わせに意味があるわけではないケースがほとんどかもしれない。

にもかかわらず、Via Dante Alighieri(ダンテ・アリギエリ通り) という通りに老舗の本屋さんがあると、ぴったりだなとうれしくもなるし、ふと迷い込んだ場所で見上げた町の一隅の名前が Largo Jorge Louis Borges(ホルヘ・ルイス・ボルヘスの通り道)だった時などは、思わず苦笑いしつつ楽しめたり…

通りに名前があるので、地図さえあれば初めて行った町ですら、たとえ方向音痴であっても、ほぼ問題なく町中を歩けるのもすばらしい。

 

イタリアの町を織りなすすべての通りに名前があることは、何かイタリアらしい感じがする。国民の気質的なものかもしれないが、人間が生き生きしている感じ。沢山の人達の生きた道が、この町を作っていると感じさせるのだ。

それは、町並みからも感じる。たとえばローマなら、あらゆる時代の遺跡がある。古代ローマからビザンチン、中世からルネサンスバロックと…あらゆる時代を生きた人々の息遣いがまだ聞こえてくるような気がするときがある。

そして、それは名前のあるひとたちだけではない、無数の人たちのやり取りや人生が、この町を作ってきたのだと、ふとそんな気持ちを抱かせてくれる石畳の道なのだ。

 

 

イタリアが好きな100の理由  ◆ヴェネツィアン グラス◆

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イタリアの中でもヴェネツィアが好きです。

写真(手前)は20代のころイタリアに留学していた時に、私を訪ねてきた母とイタリア内を旅行して、ヴェネツイアで母が買ったもの。その母が亡くなり、今は私の手元にあります。

買った日のことは今でもよく覚えています。ヴェニスの町中を散々歩き回って沢山のヴェネツィアングラスのお店をのぞいた後、兄のお嫁さんへのお土産にと、このグラスを買った母。・・・しかし、ホテルに帰って「やっぱりどうしても自分の分にもこのグラスが欲しい!」ということになり、翌日もまた結構な道のりを歩いて同じお店に行ったのでした。(笑)

でも、このグラスとても綺麗で気に入っています。あの時母が買ってくれて良かった。なんとも言えない微妙なガラスの色彩、ガラスなのに何かぬくもりを感じさせるのは、職人さんが一つ一つ手作りしているからでしょうか。

真っ赤に溶けたガラスに息を吹き込んで膨らませて転がして。

ガラスはもともと大好きで、日本のものや古代ガラスも好きですが、ヴェネツィアングラスは一目見ただけで、人の気持ちをうわあ!と感動させる魅力があります。

 

ヴェニスはイタリア屈指の観光地でもあり、夏は観光客の多さや運河のにおいがひどいなど色々言われますが、私にとってあの町はやはり特別ユニークで美しい町。「ナポリを見て死ね」ということわざもありますが、「ベニスに死す」というヴィスコンティの映画もありました。あの町を見れて良かった。

 

ヴェネツィア派の絵画の色彩が美しいのは、光の中に水の要素が多く含まれていて、色が鮮やかに見えるからだと聞いたことがあります。

キラキラしている。そう感じるのです。

 

町の中を運河が流れていて水上バス(船)で移動。車は通れないので、歩きか自転車というのも良いです。地元の人は自家用船も。観光客はゴンドラに乗ったり。

 

私はベニスビエンナーレという美術の祭典の時にも何度か行ったのですが、夕暮れ時に水上バス(ヴァポレット)に乗った時に見える、ゴシック、バロック時代の建物が運河沿いに建っていて、ランプの灯りでライトアップされている様はまさしく幻想的で、何百年も前の街に紛れ込んだような気持になります。

そうですね。きっと古いものが大好きなんです。

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イタリアには4年くらい留学していましたが、その経験は結局、今の自分には現実的には役立ってはいません。けれど自分の人生の中で、そして心の中ではかなり大きな広がりを今でも持っています。

日本に戻ってきた時、知人に「全然イタリアナイズされてないね」と笑われた私。いわゆるイタリア人らしさのイメージ(mangiare,amore,cantare=食べて、愛して、歌って・・・)からはたしかにほど遠い人間なのですが、そんな私にとっても、イタリアは特別で愛すべき大切な国です。

 

帰国して早20年以上…今でもイタリアに何人か友人がいます。

コロナの被害がヨーロッパの中でもひどかったイタリアの情報を見ると、胸が痛みます。日本も状況も良くはないですが、ヨーロッパの医療崩壊の状況を見ると悲しくなります。

 

コロナウィルスの最も恐ろしいところは、悪化してもう命が助からない、となったときにすら、感染を避けるために、親しい人と隔離されて、人生最後の大切な時間を孤独に過ごさなくてはいけないことなのではないかと感じています。本当は大切な人たちに囲まれて過ごすべき大切な時間を。

そんなことをつらつらと考えているうちに、イタリアの好きなところを自分なりに綴ってみたくなりました。そうすることで自分なりのエールを送っているつもり。

そして、あらためてイタリアのどんなところが自分の心を捉えたのだろう…と考えてみたくなりました。人生も折り返し地点を過ぎたと思うので、自分自身のふりかえりにもなりそうだし。

100の理由、といっても100書くかはわかりませんが、たくさんあるなということで100に。「理由」というほどのことでもなく、イタリアの好きなものをあげてみようかと思っています。

1年以上、ブログを書けませんでしたが、またよろしくお願いします。

 

 

初夢見ましたか?

 

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あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

 

初夢、見ましたか?

わたしは、俳優の寺尾聡さんと「丘を越えゆこうよ♬(ピクニックという曲名なんですね)」をピアノで連弾してるみたいな夢を見ました。連弾と言っても、ひとつのピアノでではなくて、それぞれの楽器で演奏していたので、連弾ではないですね。協奏でしょうか。

夢の中で演奏がとてもいい感じで、一緒に沢山笑ってて楽しかったのですが、途中で気づいたら楽器は無くて、エア演奏だったのです。おかしいですね。

 

ここ2年ほどテレビが無いので、寺尾聡さんも見ていないのですが、

わたしのイメージの中ではちょっと古いですが「博士の愛した数式」のなかの博士のイメージが大きいですね。

小川洋子さんの小説の映画化で、原作も勿論すごく良いです。

記憶が数時間しか保てない博士と、シングルマザーの家政婦の女性とその息子。

みんなそれぞれの寂しさを抱えながら、出会って、やがて友情がうまれて。

不器用ながら、お互いをとても大切にしていて、優しいのです。

その互いに向けた繊細な思いやりが胸に刺さりました。

気持ちにとても触れる映画だったので、映画を観終わるころには泣きすぎて目も鼻も真っ赤でした。

 

もうずっと、自分らしさを封印してきたのですが、今年はもっと自分らしく・・・、をテーマにしたいです。

今年は、自分の心に触れるような、気持ちのやり取り、やさしい会話のやりとりをできたらよいなと思います。そんな風に関われる相手を大切にしたいです。

自分のほんとうに好きなもの、大切なことを忘れてはいけないですね。 

 

いばや通信さんの記事、引用します。そうだったなーと共感しました。

人間はなにででてきているか。私は『人間は、自分の好きなものでできてる』と言いたい。なにかを好きになるということ。好きなひとに好きだと伝えること。これ以上に尊いことなんてこの世の中にあるだろうか。間違っても、自分が嫌いだと思うものに自分の人生を奪われてしまってはいけない。嫌いなもののために死ぬ(生きる)なんてクソだ。それでは体は冷えたままだ。生きているということは、熱があるということだ。熱があるということは、その熱を誰かに伝えることができるということだ。なにかを好きになるということが、世界を動かす力になる。なにかを好きになるということが、世界の体温をあげるのだ。嫌いなものにとらわれて、自分の好きを見失ってはいけない。いま、生きているということは、自分の『好き』があったからだ。それがなければ、いまのいままで生きることなんてできなかったはずだ。だからこそ、自分の好きを取り戻そう。嫌いなもののために生きるのではなく、好きなもののために生きていこう。自分の好きを貫く物語が、また、別の誰かの『好き』を貫く物語を生み出していく。今こそ、好きに殉死をする時である。

人間はなにでできているか。 - いばや通信

 

 

 

 

私たちはどこから来て、どこへ行くのか …(2)

ミッドナイト・イン・パリ(字幕版)

ウディ・アレンの「ミッドナイト・イン パリ」を観た。とっても愉快な気持ちになった。

 

前回の「前世」についてのブログにひきつづき、この映画も「時間と空間の境界線を超えて」しまうお話だった。

 

きっと自分が本当に会いたい人には会えるんじゃないか。会うべき人には。

…たとえ生きてる時代すら違っていたって?

そう。多分、時代とか場所も関係なく。そんな気がした。

そんな風に思わせてくれる、愉しい作品。

 

 久しぶりにウディ・アレンの映画を観たのだけど、翻って考えてみれば過去に戻る話というのは、映画でも本でも結構あることに気づいた。

 

ストーリーを少し書く。

主人公はアメリカ人の脚本家ギル。本当は小説家になりたくて、はじめての小説を書いているけれど、まだ誰にも見せていない。見て欲しいと思える相手が周りにいないのだ。

 

婚約者の女性とパリに旅行に来たけれど、雨のパリが大好きな彼の感性を、婚約者の彼女はまったく理解しようともしない。(こんなに自分の感性にそぐわない相手と、人はなぜ結婚しようと思うのか… 客観的に見ていればわかるのに。私自身を含め人生はそんなことの連続だ。)

 

主人公のギルは、ひとり酔っぱらってホテルに帰りつけずに街角で座っている。

大好きなパリの真夜中…

とそこに、1台のクラッシックカーがやってくる。車からはギルに向かって「乗れよ」と呼びかける陽気な男女がいて・・・。

 

酔いも手伝ってこの車に乗りこんだ彼が行き着いたパーティは、なんと1920年代のパリだった!

これがまた登場人物を見ると私も大好きな時代。ジャンコクトー主催のパーティに出席してみたかった。(笑)

 

自分にとっての黄金時代。次から次へと惜しげもなく現れる、レジェンドな作家やアーティストたち。

フィッツジェラルドヘミングウェイピカソ、ダリ、そしてそのミューズ達。

 

…驚きと興奮のなかで、ギルは徐々にその時代を楽しんでいく。

 

フィッツジェラルド夫妻が「ホンモノ」だとわかった時の、ギルの表情がむちゃくちゃ可笑しい。海外の映画館での観客のリアクションを思わず想像してしまった。きっとこういうシーンは大笑いと拍手喝采。

 

 自分にとっての「黄金時代」ともいえる過去に行った主人公は、その時代に生きる彼らにとっては、そこは黄金時代ではないと知って愕然とするのだけれど、やがて彼も気づく。

「現在というのはいつも不満なものなんだ」と。

 

この話は「前世」ではないまでも、過ぎ去った時代に戻る話で、今はいない憧れの作家やアーティストたちが、彼らの時代に何を考えてどんなことを語り合い、どんな生活を繰り広げていたのか…こうだったんだろうなーという想像と妄想が美しい映像で再現されていてすごく贅沢。

 

夢だったとしても自分がそこにいたら誰とどんな話をして何を見るのだろう。

というか、もし自分だったら、いつの時代のどの国で誰と会いたいか…この映画を観てからずっと考えている。

 

ところで、出会いというのはリアルタイムの現実でなくても良いのだと個人的にはよく思う。本当につよく感動するような出会いは、なにも現実の世界で同時代を生きている人たちとの出会いだけではなくてもよいのだ。もちろんそれも重要だけれど。それも感動的で奇跡的なときもあるけれど。

けれどもし、今出会えていなかったら、時代は違って、タイムトリップしたら自分が話したい仲間たちはいっぱいいるのかもしれない。過去にも未来にも。

 

なぜか心惹かれる風景や作品、見たことがあるような情景、ある時代の建築物や服装、さまざまな様式。

なにかに特別に惹かれるのは何故なのだろう。もしかしたらいつかどこかで出会っていたのかも知れない、そう考えたほうが自分の世界観に厚みや広がりが感じられるし、なんとなく楽しくなってくるのではないかしら。

本や映画というものは、まさにそうした出会いのひとつとも言えるだろう。

 

ゴッホ:天才の絵筆(字幕版)

 

こちらも最近観たドキュメンタリー映画

ゴッホが自分の製作や人生について、あたかも現在の私たちに話しかけるよう作りになっていて、これもとても良かった。並行して読んでいた本は「謎解きゴッホ」。

 

謎解きゴッホ: 見方の極意 魂のタッチ (河出文庫)

 

―有名な話だけれどゴッホが描いた油絵約900点のうち、生前はただ一枚の絵しか売れなかったという。それも画商でもある弟のテオが売ってくれた絵だった。

それが今やゴッホの絵はオークションで史上最高の値段がつく。

 

あまりにも皮肉な状況だけれど、ゴッホが貧しさや無理解や苦しみの中で自分を追い込みながらも描き続けたことは、彼の絵画を短期間で非常な高みへと導いたように感じた。そこまで彼を追い込んだもの、彼の人生、気質、愛、宗教、家族、そして絵に対する思い。

 

そうしたものに思いを馳せるとき、気づかせられる。

自分が信じたものを作り上げていくこと、周囲の無理解にあっても自分が投げてしまわないこと。自分の好きなものを大切にして生き生きと思い描くこと。

 

自分にとって大切にしたいものが、何かの形をとって自分に語りかけてくる時は、無視しないで意識をそこにもっと向けていこう。じっとみつめたり、耳を傾けるのは意味のないことではないはず。

何百年経っていても、それらは生きたメッセージであり情報なのだから。

 

人の生きざまだったり、作品だったり、場所だったり、自分をインスパイアして先に進む力をくれることがある。彼らが思いをそこに残している。

ゴッホは生きている間、社会的には何者でもなかった。こんなにも称賛されもてはやされる彼は、生きているときは成功者ではまったくなかった。

周囲からも孤立し、きちがいと呼ばれ、唯一の理解者は弟のテオだけだった。

それでも死をえらぶその瞬間まで、ゴッホは絵の中に自分の思いを込め続けた。

そのことのむずかしさと素晴らしさにあらためて今、心をゆさぶられている。

私たちはどこから来て、どこへ行くのか…(1)

前世への冒険 ルネサンスの天才彫刻家を追って (知恵の森文庫)

「ねぇ、前世ってあると思う?」 最近、友人の女性に聞かれた。

都内にあるスパニッシュ様式の古い建物を偶然見たとき、その重厚な美しい扉に目が惹きつけられ、説明のつかない感情でいっぱいになり急に涙がとまらなくなったという。

「その扉をずっと昔から知っているような気がしたし、そしてその扉のなかで起きたさまざまな出来事をすべて知っているような気がした」のだという。

でも具体的にどんな出来事かはわからなくて、嬉しいのか悲しいのかも、はっきりとは説明できないような気持なのだという。

「前世、きっとあるような気がする」私は答えた。

前世があるかないかは証明できないだろうし、証明する必要もないと思う。

どう考えた方が、自分にとってすんなり受け入れられるか、ということで良いような気がする。

 

かつて生きていたすべての人、今はもう生きていない人たちの人生。

彼らは、そして私たちは、何をしにやってきてどこへ行くのだろう。

歴史に残らない物語であっても、すべてこの世に生まれた人間、生物はそれぞれの物語を生きている。

人はみんな自分の人生を生きるわけだが、時には「自分以外の生」を生きている自分をリアルにイメージしてみることで、自分の枠を少し広げる作用にはならないだろうか。

 

 私が「前世」に一番興味をもっていたのは、じつはもう20年近くも前。

森下典子さんの「デジデリオ~前世への冒険~」はその頃読んだ本で、あまりに引き込まれてしまい、当時つきあっていた相手にもプレゼントしたっけ。

先日の友人の話で思い出し、また読み返してしまった。

あれから20年も経つのか…全然そんな気がしないのがこわい。(笑)

とはいえ、歳をとって読み返すとまた、思考も深まってたり?別の回路で読んだりできるので、色々楽しかった。

 

森下典子さんは他にもエッセイ集 日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)猫といっしょにいるだけで (新潮文庫)、 

などなどを出している作家さんで、「前世」に関しては初めまったく信じていないどころか「胡散臭い」と鼻で笑っていたくらいだったと書いてある。

 

ところが、ある雑誌の企画で前世を見えるという女性に、前世を見てもらったところ、前世はルネッサンス期の若くして亡くなった美貌の彫刻家、デジデリオ・ダ・セッティニャーノだと伝えられる…。

まさかそんなことは無いだろうと、疑いの気持ちとともに資料を探すうちに、資料にも書かれていない史実を伝える前世の話に引き込まれ、いつしかイタリアまでデジデリオの足跡や作品を追う旅に出かける。エッセイストとしての文章の魅力もこの本を一気に読ませてしまう理由のひとつだ。

 

森下さんも書いているが、この若くして亡くなった才能あふれる彫刻家のデジデリオについて深く知っていくうちに、彼女が本当にデジデリオの生まれ変わりかどうかは、大して大事なことではないと思い至ったのだそうだ。

それよりも、こうしてデジデリオの生きた時代について考察を深め、ルネサンスの作家や芸術家たちの生き生きとした人間関係、友情、愛情、孤独を追いながら、知られることのなかったある人間の物語に光をあてること、伴走するように彼の生きた時代を生きること。

あたかも彼の生きた時代を自分も生きることができたかのような没入は、新鮮な驚きであり、ゆたかな喜びだったと思う。

 

前世療法―米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘 (PHP文庫)  魂の伴侶―ソウルメイト 傷ついた人生をいやす生まれ変わりの旅 (PHP文庫)

 

友人には森下典子さんの「デジデリオ」の他にも、やはり当時読んで興味深かったブライアン・ワイズ博士の「前世療法」の本を貸してみた。

この本を読んで、自分の前世の物語を知りたくなった私は、前世への退行催眠を受けた。見えた風景は自分の心象風景なのか、どこかで見た記憶をつなぎ合わせたイメージなのか、それはわからない。

わからないなりに、それはそれで面白い経験だった。

それについても、いつか書いてみたい気がする。