lucciora’s diary 蛍日記

共感する魂を求めて

世界をすこしずつ変えている。藤井風『PREMA』

藤井風『Prema』…私たちの内なる可能性

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まさに才能の塊だと思う。

多くのミュージシャンが彼のファンを自認していることからもそれは一目瞭然だ。

音楽にとどまらず、その思想や存在自体も非常に特殊。

世界中の世代を超えたファンたちの信奉ぶりを見るにつけ…

ひょっとして彼は、多くの人に慕われた聖者の生まれ変わり、なのではという突拍子もない思いに至った。(たとえば鳥と話すことの出来たというアッシジのフランチェスコとか、あるいは仏教やヒンズー教・ヨガの聖者か…)

 

自分の中の神に出逢え/自分の最高を生きろ

そんなメッセージを受け取った。

それは、藤井風の音楽を通して、しばらく遠ざかっていたかつての自分の思いに、再会し共感するような感触だった。

 

Prema

Don't u know that u are love itself
You are love itself
Prema
Can't u see that u are god itself
You are god itself…

 

「Prema」という言葉は、サンスクリット語で「無条件の愛」というような意味があるそうだ。

歌詞の「u」(you)は、2番では「I」になる。

あなたも、そして私も、すべての人が愛そのものであり、神そのものなのに、まだわからないのか?

 

神(信じるもの)を外に求めるのではなく、自分自身の中にすでに在ることに気づけばいいのだと。

自分を生かし、同じように他者の命も尊重することが、できないとしたらなぜなのかと。

 

誰も傷つけない、優しい心に導かれた世界が彼の強い願いであって、それがまだ実現できていないことへの悲しさや怒りも時に感じるけれど、自分はそれを信じてやっていくというメッセージも感じられる美しいMVである。

「Prema」で藤井風が伝えていること、それは私たちの持つ『内なる可能性』であり、内なる神についてなのだろう。

 

だれもが咲かせるべき、『内なる花』があるということ…自分の中に信じるものをもつこと

2023年の『花』の歌詞の中で、「咲かせに行くよ 内なる花を」とあるように、彼が一貫して伝えていることは、自分の中にあるものを信じて育てること、自分の中の最も善きものを大切に生きていくことなのではないかと思う。

 

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自分の外に信じるもの(=神)を求めるのではなく、自分の中にすべてはある。

ファンの人たちが自分を好きでいてくれるのは嬉しいけど(中略)自分の中にみんな持っているものを見出してほしいし、その助けになれたら嬉しい、というようなことを話していた。

 

つまり全ての人が、愛そのものであり神であり「咲くべき花」なのだ。

だからこそ、誰もが自分の「花」を探して、いつか咲かせることを望んでいいのだ。みんな、それぞれに完璧なのだということ。

もしすべての人が自尊心をもって自分を認めたなら、他者をも認めて大切にしてこの人生を生きていける。そんな世界。

「咲かせる花」にたとえられたもの、それは人の本質や「魂」とでもいうもので、生死を越えて永遠につながっている、そんな生命観だと感じている。

 

ハイヤーセルフについて語る…最高の自分に出逢えないならば死ぬのがいい

最近、徹子の部屋に出演した時、『死ぬのがいいわ』が好きだという徹子さんに対して、歌詞について語っていた。

 

(「あんたとこのままおサラバするより死ぬのがいいわ」という部分のあんたは)「自分の中の最高の自分というのがいて、ハイヤーセルフみたいな、それを見失うくらいなら死ぬ方がマシという気持ち」「あんた」というのはつまり、自分自身の最高な部分だと。そこと出会えないなら死ぬのがいいと。

https://www.tiktok.com/@fujiikazewindy/video/7548051737979178248

 

www.tiktok.com

ハイヤーセルフ、という言葉を口にするときの、少し躊躇ったような照れたような表情には、彼自身がなにか”精神性”について語ることの「危険性」を充分に承知していて、

それでも、彼の考えていることを伝えるのに一番ふさわしい言葉を探した結果、やはり「ハイヤーセルフ」という言葉なのかなと確認しながら、ちょっと覚悟の上での発言に見える。

 

ハイヤーセルフという考え方は、精神世界の本などでは常に語られてきたことだし、心理学の分野でもトランスパーソナル心理学や、深層心理を扱う考え方の中には、常に自分自身の中に意識されないまま存在している未知なる自分があること、それは可能性に満ちていることが書かれてきた。 

 

こころはどうだ?

80年代、日本でも精神性や魂、心について、もっとのびのびと話されていた時代があった。私は10代をそのような背景の中で過ごした。だが、90年代半ばからだろうか、「こころ」について語られることは少なくなった。

心理学者の東畑開人さんも色々なところで書いていらっしゃったが、

80年代日本は「こころの時代」であったし、河合隼雄などの心理学者が公の場で話したりすることもあった。「生活は豊かになった。こころはどうだ?」というのがその時代の問いかけだったと。

しかし90年代半ばごろから2000年代に入り、貧困や、もっと即座に対応しなければいけない問題が沢山出てきて、生きることが保証されていなければ、こころについて語ったり考えたりすることはできないという状況になっていった。そうして、「こころの時代」は終わってしまった。だいたい、そんなようなことを書いていたと思う。

 

もちろん、今でも社会的な問題は山積みだ。あまり見えないところで、日本でも貧困は広がっているという。そして、そうした問題は、個人の問題ではなく、むしろ社会の構造的な問題であるという考え方も広がってきた。

けれど、一方であまりにも長いこと「こころ」を置き去りに私たちは生きてきているのではないだろうか。

そろそろ、「心」について考える態度を復活させなかったら、なんの光も夢も希望も見ることなく、ただ生まれてなんとなく時間を過ごして、いつか終わりが来るというだけの人生では味気ないのではないだろうか。

 

他者を尊重できない不寛容な世界。家族、友人、学校、職場、国同士、小さな単位から、大きな単位になってもどこでも、他者への尊重がなく支配欲と利害で動いているところから、もっと違う意識で生きられたら良いのにね、とみんながどこかで思っているのだろうけれど、なかなか抜けられない。

 

「歌を通して、だれかがちょっと幸せな気持ちで過ごしてくれたら、それでいいという気持ち」で彼はやっているとどこかで話していた。

 

今日のあなた(わたし)の「ちょっと幸せな気持ち」、それこそが世界をすこしずつ変えていくだろう。