人はみんな自分の物語を探しているのではないだろうか
自分の物語、というものにずっと興味があった。
それは、自分の人生に対する自分自身の主体的な「解釈」。
事実は一つであっても、その解釈は無限にある。
そして、自分にとっての「真実」こそが物語の中核をなすものなのではないだろうか。
昨年、近くのデイサービスで傾聴のボランティアをさせてもらっていた。
多くの方たちは、戦争を生き抜いた方たちで、激動の時代を生きて、長い人生の中で
価値観がめまぐるしく変わっていった、そんな時代を生きた方たちばかり。
彼女たち(女性がほとんどだったので)の物語を聴くことは心から楽しく、
90年近い人生の中で何を思い、何を大切にし、どんな風に悲しんだり苦しんだりしながら今こうしてここにいるのか、という話に耳を傾けることが、自分にとって本当に豊かな時間で、激動の時代のエピソードの数々に感動することも多かった。
目の前にいる高齢の女性の、子供時代から、少女時代、青春時代、戦後の混乱、
家族の死、子供、孫たち…その時々の面影や姿が思い浮かんでは消えていった。
肉体的な衰えがあったり、耳が遠かったりと、初めのうちは弱々しくも感じられる彼女たちだけれど、1時間弱お話を聴いた後に私が毎回のように感じたのは、生きぬいてきた彼女たちの「魂」の強さや輝き、そして威厳だった。
以下、私の大好きな河合隼雄さんの息子さんの河合俊雄さんの本を、
ずいぶん前に読んでメモしたのだけど、ずっと下書きになっていたのを思い出し…。 今、物語ることについてまた考え始めているので、備忘録としてあげておきたい。
備忘録「ユング 魂の現実性(リアリティ)」 河合俊雄(著)より引用
p6
ユングは自分の一生を自己実現の物語として捉えている。
しかし自己実現はよくそう思われているように、
何か未熟で未分化なものが成長や発展していって
完成したより高次のものになるのではない。自己実現とは、文字通り自分自身になることであり、
何か違ったものになるのではなくて、
はじめからそうであるものになることなのである。
p112 自分がその中に生きている神話
フロイトと決別してからユングは方向喪失の状態になり、
ついには精神的危機に陥る。(中略)このころ、ユングが自問自答していることが興味深い。
自分は過去に人々の神話を解明し、
人類が常にその中に生きていた神話としての英雄について本を書いた。しかし、今日、人はどのような神話を生きているのか。
ユングは自分がキリスト教神話の中に生きているのかと自問してみる。
聖餐式での経験からしても、これは否である。
ユングは自問自答する。
「ではわれわれはもはや何らの神話を持たないのであろうか。」
「そうだ、明らかに我々は何らの神話ももっていない。」
「ではお前の神話は何かーーお前がその中に生きている神話は何なのか」中略
神話とは自分が持っているものではなくて、それにいわば包まれているもので、
誰もがその現実性の中で暮らしているはずのものなのである。
過去においてはそれは神話が共同体によって担われているところに端的にあらわれていた。
そのような神話ははたして現代において可能なのだろうか。
(感想…)
小学生の時、偶然手にした星占いの本から、
星座のもととなったギリシャ神話の神々の名前や、
星座となるに至った物語を読むのが大好きだった。
神にさらわれた美少年ガニュメデスの物語。
地上と冥界を行き来するデーメーテルの物語。
花にも神話や伝説があることを知り、夢中になって読んだものだった。
自分しか愛さなかったナルチッソスが、神の罰として、
泉の水面に移る自分自身から離れられなくなり水仙の花になってしまう話。
飽きずに読んでいた記憶がある。
日本のいざなみといざなぎの神話と、アモールとプシュケの相似性を見つけて
喜んでみたり、東洋と西洋の神話のモチーフの中に通じるものと異なるものを見つけるのも
好きだった。
今でもギリシャ神話や日本神話が好きだ。
神話で語られるのは、根源的な欲動であったり、愛憎、別れ、戦いなどなど、
人の心のなかにあるものは、何千年という時を経てもそんなに変わっていないような気がする。
神話を分かち合う共同体は、インターネットやSNSの普及によって、
国や文化といった現実的な場所に依存した共同体ではなく、
やがては個人同士の魂の?または心の?共同体みたいなものになっていく/きているような気もする。
・・・物語ること。
自分の生について、自分なりに物語ること。
「意味」を問うのではなく、物語ること。
というのも、自分を物語ることは「他の誰」もしないし、できないのだから。
自分を生きるのは自分だけだから・・・。