映画「火花」―誰が時代を作っているのか?
先日、映画「火花」を観てきました。
中学時代からの友達と、映画を観てランチしようかということになり、
吉祥寺のオデオンで観てきました。
…じつは私はお笑い番組とか全然見ないし、笑いのセンスもまったく無いのですが。
原作の「火花」はあふれるような言葉のエネルギーが面白く、
一気に読んでしまいました。
それで、どんな風な映像になるのか、ちょっと観たくなりました。
レビュー見ると大抵皆さんが書いてますが、菅田くんて才能ありますよね。
若いのに、自分とは全く別の経験をしている人のことを、リアルに演じるって
すごい感性。
実際うまい、と思うのですが、それ以上に「観ている人に共感を起こさせる能力」
とでもいうのか…、ひきこまれます。
自分の中にもあったよな、こういう時間、こういう表情、こんな風景、
友達のセリフ。
映画の中で、徳永と神谷の漫才の相方をやってる芸人の方たちも、
当然のことながらリアリティあって、それぞれすごく良かったし、
桐谷健太の神谷役もよかったです。
原作の中で徳永が語る、神谷への気持ちの変遷、10年間の時の中でも心の機微、
それらすべては、言葉としては短い映画の時間には入りきらないのですが、
映像としての説得力はあります。
個人的には、原作のあふれるような「言葉」の中にあるもの、
そう火花、というより、本の表紙の絵みたいな、
心の中のマグマみたいな「熱」みたいなもの、
それも好きだったのであわせて観て欲しい作品。
(以下若干のネタバレになるかもしれません。)
神谷は結局、自分のなかの笑いに対して純粋であるがゆえに、そして
ある意味エキセントリックというか、社会の枠からはみ出してしまっているがゆえに、
社会的には受け入れられず、だんだんと自分の本質すら見失いそうになるのですが・・・。
結局、芸人をめざしても、ほんの一握りの人間しか残らない。
ほとんどの人間はその世界から、シーンからは消えていく。
それは、あらゆる表現に関わることはすべてそうだと思います 。
音楽も、アートも、舞台も、身体表現も、文学も…。
だけど、神谷が喝破するように、シーンにあがってこない無数の人間も、
やっぱりその時代を作っているんだと。
シーンの裏側でさまざまな役割を演じてるんだということ。
そういう意味では、一緒に作ってるんだという事を思っていいんだと。
そう、みんな参加しているんですよね。
心のなかの燃えカスが、ちょっとうずいたシーンでした。