lucciora’s diary 蛍日記

共感する魂を求めて

私たちはどこから来て、どこへ行くのか …(2)

ミッドナイト・イン・パリ(字幕版)

ウディ・アレンの「ミッドナイト・イン パリ」を観た。とっても愉快な気持ちになった。

 

前回の「前世」についてのブログにひきつづき、この映画も「時間と空間の境界線を超えて」しまうお話だった。

 

きっと自分が本当に会いたい人には会えるんじゃないか。会うべき人には。

…たとえ生きてる時代すら違っていたって?

そう。多分、時代とか場所も関係なく。そんな気がした。

そんな風に思わせてくれる、愉しい作品。

 

 久しぶりにウディ・アレンの映画を観たのだけど、翻って考えてみれば過去に戻る話というのは、映画でも本でも結構あることに気づいた。

 

ストーリーを少し書く。

主人公はアメリカ人の脚本家ギル。本当は小説家になりたくて、はじめての小説を書いているけれど、まだ誰にも見せていない。見て欲しいと思える相手が周りにいないのだ。

 

婚約者の女性とパリに旅行に来たけれど、雨のパリが大好きな彼の感性を、婚約者の彼女はまったく理解しようともしない。(こんなに自分の感性にそぐわない相手と、人はなぜ結婚しようと思うのか… 客観的に見ていればわかるのに。私自身を含め人生はそんなことの連続だ。)

 

主人公のギルは、ひとり酔っぱらってホテルに帰りつけずに街角で座っている。

大好きなパリの真夜中…

とそこに、1台のクラッシックカーがやってくる。車からはギルに向かって「乗れよ」と呼びかける陽気な男女がいて・・・。

 

酔いも手伝ってこの車に乗りこんだ彼が行き着いたパーティは、なんと1920年代のパリだった!

これがまた登場人物を見ると私も大好きな時代。ジャンコクトー主催のパーティに出席してみたかった。(笑)

 

自分にとっての黄金時代。次から次へと惜しげもなく現れる、レジェンドな作家やアーティストたち。

フィッツジェラルドヘミングウェイピカソ、ダリ、そしてそのミューズ達。

 

…驚きと興奮のなかで、ギルは徐々にその時代を楽しんでいく。

 

フィッツジェラルド夫妻が「ホンモノ」だとわかった時の、ギルの表情がむちゃくちゃ可笑しい。海外の映画館での観客のリアクションを思わず想像してしまった。きっとこういうシーンは大笑いと拍手喝采。

 

 自分にとっての「黄金時代」ともいえる過去に行った主人公は、その時代に生きる彼らにとっては、そこは黄金時代ではないと知って愕然とするのだけれど、やがて彼も気づく。

「現在というのはいつも不満なものなんだ」と。

 

この話は「前世」ではないまでも、過ぎ去った時代に戻る話で、今はいない憧れの作家やアーティストたちが、彼らの時代に何を考えてどんなことを語り合い、どんな生活を繰り広げていたのか…こうだったんだろうなーという想像と妄想が美しい映像で再現されていてすごく贅沢。

 

夢だったとしても自分がそこにいたら誰とどんな話をして何を見るのだろう。

というか、もし自分だったら、いつの時代のどの国で誰と会いたいか…この映画を観てからずっと考えている。

 

ところで、出会いというのはリアルタイムの現実でなくても良いのだと個人的にはよく思う。本当につよく感動するような出会いは、なにも現実の世界で同時代を生きている人たちとの出会いだけではなくてもよいのだ。もちろんそれも重要だけれど。それも感動的で奇跡的なときもあるけれど。

けれどもし、今出会えていなかったら、時代は違って、タイムトリップしたら自分が話したい仲間たちはいっぱいいるのかもしれない。過去にも未来にも。

 

なぜか心惹かれる風景や作品、見たことがあるような情景、ある時代の建築物や服装、さまざまな様式。

なにかに特別に惹かれるのは何故なのだろう。もしかしたらいつかどこかで出会っていたのかも知れない、そう考えたほうが自分の世界観に厚みや広がりが感じられるし、なんとなく楽しくなってくるのではないかしら。

本や映画というものは、まさにそうした出会いのひとつとも言えるだろう。

 

ゴッホ:天才の絵筆(字幕版)

 

こちらも最近観たドキュメンタリー映画

ゴッホが自分の製作や人生について、あたかも現在の私たちに話しかけるよう作りになっていて、これもとても良かった。並行して読んでいた本は「謎解きゴッホ」。

 

謎解きゴッホ: 見方の極意 魂のタッチ (河出文庫)

 

―有名な話だけれどゴッホが描いた油絵約900点のうち、生前はただ一枚の絵しか売れなかったという。それも画商でもある弟のテオが売ってくれた絵だった。

それが今やゴッホの絵はオークションで史上最高の値段がつく。

 

あまりにも皮肉な状況だけれど、ゴッホが貧しさや無理解や苦しみの中で自分を追い込みながらも描き続けたことは、彼の絵画を短期間で非常な高みへと導いたように感じた。そこまで彼を追い込んだもの、彼の人生、気質、愛、宗教、家族、そして絵に対する思い。

 

そうしたものに思いを馳せるとき、気づかせられる。

自分が信じたものを作り上げていくこと、周囲の無理解にあっても自分が投げてしまわないこと。自分の好きなものを大切にして生き生きと思い描くこと。

 

自分にとって大切にしたいものが、何かの形をとって自分に語りかけてくる時は、無視しないで意識をそこにもっと向けていこう。じっとみつめたり、耳を傾けるのは意味のないことではないはず。

何百年経っていても、それらは生きたメッセージであり情報なのだから。

 

人の生きざまだったり、作品だったり、場所だったり、自分をインスパイアして先に進む力をくれることがある。彼らが思いをそこに残している。

ゴッホは生きている間、社会的には何者でもなかった。こんなにも称賛されもてはやされる彼は、生きているときは成功者ではまったくなかった。

周囲からも孤立し、きちがいと呼ばれ、唯一の理解者は弟のテオだけだった。

それでも死をえらぶその瞬間まで、ゴッホは絵の中に自分の思いを込め続けた。

そのことのむずかしさと素晴らしさにあらためて今、心をゆさぶられている。