ひきつづき・・・
『人生のほんとう』/池田晶子より
第5章「魂」より p144
私は輪廻転生の思想というのは
人間が自己の何であるかを考えていった場合に
必ず現れてくる根強い一つの型だと思っています。
自分の何であるか、この魂はなぜこうなのかということ、
その歴史を垂直方向に求めてゆくと
必ずこの表象が現れてくる。表象というのは、必ずしも空想ではありません。
なぜ自分は自分なのかということを水平方向に、
親から生まれた、さらにそれを遡って家系とか祖先とか、
この世の時間軸を遡る方向ではなく、
今現在においてこの魂の何であるかを問うと、
現在というのはその意味で無時間ですから、
自分をどこまでも垂直に掘ることになる。
そうすると必ず超時間的な次元というものに出てしまう。
突き抜けちゃうんですね。この自分は何なのかと問うていった場合に、さっき話したように、
あらゆるものが、流転する魂としてのこの自分であったと気がつく。
無限のものどもが生々流転している、
そういう場所に降りていっちゃうわけです。だから、必ずしもこれは空想ということではないんです。
水平方向の時間軸でこの話を聞いてしまうと、空想に聞こえるんです。
私はかつて誰かだった、どこで何をしていたというふうに。
この語りは並行方向で聞くと間違える。
垂直方向に聞くと、ああ、この語りはあのことだなと、
永遠性の表象だなと理解できるんです。だから輪廻転生というのは、
超時間的な直感を時間軸に投影したというべきものです。
当然これは、嘘か本当かの真偽は問えなくなります。
そういう物語の起こし方であって、
文字通り物語なわけですから。
★★★
物語としてしか語りえないことを語る言葉ーーミュトス・・・
そして「垂直方向」、この言葉からは、
以前日記にも備忘録を残した、
池田さんの、対談本を思い出す。
「君自身に還れ―知と信を巡る対話」
大峯 顕 × 池田晶子
この本でも垂直方向の精神について、興味深い対談がされていた。
垂直的精神。垂直の方向の感受性。
例えば信仰において、社会的な身分、貧富の差、教養、努力、・・・
そうしたものは殆ど意味がない。
そう、魂は心理学でもあるが宗教とも関わることだろう。
例えば、シモーヌ・ヴェイユが神に魂を捉えられた空間、
例えば、最も苦しんでいるものや、蔑まれているものが、
マリアや聖人とであう空間、
悪人と呼ばれる人たちが、
弥陀の誓願に不思議に助けられる空間、
そういう空間は、きっと垂直方向に啓いた場所なのではないかと思う。
そこでは自分という魂が
ほんとうは何者なのか、
それだけによって垂直方向の様々な
呼びかけや声に気づくことのできる場所なのではないかと、
半ば夢現つに思う。