lucciora’s diary 蛍日記

共感する魂を求めて

映画『平場の月』-月の満ち欠けが美しかった

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切ない、けれど、心に少し重く、温かく、いつまでも残る感触がある映画だった。

朝倉かすみさんの小説が原作とのことだが、彼らの生き様がとてもリアルに身近に感じて、自分の知っている人たちのお話のように感じた。

 

「平場 の 月」の「平場」とは、言葉の通り、特別ではない、ごく普通の日常的な場所を意味するようだ。

堺雅人井川遥が等身大でそこにいる気配感があった。

 

ファンタジーみたいかもしれないが、思春期に抱いた気持ちというのは意外と自分の存在の根っことつながっている気がする。いつまで経っても嘘が無い気持ち。

現実とか打算が入っていなくて、まだそうした判断や計算に邪魔される前の、直観的な「好き」「嫌い」「大切」「憧れ」「ほんもの」みたいなもの。

 

人は一生変化し成長していく。

この映画でも離婚や仕事、親の老いなどの情景がちりばめられているのを見ながら、仕事や結婚というものは、青年期の自分がこの社会の中で生きていくための、現実的な日常の契約であるようにも感じる。もっと特別だったり、もっと悲惨な場合もあるだろうが。

 

まぁまぁ、色々と大変だったけど、なんとかやってきた人生を、いい年になって、ふと振り返ってみたり、その終わりについて思ったりしたときに、心の奥に置き忘れていた「自分の心を満たすものは何なのか」を、やっと感じるものなのかもしれない。

 

脇を固める役者さんたち、クラスメート役の大森南朋や、須藤(井川遥)の年下の元彼役の成田凌、居酒屋の大将の塩見三省らの佇まいや存在感が大きく、映画の中では描かれていない彼らの人生についても重層的に奏でられているかのような光を放っていた。

 

印象的な月の満ち欠けの美しさ。

中学生の時、一度だけ、夜に二人で見た月は満月だった。

その月が水面に映っているシーンはとても印象的だった。

将来はまだ未知で、望みや可能性はいくらでも広がっていくような期待感に満ち溢れていた。

 

歳を重ねて、不安や苦しさもある中、希望や優しさや愛情が、月の満ち欠けのように繊細に満ちたり欠けたりするけれど、それでも夜の静寂に輝きを放っていることに変わりはない。そのイメージは、「たった一つだからいい」という言葉につながっている気がした。

 

若い時には見えなかった人の気持ちや状況が、経験を重ねるとともに腑に落ちる。

人は永遠には生きられない。そのことの儚さ、かなしさ、やさしさ。

星野源さんの楽曲「いきどまり」もよかった。

 

 

 

 

 

 

文通


「文通したい」と時々思うのだが、今日もふと思って、ネットで昨今の文通相手を探すシステムについて調べていた。文通村、とか文通便とか、フェイスブックジモティーで探すなど、色々方法はあるみたいだ。

 

10代の頃は色んな人と文通していた。80年代、まだネットとかスマホなんてなかった時代だ。(あのころ駅には、待ち合わせで会えなかった時に伝言を書ける小さな黒板があった。あれが懐かしい。)

 

 

ロッキンオン

兄が読んでいたロッキンオンという洋楽メインの雑誌の後ろの方に、バンドメンバー募集や文通相手募集があって、手紙を書くことが好きだったことと、洋楽に詳しい友達が欲しくて、男性でも女性でも面白そうな人がいると手紙を書いた。高校に入ったころには、FOOL'S MATE というインディーズ系の音楽情報誌を読むようになった。

 

しばらく文通すると、趣味や気が合う相手だと、「じゃあ会おう」となって、近くに住んでいる人なら中野とか吉祥寺で会ったりしていた。・・・今から考えるとかなり危ない感じもするが、音楽好きな人にそんなに悪い人はいない、と当時は思っていたというか、面白い人との出会いも結構あったし、危ない目にあったこともなかった。そういう時代だったのかもしれないし運が良かっただけかもしれないが。とはいえ、そんなことをしていたクラスメートは学校にはいなかったのかも…。

 

高校時代はスタイルカウンシルやアズテックカメラ、インディーズ系の4ADレーベルのドゥルッティコラムやコクトートゥインズが好きで、おすすめのバンドやグループを教えあったり、カセットテープ(!)を送り合うのが楽しかった。

 

あの頃、毎晩のように聴いていたEverything but the girl のEDENというアルバムを、カセットテープに録音して送ってくれたのは、大阪に住んでいた、2学年上の男子高校生だった。すごくセンスのいい人で、カセットテープのインデックス(!)に外国のポストカード?みたいな写真を使っていて、今でもそのビジュアルを思い出すことができるくらい。彼は今頃どうしているだろう…。

大阪と東京で、文通をやり取りして、文芸部の彼の手紙はちょっと文学的な香りがして、ポストに手紙が届くのを心待ちにしていたものだ。

 

実は、同じ女子高に通う同級生とも、2,3年に渡ってずっと手紙のやり取りをしていた。同級生なのだから学校で話せばいいようなものだが、彼女と私は学校ではほとんど話さなかった。

私たちが文通していたことをかろうじて知っているのは私の親友一人くらいだったと思う。下駄箱に手紙を入れたり、手紙が入っていたりする、というトキメキを味わうことができたのは彼女という存在のおかげだ。

彼女もお姉さんの影響で、あらゆる音楽に詳しくて、学内でバンドも組んでいて、そのバンドではU2Duran Duran など、当時のアメリカのミュージックシーンで流行っているような曲をカバーしていたっけ。背が高く、ボーイッシュなのに不思議な色気があり、とても綺麗な顔をしていて、映画のオーディションを受けて最終審査まで残ったこともあったそうだ。今でも、とても才能のある人だ。

 

彼女の好きだった”The Cure"

 

お笑いにも詳しくて、面白系な人でもあって、かっこよくて人気があった。そんなわけで、いつも数人に取り巻かれている彼女に、私は学校では近づくことができなかったのだが、お互いに美大を目指していたので美大予備校で一緒になって、予備校では少し話すことができるようになり、学校では手紙のやりとりをする・・・ということになった。こちらが書けば、結構まめにイラスト入りの長文返事をくれたりする人だった。

当時はやっていたマンガや映画、音楽、アートシーンのこと、将来のこと、行きたい大学のこと、好きな人のことから(彼女も好きな女子がいたのだが・・)哲学や文学的な話もしたりした。こう思うと(すごく暗い反面もあったけど)楽しい青春もあった。

 

文通を好む人は、内向的な部分が少なからずある人なのかもしれない。彼女も、社交性は十分あったけれども、内心、あまり人には話さないような気持ちを抱えていたりして、手紙ではそうした気持ちがさらっと書かれていたりした。

 

大学を出て海外に留学した時は、母ともよく手紙のやり取りをしたものだ。

しかし帰国してから、30代は自分史上、混迷を極めていた時代で、母の死や、遅めの結婚と高齢出産からの子育て、父の死を経て、年齢を重ねた自分は、ずいぶん遠いところに来てしまったように思う。

さらに夫という人が「内面」にまったく興味の無い人だったということに、結婚後に気が付いて、ずっと違和感を感じてきたけれども、違うタイプの人間だったんだなと最近では腑に落ちた。

 

あの頃の自分は遠くにいる。今の自分は、それはそれでまぁ良し、とも思っている。

とはいえ、あの頃のように、誰かと手紙でやりとりをするような熱情みたいなものがもう無いようなさみしい気もちょっとした。

でも、もしあったら楽しいのになと思った。

紙の手触りとか大好きだし、文字から伝わってくる相手の心情とか情景を何度も読み返して思い浮かべるのはたのしいことだったし。

紙にじっくりとしたためて伝えたいような大事なことがもう無くなってしまったのだろうか?

自分に興味を持ってくれる人なんてもうどこにもいないよなーと感じているのだろうか?

自分に問いかけた夕暮れのひとときであった。

 

 

 

 

 

 

 

藤井風『PREMA』 は、世界をすこしずつ変えている…

藤井風『Prema』…私たちの内なる可能性

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まさに才能の塊だと思う。

多くのミュージシャンが彼のファンを自認していることからもそれは一目瞭然だ。

音楽にとどまらず、その思想や存在自体も非常に特殊。

世界中の世代を超えたファンたちの信奉ぶりを見るにつけ…

ひょっとして彼は、多くの人に慕われた聖者の生まれ変わり、なのではという突拍子もない思いに至った。(たとえば鳥と話すことの出来たというアッシジのフランチェスコとか、あるいは仏教やヒンズー教・ヨガの聖者か…)

 

自分の中の神に出逢え/自分の最高を生きろ

そんなメッセージを受け取った。

それは、藤井風の音楽を通して、しばらく遠ざかっていたかつての自分の思いに、再会し共感するような感触だった。

 

Prema

Don't u know that u are love itself
You are love itself
Prema
Can't u see that u are god itself
You are god itself…

 

「Prema」という言葉は、サンスクリット語で「無条件の愛」というような意味があるそうだ。

歌詞の「u」(you)は、2番では「I」になる。

あなたも、そして私も、すべての人が愛そのものであり、神そのものなのに、まだわからないのか?

 

神(信じるもの)を外に求めるのではなく、自分自身の中にすでに在ることに気づけばいいのだと。

自分を生かし、同じように他者の命も尊重することが、できないとしたらなぜなのかと。

 

誰も傷つけない、優しい心に導かれた世界が彼の強い願いであって、それがまだ実現できていないことへの悲しさや怒りも時に感じるけれど、自分はそれを信じてやっていくというメッセージも感じられる美しいMVである。

「Prema」で藤井風が伝えていること、それは私たちの持つ『内なる可能性』であり、内なる神についてなのだろう。

 

だれもが咲かせるべき、『内なる花』があるということ…自分の中に信じるものをもつこと

2023年の『花』の歌詞の中で、「咲かせに行くよ 内なる花を」とあるように、彼が一貫して伝えていることは、自分の中にあるものを信じて育てること、自分の中の最も善きものを大切に生きていくことなのではないかと思う。

 

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自分の外に信じるもの(=神)を求めるのではなく、自分の中にすべてはある。

ファンの人たちが自分を好きでいてくれるのは嬉しいけど(中略)自分の中にみんな持っているものを見出してほしいし、その助けになれたら嬉しい、というようなことを話していた。

 

つまり全ての人が、愛そのものであり神であり「咲くべき花」なのだ。

だからこそ、誰もが自分の「花」を探して、いつか咲かせることを望んでいいのだ。みんな、それぞれに完璧なのだということ。

もしすべての人が自尊心をもって自分を認めたなら、他者をも認めて大切にしてこの人生を生きていける。そんな世界。

「咲かせる花」にたとえられたもの、それは人の本質や「魂」とでもいうもので、生死を越えて永遠につながっている、そんな生命観だと感じている。

 

ハイヤーセルフについて語る…最高の自分に出逢えないならば死ぬのがいい

最近、徹子の部屋に出演した時、『死ぬのがいいわ』が好きだという徹子さんに対して、歌詞について語っていた。

 

(「あんたとこのままおサラバするより死ぬのがいいわ」という部分のあんたは)「自分の中の最高の自分というのがいて、ハイヤーセルフみたいな、それを見失うくらいなら死ぬ方がマシという気持ち」「あんた」というのはつまり、自分自身の最高な部分だと。そこと出会えないなら死ぬのがいいと。

https://www.tiktok.com/@fujiikazewindy/video/7548051737979178248

 

www.tiktok.com

ハイヤーセルフ、という言葉を口にするときの、少し躊躇ったような照れたような表情には、彼自身がなにか”精神性”について語ることの「危険性」を充分に承知していて、

それでも、彼の考えていることを伝えるのに一番ふさわしい言葉を探した結果、やはり「ハイヤーセルフ」という言葉なのかなと確認しながら、ちょっと覚悟の上での発言に見える。

 

ハイヤーセルフという考え方は、精神世界の本などでは常に語られてきたことだし、心理学の分野でもトランスパーソナル心理学や、深層心理を扱う考え方の中には、常に自分自身の中に意識されないまま存在している未知なる自分があること、それは可能性に満ちていることが書かれてきた。 

 

こころはどうだ?

80年代、日本でも精神性や魂、心について、もっとのびのびと話されていた時代があった。私は10代をそのような背景の中で過ごした。だが、90年代半ばからだろうか、「こころ」について語られることは少なくなった。

心理学者の東畑開人さんも色々なところで書いていらっしゃったが、

80年代日本は「こころの時代」であったし、河合隼雄などの心理学者が公の場で話したりすることもあった。「生活は豊かになった。こころはどうだ?」というのがその時代の問いかけだったと。

しかし90年代半ばごろから2000年代に入り、貧困や、もっと即座に対応しなければいけない問題が沢山出てきて、生きることが保証されていなければ、こころについて語ったり考えたりすることはできないという状況になっていった。そうして、「こころの時代」は終わってしまった。だいたい、そんなようなことを書いていたと思う。

 

もちろん、今でも社会的な問題は山積みだ。あまり見えないところで、日本でも貧困は広がっているという。そして、そうした問題は、個人の問題ではなく、むしろ社会の構造的な問題であるという考え方も広がってきた。

けれど、一方であまりにも長いこと「こころ」を置き去りに私たちは生きてきているのではないだろうか。

そろそろ、「心」について考える態度を復活させなかったら、なんの光も夢も希望も見ることなく、ただ生まれてなんとなく時間を過ごして、いつか終わりが来るというだけの人生では味気ないのではないだろうか。

 

他者を尊重できない不寛容な世界。家族、友人、学校、職場、国同士、小さな単位から、大きな単位になってもどこでも、他者への尊重がなく支配欲と利害で動いているところから、もっと違う意識で生きられたら良いのにね、とみんながどこかで思っているのだろうけれど、なかなか抜けられない。

 

「歌を通して、だれかがちょっと幸せな気持ちで過ごしてくれたら、それでいいという気持ち」で彼はやっているとどこかで話していた。

 

今日のあなた(わたし)の「ちょっと幸せな気持ち」、それこそが世界をすこしずつ変えていくだろう。

 

 

 

 

続 『人生やりなおし系ドラマ』に思ったこと

”やり直せる部分と、やり直せない部分がある”ということかもしれない‥

tver.jp

Tverで偶然見つけた「妻、小学生になる」も見ている。

前回、書いた「私の夫と結婚して」とは違って、こちらは、

別の身体を借りてやりなおしするお話。

 

最近、涙腺が弱くなってもいるのだけど、じんわり泣けてしまうシーンが多い。

役者さんも名役者さんばかりだし、とても良いドラマ。

堤真一石田ゆり子神木隆之介、吉田羊、蒔田彩珠…と主役級俳優さんばかりだし、

子役の俳優である毎田暖乃も非常にうまい。

 

ストーリーとしては、10年前に不慮の事故で死んでしまった女性(妻)が、自分ではわからないうちに小学生の少女の中に入ってしまい、その姿で、残してきた家族との時間を過ごすというストーリー。

途中から、子役の俳優に石田ゆり子が入っているとしか思えなくなる表情や身振りがすごい。

放送当時は、タイトルがあまり自分には響いてなくて、見ようと思わなかったけれど、

今みると面白いし泣けるし良いドラマ。歳のせいもあるのかもだが。

 

「私の夫と・・・」も「妻、小学生になる」も、名付けるならば「人生やりなおし系ドラマ」というものなのでは、と思った。

そして思えば最近、こうした「人生やりなおし」系のドラマは、カテゴリー化しても良いくらい、結構な頻度である気がするし、大抵ストーリーがよくできていて面白い。

 

今まで見た「人生やりなおし系ドラマ」はどんなものがあったか、思い出してみる。

そういえば、重松清さん原作の「流星ワゴン」、あれこそ人生をやりなおそうとするドラマだったが、あれも感動したなぁ。

 

 


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こうしたドラマで共通して出てくるテーマとして、

”やり直せる部分と、やり直せない部分がある”

というものがあるかもしれない。

 

一度、死に損なった主人公たちは、

「このままだと、どうなってしまうのか」がわかっている。

 

「このままだと、大失敗する」

「このままだと、大切な人が死んでしまう」。

「このままだと、もう会えなくなってしまう」など。

 

わかっていたら、そうはしなかったのに!ということは人生には何度かある。

「やりなおし系ドラマ」では、主人公たちは、それがわかっていて、

だから必死に運命を変えようと抗う。

 

しかし

”変えられることもあるが、変わったように見えて結局は変えることができないこと”

が生じてきて、主人公たちは絶望感に襲われることも多い。

 

ところで、人生を一度ならず、何度もやりなおすドラマ、

「ブラッシュアップライフ」はまだ記憶に新しい。

 

何度もやり直すことで、結局は人生がブラッシュアップされていく。

人生に翻弄されるばかりではなく、逆手にとって面白がることすらできる。

このドラマで、主人公は何度も生まれ変わっても、また失敗してしまうものの、何度もやり直して、ついには理想的な人生を送っているというハッピーエンドな終わり方だった。

 

ドラマの登場人物たちとともに、すごろくでゴールまで行けたような、後味の良さや楽観的な気分になれた。

 

lucciora.hatenablog.com

 

果たして、そんな風に、何度もやりなおしができるものなら、

最後には自分の思う通りの人生、理想の人生、

ハッピーエンドが得られるのだろうか。

 

やり直せるとして、同じ人生をやり直したいのか、よくわからない。

 

同じ人生ではないとしても、やり直すたびに成長すること、

人生がブラッシュアップされることがポイントなんだと思う。

 

「まぁ、人はいつかは死ぬんだよね…」ということをみんなわかっていて、

それでも大抵の人はふだんはあまり考えないで、生きようとする。

死への恐怖かもしれないし、別れへの恐怖や拒絶からかもしれない。

 

今を生きることはとても大切だし、未来の心配をしすぎて今を生きれないならば、

むしろ普段は忘れていてもいいものかもしれない。

 

そんな中、こうしたドラマが提供してくれるのは、時にコミカルに、軽妙に、

人は「やがて死すべき」存在であることを思い出させると同時に、

「自分」の人生の物語について考えるチャンスなのかもしれない。

 

死と時間を天秤にかけながら、時には人生のさまざまなディテールについて、

思い起こすことも、また味わい深いことなのではないかと思う。

 

せめて意識だけでも、生まれ変わった気持ちで。

と思えば、紙一重の差は生まれるのかもしれない。

 

 

 

『人生やりなおし系ドラマ』に思ったこと 

人生はやり直せないけど…?

amazon prime で、話題になっているらしい「私の夫と結婚して」(佐藤健小芝風花)を見ている。面白い。

これが2話ずつ公開で、なかなか新しいのが配信されずじれったいので、

全話公開されている韓国のオリジナル版「私の夫と結婚して」を一気に見てしまった。こちらも面白かった。

私の夫と結婚してを観る | Prime Video

 

ドラマの中では、病気を患い死が近い主人公が、夫と親友に裏切られて殺されたはずが、気が付くと10年前に戻っていて、そこから復讐もしながら自分の人生をやり直すドラマだ。ダイナミックな感情劇が迫力があって引き込まれる。

 

「人生をやり直す」ーという側面も面白いが、

主人公が自分の殻を破っていくようなパーソナリティの変化や、

人の言いなりではなく主体性をもって生き始める姿がみどころというか。

心理的な成長も大きなテーマになっている気がする。

 

自分が殻に包まれているときは、殻の中で生きていることには気が付きにくい。

私自身も人生の折り返し地点をとっくに通り過ぎて、

この歳になってようやく、若いころに自分がかぶっていた沢山の殻が見えるような気がしているのだ。

 

自分を囲っている鳥かごや、無意識のうちにがんじがらめに縛られている家族の支配的な関係に気づいたり、

気づいたとしてもそれを捨ててまったくの自由になろうとするのは、言葉にするよりも簡単なことではない。

 

多くの場合は、なんとなく、日々違和感を覚えながらも、

周りとの調和や、今までと変わらない安定した生活を優先して、

「自分で自分の人生を掴み取っていない感覚」を感じながら、

惰性で日々を生きていくことがよくあるだろう。

わかっていても、どうしようもない時やどうしようもないこともある。

 

そう考えると、ドラマの良さは、「ありえないだろう」と思うことが

リアルに映像化されて、ふと気づくとその「ありえないはずの世界」で、

実際に自分が感じたり、考えたり、時には感動できることなのかもしれない。

自分では怖くて、敢えてしないような激しい感情経験を、登場人物と一緒に感情移入してみる。それが一種の浄化作用になるのかもしれない。

 

自分の人生の物語は、自分しか知らないから、自分にしか解釈はできない。

自分自身が納得のいく物語は、いったいどんな物語なのだろう。

 

 

散る桜 残る桜も・・

今年は桜の満開になる少し前に雨が続いて散ってしまった花もあるけれど、

今日は天気がよく花見にふさわしい感じだった。f:id:lucciora:20250405011536j:image

 

散る桜 残る桜も 散る桜 (良寛

 

願わくば 花の下にて春死なん

その如月の望月の頃 (西行

 

さまざまなこと思い出す桜かな(芭蕉

 

春が好きだ。春の夜はとくに、なにか心がざわざわしているような、わくわくしているような、そんな心地がしていた10代の頃を思い出して懐かしく感じる。

 

桜を詠んだ俳句や和歌のことばや音に含まれた、日本人の自然や風情に対する感覚のみずみずしさや豊かさ、鋭さにふと感じ入ってしまう。

 

桜や満月、春の夜の香り、自分ももう何十年も繰り返し見てきた桜と、その時々の心を思う。

センチメンタル。

 

象徴的な桜の光景が根底に広がっている、一方で同じ桜は2度と咲かないと感じている一回性の儚さが心で響いて触れ合っているみたいだ。

 

今日は富士山も真っ白で青空に映えて美しかった。

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大切な人たちのことを思い出す春の夜。

映画『怪物』を観た

是枝監督の『怪物』をAmazonプライムで鑑賞。

gaga.ne.jp

10代前半の若い役者さんである黒川想矢と柊木陽太の存在感がとにかく素晴らしかった。あっというまに通り過ぎてしまう10代の思春期のころの、言葉にする前に消えてしまうような感情や一瞬の表情が見事にとらえられていると思った。

あの時期の思いや感じたことは、うまく言葉にできないまま、記憶からもすり抜けてしまうけれど、ふとした香りや光の反射などで今でも蘇ってくるような時間が、映画の中で流れていた。

お話自体には、ところどころ痛みを感じるような、

しかし、最後は成長していく強さや輝きや優しさを感じる映画であった。

 

もともと、是枝監督の「怪物」についてのインタビューを読んでいて、「怪物での役を演じるにあたって、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を黒川君に読んでもらった」というようなことが書いてあったのを読んで、どんな映画なんだろうと興味をもって観たこともあって、

観たあとに「あぁ、たしかに、宮沢賢治の本の中のジョバンニとカンパネルラや、星や鉱石や透き通った水や、そんなみずみずしさや、思春期の悲しさのひりひりする感じ、同時に忘れられないような耀きがあるなあ」と思った。

映画自体は、現代のさまざまな社会的な問題をいくつもちりばめていて、色々と考えさせられるし、展開もスリリングで飽きさせない。

いじめの問題、シングルマザー、問題をもみ消そうとする学校や教師たち、虐待、などなど、ニュースでもよくみるような現代の問題が、映画の中で自然に展開する。「怪物」とは、果たして誰なんだろうか。

しかし、一見いじめ、に見える状況が、もっと全く違う、子供同士のストーリーだったり、背景を持っていることは、この映画のように起きているかもしれないし、それは本当にだれにもはっきりとはわからない部分がいつもどこかにあるような気がした。

個人的には、この映画の面白いところは、芥川龍之介の小説であり映画にもなった『羅生門』のように、起きていることの「解釈」というか「見方」は一つではなく、語り手や視点によって異なることを描いていることだと感じた。この映画では、それらのばらばらの視点が、最後にはある部分ではつながったり補い合って、一つの風景を浮かび上がらせているところが凄いなと思った。

たまたま今勉強している「ナラティブ・セラピー」の考え方と重なる部分があるように思ったし、実際に人の人生は、自分の人生の物語をどのように自分自身が解釈するかによって、その風景は変わってくるのだと思う。

(そして、そう思ったのは果たして的外れなのかどうか、ネットで検索してみたところ、「羅生門」構造の映画、との記事があり、今ちょっと安心した。)

forbesjapan.com

 

映画音楽は坂本龍一さん。これが最後の映画音楽となったそうだ。

時間はどんどん流れていく。

年々歳々、人同じからず。

ポケットの中のたいせつなものを感じながら、

鼻歌をうたいながら、たくさん寄り道をしたいとおもった。

 

 

 

映画『大きな家』・・・嬉しいことが、少しずつ、少しずつでも 彼らに起こって欲しいと願う

映画「大きな家」を観た。

児童養護施設の日常。子供たちの成長。

 

家の近くに児童養護施設があって、通りかかる時に、中で遊んでいる子供たちの様子が垣間見える。

元気そうに、大きな声を出してボール遊びをしていたり、楽しそうに喋っていたり、時にはそこでバザーが開かれたりしている。

 

家族と一緒に住めないということについて、ふと思いを巡らすけれど、一概に親と暮らすことがベストとも言えないとも思う。

もし、親が子供を育てられないと思うなら、そして、追い詰められた親の状況が子どもを傷つける害のほうが大きいなら、むしろ別々に暮らした方が良いのかもしれない。

 

この映画に出てくる施設は、設備が整っているし、スタッフの人たちも、それぞれ精いっぱい子供たちの世話をし、温かい眼差しで包もうとしているように感じる。

 

それでも、この映画を観ていると、多くの子ども達が「家族」というものや、「血がつながっている」ということについて抱いている『特別』な思いがそこかしこに感じられて、考えさせられる。

 

この映画では、子ども達が家族と暮らせない事情などについては一切触れていない。

bighome-cinema.com

 

(以下、映画の内容に触れています。言葉も記憶で書いているので、若干、間違えているかもしれません)

 

17歳くらいの少年だったか…インタビュアーに報告するように、

「あ、でも誕生日にお母さんと出かけるから、その日にプレゼントを買ってもらうんだよね」と何度か話していたのに、

誕生日の当日になって「お母さん、来ないんだって」と。そう、伝えるときの表情。

泣いたり怒ったりなんかしないから、気持ちがかえって心に伝わってくる。

外にひとりで出かけて行く姿。

きっとがっかりさせられたことは、一回きりでは無かったはず。

それでも、やっぱり待っているんだろう。

 

どこかに不安定さを抱えている様子の18歳の少女。そろそろ一人立ちしなければいけない時期になり、

自分の何かを変えたいと、ネパールの児童養護施設にボランティアとして参加する。

彼女は、ネパールの施設の同年齢の少女に興味をもち、彼女を対話へと誘う。

「淋しいとか、思わない?」と聞く日本の少女。彼女自身はどこかでずっと、寂しさを抱えて生きてきたのだろう・・。

 

ネパールの少女はこたえる。「淋しい・・?いいえ。ここには沢山子供たちがいて…家族みたいだもの」

日本の少女は少し驚いたように、そして、そうなんだ‥淋しくないんだ、と噛みしめるようにつぶやいていた。

 

その後、インタビューに答えて日本の彼女は言う。

「ここ(ネパールの施設)では、みんな目が合うとにこっとしてくれたり、いたるところでお互い助け合ってる姿が見える。

でも日本では、みんな下向いてスマホとかいじっていて・・・、自分はそういうところで育っちゃたからなー」

 

いまの日本は、多くの人にとって孤独やストレスを感じやすい場所になっているんじゃないだろうか。

安心感とか、人のあたたかさとか、やさしさとか、心の余裕とか、得られにくい感覚。

昔はあった「人情」みたいなものは、今では厄介払いされている。

その方が楽かもしれないけれど、だれもが孤独と隣り合わせだ。

 

先進国のなかで、若い世代の死因の一位は自殺なのは日本のみだ、という情報もある。未来や、大人になった自分、それらに希望や、ワクワクするような期待感が持てないのは、なぜなんだろう。

 

逆境にも関わらず、映画の中の彼らは、私にとっては同情の対象などでは決してなかった。

途中、数日間、登山を続ける姿もあったが、時に強風に逆らって、険しい山道を登っていくその姿のように、

彼らは強さや逞しさをもっている。

命が輝いている。

むしろそう感じた。

 

この映画を観て、人間の一生について、自分の人生について、ぼんやりと考えている。

 

自分は自分の人生を、どんな風に生きていきたいのか、

どうやって人と関わっていきたいのか…改めて考えてみることも大切なように思う。

歳を重ねて、若い頃とは価値観や人生観も変化している自分を実感した。

 

この映画を観ることで、何ができるか、ということは、一人一人が出来る範囲で、なにか考えられたらいいけれど

 

今まであまり知られていなかった彼らの日常について、

まずは、より多くの人たちが知るということは、この社会にとって重要なことだと思う。

そう思って、久しぶりのブログを書いてみた。

 

ほんのちょっとしたことでもいいな。

嬉しいことが、少しずつ、少しずつでも、彼らに起こって欲しいと願う。

 

自分や、自分の周囲の人たちも同じだ。

これを読んでくれている人たちも。

みんな、それぞれの人生を一生懸命生きているから、

ちょっとした良いことや、幸せが、お互いに、ちょっとずつ積み重なってみんなに起こって、

そしてみんなが少しでも笑顔になることが多いといいな、と思う。

 

 

映画『ミッション・ジョイ ~困難な時に幸せを見出す方法~』を観てきた。

下高井戸シネマで、『ミッション・ジョイ ~困難な時に幸せを見出す方法~』を観てきた。

unitedpeople.jp

 

~映画概要『ミッション・ジョイ ~困難な時に幸せを見出す方法~』
困難に直面した時、私たちはどのように幸せを見出すことができるのか?

本作はチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世と、南アフリカアパルトヘイト撤廃運動の指導者の一人、デズモンド・ツツ大主教という2人のノーベル平和賞受賞者が、宗教の違いを超えてその答えを導き出す深い知恵と喜びに満ちた世紀の対談を元にしたドキュメンタリーである。深い友情で結ばれた2人は、ユーモアを交えながら、幸せや死生観などについて壮大な問いに迫り、私たちにどんな状況でも喜びと共に生きる知恵を授けてくれる。~

 

感想としてはとっても良かった。時々泣けた。

動乱の中を生き抜いてきた老賢人2人の、子供同士のようなやりとりの中に、

時折見せる一種の凄みと、磨かれた玉石が柔らかい光を反射しているような

豊かさを感じて。

「人々が"自由になる"と決めたら

彼らを止められるものは何も無いのだ」

デズモンド・ツツ

 

人を助けようとすることの中にこそ、喜びがある、とこの2人が言うとき、

それは本当のことだと強く感じる。

 

どれだけ多くの人々が、彼らの「存在」そのものを心の支えにして、

生き抜いてきたのか、

そして志半ばで命を落としたのか。

自分につながっている、その命の重さを背負ってなお、

彼らは命の喜びに触れている。

解決されきってはいない祖国や人種の問題を抱えながらも、

自分の内側にある喜びを、人に伝えようとしている。

 

人間は根本的には善なのだ、どんな人も。

その言葉が、心にしずかに響いた。

 

 

ユング「魂の現実性(リアリティ)」河合俊雄(著) 備忘録2

顕在意識は意識全体の3~10%、

潜在意識は90~97%という話がある。

意識は氷山の一角…

 

子供のころからよく夢を見た。

自分の生きている現在の生活からは程遠い内容の夢もよく見た。

 

忍者になることもあったし、どこか古代のギリシャ神殿のような場所にいたり、何度か戦争で兵士として死に直面している夢をみた。

ヨーロッパの町で恋愛をしていたり、海の中で黄色い熱帯魚を見ていたり、UFOに遭遇したりと…

潜在意識は自由で話の展開にも際限がない。 

 

夢の影響もあるのか、

心の最奥のほうには時間も空間も超えたところにつながっている「魂」の場所があるような気がいつもしている。

日常の意識からはかけはなれた、意識の根の場所。

とてつもなく広大で遥かな記憶を持っている大きな存在。

 

普段、自分で認識できるいわゆる顕在意識は「氷山の一角」、ということはよく言われることだが、

表層的な意識だけでなく自分の奥の奥底に眠っている、その巨大な氷山がどこまでもどこまでも続いていることを時には思い出したら、人生観が少し変わるような気がする。

 

まだまだ、自分でも気が付いていない自分がいるのかもしれない。

環境や思い込みで蓋をしてきたけれど、その「扉が開く」のを待っている自分の可能態みたいなもの。

 

『魂の現実性(リアリティ)』は、そんな自分の潜在意識の奥底からじわじわと滲み出てくるような気がする。

その声に、なるべく耳を傾けて生きて行きたいと思っている。

 

 

ユング「魂の現実性(リアリティ)」河合俊雄(著)より引用

p42 ファンタジー
第一章ですでに現実性について述べたが、ここではユングの現実性(リアリティ)についての考えがよく出ている。
つまり神経症をはじめとする心的な出来事は、何か外的な出来事の結果として引き起こされたり、
あるいはそれに随伴して起こる二次的なものではなくて、それこそが第一の現実なのである。
むしろ逆に外的な出来事のほうが「それにそそのかされ」「筋書きに利用されている」副次的なことなのである。

時間的にみると二次的で結果として生じているように見えるファンタジー
心的な出来事こそが第一の現実なのである。

後にユングesse in anima(魂の中の存在)ということを提唱し、
「魂は日々現実性を作り出す。この活動はファンタジーという表現でしか名づけることができない」(心理学的タイプ論)と述べているが、ユングからすると、心的現実こそが第一の現実なのである。

 

p241 死後の世界
「死は心的に誕生と同じくらい重要で、誕生と同様に人生を統合する構成要素である。」(『黄金の華の秘密』への註解」)とユングは述べている。
人生の後半を重視する心理学を提唱したユングにとって、死は常に中心的なテーマであったといえる。
中略
自伝をひもといて見ても、死についての非常に興味深い記述が多い。
「死後の生命」という章がわざわざ設けられているくらいである。
そこでユングが述べているのによると、来世とか死後の世界とかは
ユングがその中に生きたイメージやユングの心を打った考えの記録から成り立っていて、それはある意味ではユングの著作の底流を為しているのである。

ユングにとっては、死や死後の世界というのは真に実感を伴ったものであって、現実性を持ったものであった。
「死後の世界」の章でもユングはmythologein, つまり物語を語ること以上のことはできないと述べている。
これは神の問題にしろ、存在の問題にしろ常にそれの心理学的イメージしか対象にせず、それを「物語る」という形で拡充していくというユングのスタイルである。
従って死についての記述も物語やイメージから成り立っているのである。

 

・・・・・・・・・・・

(感想)

esse in  anima.... 魂の中の存在。

語ることのできないものについては、イメージを紡いで「物語る」ことしかできない。

たとえば1枚の絵について完全に語ることはできない。それについて私たちが感じたことを、物語ろうとすることしかできない。

ロゴスの言葉で言えないこと。そうした、語ることのできないものごとについて、思いを巡らせることは愉しい。

 

 

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ユング「魂の現実性(リアリティ)」河合俊雄(著) 備忘録1

人はみんな自分の物語を探しているのではないだろうか

 

自分の物語、というものにずっと興味があった。
自分の物語とは、すなわち自分の人生に対する自分自身の主体的な「解釈」だと思う。

 

「事実」は一つであっても、その「解釈」は無限にある。
そして「自分にとっての真実」こそが物語の中核をなすものなのではないだろうか。

 

昨年、近くのデイサービスで傾聴のボランティアをさせてもらっていた。

多くの方たちは、戦争を生き抜いた方たちで、激動の時代を生きて、長い人生の中で価値観がめまぐるしく変わっていった、そんな時代を生きた方たちばかり。

 

彼女たち(女性がほとんどだったので)の物語を聴くことは心から楽しく、
90年近い人生の中で何を思い、何を大切にし、どんな風に悲しんだり苦しんだりしながら今こうしてここにいるのか、という話に耳を傾けることが、自分にとって非常に豊かな時間だったし、

激動の時代のエピソードの数々に感動することも多かった。

目の前にいる高齢の女性の、子供時代から、少女時代、青春時代、戦後の混乱、

家族の死、子供、孫たち…

その時々の面影や姿が思い浮かんでは、また滲んで消えていった。

 

肉体的な衰えがあったり、耳が遠かったりと、弱々しくも感じられる彼女たちだけれど、1時間弱お話を聴いた後に私が毎回のように感じていたのは、ここまで生きぬいてきた彼女たちの「魂」の強さや輝き、そして威厳だった。

 

以下、私の大好きな心理学者の河合隼雄さんの息子である河合俊雄さんの本 「ユング 魂の現実性(リアリティ)」を、ずいぶん前に読んでメモしたまま、ずっと下書きになっていたのを思い出し。  

今、物語ることについてまた考え始めているので、備忘録としてあげておきたい。

 

備忘録「ユング 魂の現実性(リアリティ)」 河合俊雄(著)より引用

p6
ユングは自分の一生を自己実現の物語として捉えている。
しかし自己実現はよくそう思われているように、
何か未熟で未分化なものが成長や発展していって
完成したより高次のものになるのではない。

自己実現とは、文字通り自分自身になることであり、
何か違ったものになるのではなくて、
はじめからそうであるものになることなのである。

 

p112 自分がその中に生きている神話
フロイトと決別してからユングは方向喪失の状態になり、
ついには精神的危機に陥る。(中略)

このころ、ユングが自問自答していることが興味深い。
自分は過去に人々の神話を解明し、
人類が常にその中に生きていた神話としての英雄について本を書いた。

しかし、今日、人はどのような神話を生きているのか。
ユングは自分がキリスト教神話の中に生きているのかと自問してみる。
聖餐式での経験からしても、これは否である。
ユングは自問自答する。
「ではわれわれはもはや何らの神話を持たないのであろうか。」
「そうだ、明らかに我々は何らの神話ももっていない。」
「ではお前の神話は何かーーお前がその中に生きている神話は何なのか」

中略


神話とは自分が持っているものではなくて、それにいわば包まれているもので、
誰もがその現実性の中で暮らしているはずのものなのである。
過去においてはそれは神話が共同体によって担われているところに端的にあらわれていた。
そのような神話ははたして現代において可能なのだろうか。

 

 

(感想…)
小学生の時、偶然手にした星占いの本から、
星座のもととなったギリシャ神話の神々の名前や、
星座となるに至った物語を読むのが大好きだった。

神にさらわれた美少年ガニュメデスの物語。
地上と冥界を行き来するデーメーテルの物語。

花にも神話や伝説があることを知り、夢中になって読んだものだった。
自分しか愛さなかったナルチッソスが、神の罰として、
泉の水面に移る自分自身から離れられなくなり水仙の花になってしまう話。
飽きずに読んでいた記憶がある。

日本のいざなみといざなぎの神話と、アモールとプシュケの相似性を見つけて
喜んでみたり、東洋と西洋の神話のモチーフの中に通じるものと異なるものを見つけるのも
好きだった。

今でもギリシャ神話や日本神話が好きだ。
神話で語られるのは、根源的な欲動であったり、愛憎、別れ、戦いなどなど、
人の心のなかにあるものは、何千年という時を経てもそんなに変わっていないような気がする。

神話を分かち合う共同体は、インターネットやSNSの普及によって、
国や文化といった現実的な場所に依存した共同体ではなく、
やがては個人同士の魂の?または心の?共同体みたいなものになっていく/きているような気もする。

 

・・・物語ること。
自分の生について、自分なりに物語ること。
「意味」を問うのではなく、物語ること。
というのも、自分を物語ることは「他の誰」もしないし、できないのだから。
自分を生きるのは自分だけだから・・・。



 

ドラマ『ブラッシュアップライフ』…死のほうから生を見てみたら

「いま、ぼくのやっている仕事というのは、死の方から生を見る仕事だと言った方がいいですね。

みんな、自分の生を延長するほうからばっかり言っとられるけど、ぽっと向こう側から見られたら、かなり変わるわけです。」

河合隼雄ブッダの夢」より)

 

ドラマ『ブラッシュアップライフ』が面白い。

うちにはテレビが無いのでTverで見ています。

安藤サクラさん演じる主人公は、不慮の交通事故で亡くなってしまうものの、もう一度同じ人間に生まれ変わって “人生2周め”(そして”3周め”も…) をやり直す…。というお話し。

(以下、ネタバレあります)

第1話の中盤までは、平穏すぎる日常のドラマという感じでちょっと退屈してしまうのだが、

”やり直しの人生”の展開では、1周目の平穏すぎる日常エピソードが生かされてくる。

 

人生1周目では気づかなかった些細なトピックがどんどん展開していくので、かえって「あー、そんなところが!」とインパクトを受けつつ見ている。

 

麻美がとにかくドライというか冷静で、死んでしまっても、

「あ、死んだ?」くらいなリアクション。

なので、生きる・死ぬをあつかう内容のドラマでありながら、重たく深刻になりすぎない。

 

人生にまつわる沢山のテーマが、シンプルに、でもハッとさせるような浮き彫りになってきて秀逸だ。

 

ドラマでは、主人公は一旦亡くなって、来世の案内人に「この次はアリクイ、または前世のやり直し」と告げられて、前世のやり直しを選択する。

 

アリクイではない、より良い来世を求めて、麻美が人生をやり直すたびに(今、3周目)、ちょっとずつ、でも次第に人生が大きく変化していく。

 

同時に、それは麻美のパーソナリティが、麻美自身が”ブラッシュアップ”されて、生き生きとしていくことで、見ていて爽快感がある。

 

1回目の人生では、麻美は役所の案内係をしていて、いつも役所に来た人からのクレームに辟易して、ランチタイムは同僚たちと愚痴大会だった。

 

2回目の人生では薬剤師になって、祖父を救い、友達に重要な情報を伝えたり、

 

3回目の人生では、好きだったドラマに関わるテレビ局に入社してディレクターにまでなり、憧れの俳優さんと大胆な会話までしたり…してしまう。

ボタンの掛け違い、ならぬ、ボタンのかけなおし。

 

仲良し3人組という設定がまた、私自身も中学時代の友達と3人で今でもたまにランチしたりしているので、ドラマの会話がリアルかつ、ほんとに「あるある」で笑ってしまう。

 

そういうある種どうでもいい会話の中にこそ、彼女たちそれぞれのパーソナリティがよく出ていて憎めないのである。

 

…死のほうから生を見てみたら

「ぽっと向こう側から見られたら、かなり変わる」

初めに引用した心理学者の河合隼雄さんの言葉。河合さんの本が好きで何冊か読んでいるが、「死の方から生を見る」というのは河合さんの一つの視点だったように思う。

 

生の渦中にあると目の前のことしか見えなくなってしまう。

死の方から生を見る、という提案は、生きている証でもある「感情や欲望の波」から、自分自身の意識を遠くへ置いてみることで、生全体の姿を見ることを可能にするのではないだろうか。

 

私も折に触れて、自分が死んだとしたらどうなのだろうと想定して、そちら側から生を覗いてみる視点を持ちたいと思っている。

このドラマを見たとき、ちょっとそれに似ていると思った。

 

一見、突拍子もない設定で十分にエンターテイメント的要素もありながら、

回を重ねるごとにじわじわとストーリーを噛みしめているような。

 

死とか魂とか死後のことについて、日頃あえて話したりはしないけれど、こんな軽い語り口でなら語ってみたいかもしれない。

 

死んで再生するたびに、主人公の人生がブラッシュアップされていくけれど、この先どうなっていくのか…楽しみだ。

 

最終的にはこれが全部夢だった、という設定だったりして? それは無いか。

 

人生のやり直しでなくても、今の人生でも気づけることはまだまだ沢山あって、人生はそこからどんどん変わってくるのかも、そんなことを感じさせてくれるちょっと楽しみな時間になっている。

 

「いまを生きる」


20歳過ぎのころ「いまを生きる」という映画を観ました。かれこれ30年くらい前になってしまいます。
https://filmarks.com/movies/14908

映画との出会い、という点で、今でもこの映画は私にとってベストの一つだと思います。

もう何年も観ていませんし、その後沢山の映画が出てきたし、もっと洗練されてたり、新しかったりする映画は出てきているでしょうが、

変わらずにマイ・ベストなのは、この映画の中に、私にとっての大きなテーマがあるからなのだと気が付きました。

それは、人は、人との魂の深い部分での出逢いなくしては、本当の意味では生きられないのではないか、という私なりの人生の実感だと思います。

映画の中でロビン・ウィリアムズが型破りな教師役を演じていて・・あったかくて、生徒をだれよりも理解してくれて、沢山の方法を見せて導いてくれる。これこそが本当の先生だよね、と思う。心から尊敬できる、自分より人生を知っている人=先生。

現実では、一生のうちに、心から先生と呼べる人にそうそう出会えないものだと思います。
でも不思議と、心の中には「先生」の原型とでも言うべき、ある理想像があって、私にとってはそれが、この映画でロビン・ウィリアムズ演じるキーティング先生その人でした。

それは、生徒の一人ひとりの中にある最も彼らしいもの、自身すら気づいていない原石の輝きを見出して、様々な方法で語りかけ、刺激し、育てるということ。

自分を信じるということを、教えてくれる。一緒に苦しみながら、考えてくれる。

それを大いなる愛を持って、している人。

そんな先生に、あるいはそんな大人に、出会いたいんだと思います。子供たち、若者たち、そして大人になっても、みんな出会いたいんだと思います。

心から信頼できる大人と出逢えたとき、痛みの中にいる「私」が、「自立」を目指そうと思えるんだということ。

この映画の中で、親との関係も大きなテーマになっています。

自分の信じていること、自分が大切に思うことを声に出すっていうのは怖いことで・・
動いていくのはもっと怖いです。自分の中に、それが本当にあるのか、ないのか、急に見えなくなることもあるから。

それを見つけて、必死に訴えても、ありのままの自分を受け入れてもらえなかった、その無念さ。悔しさ、絶望感。それは今でも、どこかに静かに残っているのかもしれない。 

映画にもありますが、親にわかってもらえない、というのは悲しいことなんですよね。遠い昔から永遠にあるテーマですね。大きな苦痛ですよね。

若くて不安定な要素があるときは、親の支配(価値観)から逃れられない、と思ってしまうのは極々自然で、だから映画では悲しいことになってしまいました。植え付けられた概念から自由になることは至難のわざなんですよね。
だから詩を読むんでしょうね・・。表現するんでしょうね・・。

自分の人生をどう生きたいのか?
いつも思うようにいくわけではなくて、
現実の様々な問題もありながら、それでも自分でなんとかやっていくのは、すごい勇気とエネルギーがいることなんです。

だから何より自分を大切にしてほしいです。なぜなら「あなた」という個性は、あなたしか持っていないのですから。
その原石を磨いていくのは、あなたしかできないのですから。

この映画の中で、カルペ・ディエム(1日(の花)を詰め)という言葉が出てきます。人はいつも死に向かっている。だからこそ、その日を精いっぱい生きる。それは、私の中で「メメント・モリ」(死を忘れるな)という言葉と重なって、だからこそ、いまを生きろ、という強い言葉を、私もかれらと一緒に受け取ったのかもしれない。

つらくても、死を思っていても、真剣に自分に向かっているのなら、深い今を「生きている」と思います。逆に、死を思うからこそ、「より深く」今を生きている、のかもしれません。

あとで振り返ったとき、これらの日々は絶対に無意味ではなく、自分がこの世界に関わろうとして、もがいたりひっかいたりした痕、
あるいは種が芽を出すための土の中での格闘みたいに、この宇宙に痕跡を残している時間だと思います。

それこそ、愛すべきただひとつの姿、その自分を愛してほしいと、私は思います。
なぜなら、本当に素晴らしいものをもっているからです。

いつか、誰かにそれを渡す日が来ると思います。
沢山の人かもしれないし、一人かもしれない。でも、きっと来ると私は信じています。

イタリアが好きな100の理由  ◆アッシジのフランチェスコ◆

 

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聖フランチェスコの歌

 

主よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお使いください

憎しみのあるところに愛を

争いのあるところに許しを

分裂のあるところに一致を

 疑いのあるこころに信仰を

 誤りのあるところに真理を

 絶望のあるところに希望を

 闇に光を

 悲しみのあるところに喜びを

 もたらすものとしてください


慰められるよりは慰めることを

 理解されるよりは理解することを

 愛されるよりは愛することを

 わたしが求めますように

 わたしたちは与えられるから受け

 ゆるすからゆるされ

 自分を捨てて死に

 永遠の命をいただくのですから 

聖フランシスコの祈り」

 

☆☆☆

この美しい祈りは、「聖フランチェスコの歌」と呼ばれています。

フランチェスコが書いたものではない、という説もあります。

いずれにしても、こうした清らかな愛に満ちた祈りを捧げる聖人のイメージとして、

聖フランチェスコは多くの人に慕われ、このメッセージを目にするとき、このように澄んだ心を持てたらなあと、感じずにはいられません。

 

アッシジの聖フランチェスコの棺のある部屋には、キャンドルが灯され、訪れた沢山の人達(観光客も沢山)が、思い思いの時を過ごしていました。

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気が付いたら、1年以上もブログを書けていなかったのですが、また書けるときに書きたいと思います。よろしくお願いします。

◆イタリアン・バロック①「イゾラ・ベッラ」◆ イタリアが好きな100の理由 

 

イタリアが好きな100の理由、ちょっと書けないでいたら、コロナの状況が幾分和らいできて、イタリアでも街に人が戻りつつあるようで良かった。

今日は、イゾラ・ベッラという島のことを少し。

 

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イタリア、ストレーザ、マッジョーレ湖のイゾラ・ベッラ

 

私の中でヴェネツイアとともに「やっぱりイタリアは特別だろう!」と思ってしまう場所が「イゾラ・ベッラ」という島。

 

 

高校時代だったか、友人からすすめられて澁澤龍彦著『ヨーロッパの乳房』を読んだ。

ヨーロッパのバロック的なる場所を旅して書かれた数々の断章から成る本の中に、「イゾラ・ベッラ(isola bella:美しい島)」という、北イタリアとスイスの間のマッジョーレ湖にある小さな島についての章があった。それを読んで、いつか絶対行きたいと思った。本の中の白黒写真で見たその部屋の風景の中に、いつか自分も立ちたいと思った。

そして大学時代、ローマの語学学校に短期留学した時に、その旅の中で訪れたのだった。

 

もともと海や湖が好きなので島も勿論大好きなのだが、この島はバロックの島…

庭園には白いクジャクが放たれ、世界中から集めたエキゾチックな植物が島のあちこちに植えられていて、地下の洞窟部屋や何世紀も前の本が並ぶ図書館もある、まさに幻想の島なのである。

 

期待と不安?とともに洞窟の部屋にたどり着き、目にした空間は「こ、これはなんなんだ?」と、思わず笑いがこみあげてくるような、「いくらなんでもやりすぎでしょ…」と思わずつぶやいてしまうくらい溢れんばかりの、過剰な、驚異の部屋だった!

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でもそこは、不思議な生命力にあふれていて、私にとっては気持ちの良い場所でいつまでも飽きることもなく眺めていた。

窓の外には湖の水面が夏のまばゆい光を反射して輝いていた。

 

この島をボロメオ家の当主が1630年に買い取り、庭園を作り上げるのに40年かかったという話。イタリアの貴族文化というか美へのこだわりというか、やっぱりスケールが違いすぎて思わず笑ってしまう。

このような日常から逸脱したひとつの島を、何百年も前に「実際に」作ってしまい、(多くの人間にとって、それはファンタジーでしかないと思うのだが、)それを今に至るまで維持している・・。そして今でも、夏になるとボロメオ家の人たちは利用していると、当時書かれていた。今もそうなのかわからないけれど、芸術的なものや美しいものに対する敬意や愛は見習いたいものだ…。

貝殻や螺旋、ガラス、大理石、そして庭園、中庭・・・。それらは私をいつも魅了する。自分をワクワクさせる「視覚的」「質的」要素について…今更ながら考えたりもする。

 

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以下、澁澤龍彦さんの『ヨーロッパの乳房』から少し引用してみよう。

  

“このボロメオ宮殿には、フランドルの壁織物のある長廊下、タブローのある部屋、音楽室、図書室、大階段、賞稗(メダイユ)のある部屋など、美術的にも見るべき部屋が多くあったが、なかでも私がいちばんおもしろいと思ったのは、六つの洞窟(グロッタ)風の部屋であった。

砕いた大理石の破片や砂利や金属で、モザイク風に周囲の壁や床を固め、貝殻の装飾を各所にあいらい、海の底の雰囲気を再現しようとしている。湖水の側の窓はアーケードのように大きく割りぬかれていて、涼しい風がそのまま入り込んでくるようにしてある。これらの部屋はおそらく宮殿の最も低い場所、水面すれすれの場所にいちしているのであろう、ひんやりとした底冷えの感じがする。たぶん、夏の暑さを避けるための部屋であろう。

この六つの洞窟風の部屋には、インドの彫像や支那の人形、地質学や古生物の標本、古い骨壺や盃や装身具や武具、それに馬具のコレクションなどがそろっていて、優に民族博物館に匹敵する豊富さであった。”

渋沢龍彦『ヨーロッパの乳房』より)

 

そして今回書きつつ、イタリアン・バロックが好きだったんだ、ということを思い出したので、次は他のイタリアン・バロック的なものについても書いてみようと思ったのでした。ではまた…。