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lucciora’s diary

「詩人が詩を書くのは、自分と同じ言葉を話す人間を見つけるためだ。」ジャン・コクトー ーー言葉はどこまで「心」に近づけるのだろう。共感する魂を求めて、言葉の海へと漕ぎ出してみよう。 自分の心に響いてきた本、映画、表現など、備忘録的に書き留めています。どうぞよろしく。

「連音」する「連字」ーー「外は良寛」より

「外は良寛松岡正剛著より/備忘録3

 

良寛の詩歌には「つつ」という言葉がたびたび出てきます。

霞立つ長き春日を子供らと 

手まりつきつつ今日も暮らしつ

 

手毬をつきつつ今日も暮らしているというのは、単に手毬をついて今日も暮らしているということとちがいます。

手毬をつくことが「つつ」で強調されている。手毬をついていることが暮らしに大きくかぶさっているわけです。しかもそこにはかなり積極的なずれもある。

ずれて反復するものがある。

 

紀の国の高ぬのおくの古寺に 

杉のしづくを聞きあかしつつ

(高ぬは高野山のこと)


山かげの草の庵はいとさむし 

柴をたきつつ夜をあかしつ


雪の夜に寝ざめてきけば雁かねも 

天つみ空をなづみつつ行く


浮雲のいづくを宿とさだめねば 

風のまにまに日を送りつつ

 

良寛の最期に接した貞心尼の歌にも「つつ」が出ます。
「これぞこのほとけの道にあそびつつ つくや尽きせぬみのりなるらむ」

という歌ですが、これは何と貞心尼が良寛に最初に贈った歌です。
(中略)この歌に「つつ」が読まれたということは、いかに適確に貞心尼が良寛の本来をとらえていたかという証左ではないかと、僕には思えます。それくらい「つつ」は良寛っぽい。

 

良寛はよく知られるように、晩年に向かうにしたがって万葉集を偏愛しています。
それまでの良寛はあきらかに古今にも新古今にも惹かれている。
良寛の語感や言葉のリズムはまさに万葉的です。が、もっといえば万葉以前の、良寛が読んだか読まないかはわかりませんが、「古事記」や「祝詞」、あるいは古代歌謡のようなものも感じます。僕はそこに日本の「つつ」のルーツをとらえます。

 

僕がふと思うのは、日本の神様の名前です。たとえばオオヤマトトビモモソヒメ、ヒコホホデミノミコト、ホトタタライスズヒメ、タツツヒメ、ホノニニギノミコトといった神名には同じ音の連続があります。(略)この同音連鎖の響きに何かの「言霊の力」をこめるやりかたがあらわれているように思うのです。・・・この連打感というのは、まさに手毬のようなずれあいつつ響きあう差分的リズムです。

 

こうした「つつ」は線のちょっとした震えとか手の微細なゆれとか、ものの置きかたの動きとか、そういうところにも見え隠れしています。

 

そもそも良寛が詩歌を読むことを選んだことが、音やリズムに関心を持っていた証拠です。・・・
そこには禅のもっている独自のリズム感を文芸にもちこみたいという意図もあったかもしれません。

 

・・・どこかアタマの隅っこでは、何か格別の語感のリズムを求めていた。僕はそれを、とくに「連音」に感じていたのだと想像したかったわけでした。これは良寛が好んだ「一二三」とか「いろは」といった序数趣味にも関係してきます。

ーーーーー

良寛という存在のやさしさ。

松岡正剛さんの捉え方は勿論面白いけれど、私はまた何か違う印象も受けた。

良寛さんの立居振舞のどこかに空性を感じる。

〜しつつ、〜〜。

という、何かひとつだけに集中した意識ではなく、様々なものの気配、それらすべてを同時に、感じているような。

ここという場所を、絶対としてとらえない、意識は色々な場所に飛び、風になり、音になり、手毬になり、空になり…そんな風なとらわれなさを私は感じた。

風のような人だなぁと。

 

 

外は良寛 / 松岡正剛著 備忘録

ひきつづき「外は良寛松岡正剛著より…

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世の中に交じらぬとにはあらねども 

一人遊びぞわれはまされる

 

良寛の一人遊びは手毬とおはじきです。良寛には、特に手毬はぴったりだったかもしれません。手毬ははぐれていくリズムを持っているからです。

 

はぐれるリズムをもつということは、そこにおぼつかない「うつろいやすさ」があるということですが、こうした時々刻々に微妙に変化するリズムこそ、良寛にはふさわしい。一人遊びではないけれど、存外に一人を感じさせる“かくれんぼ”も好きな良寛でした。こんな歌があります。

 

草枕夜ごとにかわるやどりにも

むすぶは同じふるさとの夢

 

この歌は「夜ごとに変わる」というところが大事で、その変わっていかざるをえないことがたいへん良寛的です。

しかし夜毎に草枕が変わるといっても種田山頭火や尾崎放哉がしたような徹底的な放浪というものとは違います。

良寛は徹底ではないのです。

もっともっとうつろっている。良寛はむしろテーマがない人です。

 

「白扇賛」という詩があります。好きな詩のひとつです。

 

団扇画かざる意高きかな
わずかに丹青を着くれば 

二に落ち来たる
無一物の時 全体現わる
華あり月あり 楼台あり

 

団扇(うちわ)になにかを画こうとするとき、何かをちょっとでも画いてしまえば準じたものになってしまう。

むしろなにも画かないときのほうが最初のすべてのイメージが横溢しているものだ、そら華がでた、ほら月が出た、楼閣が見えてくる―そういう詩です。

ここで「無一物のとき、全体現わる。」が良寛です。

 

(中略)自分が放下して、なにもないタブラ・ラサ(白紙)のような状態のときにさあっと全体があらわれるということです。

そして良寛はこの「無一物で全体を現す」ということがめっぽう上手でした。だからこそ縁起が保たれる。

だんだん捨てて、だんだん取るのではない。

何も無いから次々に線が生まれ、その線から離れられるのです。

ーーーーー

天上大風の吹き荒れる中でも、ここにもそこにも自分がいて、

この世を見て聞いて漂っているけれど 、
そのどこにも実体は「存在しない」のかもしれない・・・

 

手にさはるものこそなけれのりのみち
 それがさながらそれにありせば

 

生まれてきて、いろいろなことをして老いて やがて去っていく 。

何もないところからやってきて、何もないところへ…
虚空に台風が渦巻いてる。

外は良寛/松岡正剛著よりーーまたその中にあわ雪ぞ降る…

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松岡正剛さんの「外は良寛」を読んだ時のメモ。2007年の日記より。

 

良寛さんの歌「うらをみせおもてをみせて散るもみじ」は生と死の表裏一体を思わせて、かつやさしく大好きな歌である。 

あらためて良寛さんの書を見ていると、詩人の吉増剛造さんの文字を思い出した。一文字一文字から「音」の聞こえてきそうな文字、手毬をつきながら数をかぞえる良寛の声や息遣いを感じさせるような文字である・・。
本を読んでいると良寛さんの「淡雪」のようなイメージが浮かんでくる。心にかかった文章をメモしていきたい。

………

 

淡雪の中にたちたる三千大千世界 

またその中にあわ雪ぞ降る

 

良寛の書に一番ふさわしい言葉は「フラジャイル」(fragile)
という言葉だと思います。フラジャイルとかフラジリティという言葉はふつうは「弱々しい」といった意味です。(中略)

しかし僕が考えているフラジャイルという感覚はもっと積極的なもので、もちろん弱々しいんだけれど、その弱々しさが成立しているところが極めて強靭である、そういうイメージです。シャープペンシルの芯などはまさにフラジャイルなもののわかりやすい例です。

フラジャイルは「もろさ」や「おぼつかなさ」などとも近隣の概念で、従って主張とか説得とか論理というものから遠く離れています。そのくせそこにそうしてあるということが精一杯である、ということにおいては実に弱々しくないのです。一見弱々しいように見えるのに、そのことがそこだけで成立しているために、たいそう強いものになっている、そんな感覚です。(中略)

残念ながらこうしたフラジャイルな感覚というものはこれまで思想的に無視されてきました。つねに強いもの、はっきりしたものが伝達力の高いものだと思われてきた。(中略)

仮に「あはれ」とか「弱さ」というものが話題になる場合でも、強さの否定形として語られてきたに過ぎません。
そうではなくて、フラジャイルなものは当の最初から「弱さが強さ」なのです。これは従来の思想とはかなり異なる思想です。最初から弱さをもって強さとしている。このことはおいおいあきらかにしていきますが、良寛の書だけではなくて、良寛の人生そのものが貫いていたものだったように思われます。
松岡正剛「外は良寛」より)
・・・

松岡正剛さんの良寛への解釈というか、切り口というか、とても共感した。

弱さをもって強さとする…

この日記からすでに9年の時が流れて…、父も母ももういない。自分の周りの環境も変わり続ける。

今自分も、裏を見せ、表を見せながら、舞っている。

淡雪ーー。美しいことばだなぁ。

この儚さ、宇宙も命も…

…でも降り続いている。

 

非時と廃墟そして鏡…あの頃の記憶

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廃墟に入って写真を撮ることにハマっていた時がある。
誰もいない、時間の止まった工場の中や、建物の中を探索するのは、
特殊な経験だった。
初めて乗る電車、全く知らない駅で降り、カメラを背負ってフェンスを越えて…
1人で行くのもちょっと危険な気がして、大抵は友人と入ったけれど…
夏でもヒンヤリと涼しい、埃っぽく湿った空気の匂い、
数年昔の時間のまま止まったカレンダー、雨の後の室内の水たまりの光、
それらの感覚は今も辿ることができる。


それとつながる記憶なのかはわからないけれど、
夕暮れ時、電車の中から見える家々の灯りと人影に、
形容しがたい気持ちを抱いていた時期があった。
無数の家々に、明るさや色合いも異なる灯りが灯っている。
電車からはかなりの距離があるのに、時としてとてもよく見えるような気がした。
部屋の中の人の声までも聞こえるような。(幻覚…)
でも、この家々の人たちに私が会うことは無いだろう。

そして、自分の家へと近づく頃、道すがら夕食の支度をしている音が聞こえ、
様々な匂いが空気の中に溶け込んでいる。
通りすがり、こぼれてくる部屋の灯り、話し声、
お皿のカチャリとぶつかる音…
けれど、そこでも自分は彼らと時を共有してはいない。

あの頃は、家に帰れば母がいた。私のために夕食も用意してくれていて。
あの、灯り、声、匂い。
あれは、今、どこかにあるのだろうか。(?)

「非時と廃墟そして鏡」とはジャズ評論家の間章(あいだあきら)さんの本のタイトル。
当時、間さんの文章にすっかり痺れていた。
非時と廃墟…

なんだろう、今、ここに属していない、場所…
今でもそれはある。無いものとして、ある。

 

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人生のほんとう/池田晶子著 備忘録4

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 ひきつづき…人生のほんとうより

 語りのレベル p172

 

私はさきほど、「善く生きる」といいましたが、同時に「どうでもいい」と言っています。
これは矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、矛盾していません。
あるいは矛盾しているといってもいいです。実際、矛盾しているんだから。笑
池田の言うことはどうも矛盾しているのではないか。
いつも何か違うことを言っているように聞こえるかもしれません、ひょっとしたら。
けれども、物語を語ることは、どのレベルでものを言うかということです。
つまり存在イコール自己、この「イコール」さえ理解できていれば、
私の言うことが矛盾していないことが分かります。
何を言ってもいいんだ、どのレベルで語っているかの違いに過ぎないんだということが
わかるはずです。

ちょっと説明的に言うと、人間はいろいろなレベルを一人の個人が持っています。
つまり個人の某としての存在、あるいは社会的存在としての自分、
それぞれのレベルがあります。
その逆の側に、心としての、魂としての自分というレベルがあります。
魂のレベルは、当然宇宙的なものに触れていきます。
宇宙的存在としての自分というレベルがあります。
で、存在の究極というところにやがて行きます。

存在の究極というのは、究極的混沌であることを裏返しにすると、
空ですから、空の側から言えば、これはもう何でも語れるということになります。
混沌の側から語れば、どうでもいいという言葉が出てきますし、
秩序の側から語れば、善く生きるという言葉が出てきます。

混沌と秩序、これは同じことの裏返しです。
あるいは論理に沿って語るか、非論理でもって語るか、
現象の側で語るか、論理の側で語るかという言い方もできます。
どのレベルで語るか。

「ある」とすることによって語るか「ない」とすることによって語るかによっても違います。
どうとでも語れるんです。

そこまで行ってしまうと、言葉は非常に自在になります。
何を言ってもおかしくないというようなことになる。
どのレベルで語っても、語りは語りなんです。
ヴィトゲンシュタインという哲学者の言葉で、非常にうまい言い方だと思って感心しているのが
「世界とは言語が見る夢である」。
語られる世界、語られて、その語られ方によってある世界です。
物語と言うことができるでしょう。(中略)

神話などはその辺の語り方がやっぱりうまくて、「リグ・ヴェーダ」だったか、
たぶんインドの神話だと思いますが、
「神が神の夢の中へ溶けていく」、そういう言い方がどこかにあったと思います。
そういうことですね、宇宙とはそのようなものです。

「神が自分自身の夢の中へ溶けていく」だったかな。
これは本当に遥かな気持ちになりますね。

私は今までのところ、「ロゴス」つまり論理の方法によって言葉を語っています。
これに対して「ミュトス」つまり物語や神話という言葉が人類にはあります。
これは対極のようでいて、じつは互いに裏返しです。
ミュトスの言葉は、ロゴスでは語れない言葉を語れます。
けれども、究極的なことは絶対に語れないという側から見れば、
ロゴスもまたミュトスの一つと見えてきます。

つまり「ロゴス」という言葉も、哲学者たちが言語で見た夢なんです。
「ロゴス」は哲学者たちの夢物語です。
しかし、かつての哲学者たちは、今はもうみんな死んでいる人たちです。
つまり死者の言葉をわれわれは読んでいるわけです。
哲学書に限らず、文学書を読むのもそうですが、われわれは死者の言葉を
読んでいるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・

死者の言葉、であっても、
発する側と受け取る側の時間が大きくズレた出会いであっても、
受け取る側にとってそれが、ほんものの「出会い」であれば
それは貴重だ。
言葉は何千年も(何万年も…?)生き続ける。

時がながれて、ある言葉が、はじめに言われた時の意味とは、
異なる意味を持ち始めることもあるのではないだろうか。

自分の言った言葉の意味が、後になってより深い意味で
実感されることは時としてある。
ひとつのことですら、玉ねぎの皮のように、
何層もの連なりの中で、語られている。

 

人生のほんとう/池田晶子著 備忘録 3

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引き続き・・・人生のほんとう/池田晶子著 より

p150

ヘラクレイトスの断片を、もう一つ紹介しておきます。
この人は魂についての言葉をずいぶん残していて、それは非常にうまいなと思います。
ピュタゴラスよりも、私は面白く感じます。

「生きているあいだも死んだ後も、目覚めている時も眠っている時も、
また若かろうと老いていようと、同じひとつのものがわれわれのうちに宿っている。
なぜならこのものが転じて彼のものとなり、
逆に彼のものが転じてそれとなるからである。」

これなんか「胡蝶の夢」と同じような論理性をもっていますね。
「自分」のひっくり返り方です。魂にとっては生きても死んでも同じだよ、と。

★★★

彼岸と此岸。
こちら側から、向こう側へ。
向こう側から、こちら側へ。
流れている。
いつかその流れから、ふっと抜けでることはあるのだろうか…

★★★

 

・・・この哲学では神はまず「流れる」実体として、とらえられている。


この流れるものとしての神は、いたるところを貫いて流れる。
それはまた、「創造的」な産出を行う実体でもある。

 

創造は流れの休止点で起こる。
つまり月も星も風も、木々も動物もすべてが、
休止という仮の形態をとった、別種の流れに他ならないのである。

 

世界に現象しているものはすべて、神である偉大な「流れる」実体の、
休止の表現に他ならないからである。

 

森のバロック/中沢新一

★★★★

 

 

 

 

 

人生のほんとう/池田晶子著 備忘録2

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ひきつづき・・・
人生のほんとう/池田晶子
第5章「魂」より p144

 

私は輪廻転生の思想というのは
人間が自己の何であるかを考えていった場合に
必ず現れてくる根強い一つの型だと思っています。
自分の何であるか、この魂はなぜこうなのかということ、
その歴史を垂直方向に求めてゆくと
必ずこの表象が現れてくる。

表象というのは、必ずしも空想ではありません。
なぜ自分は自分なのかということを水平方向に、
親から生まれた、さらにそれを遡って家系とか祖先とか、
この世の時間軸を遡る方向ではなく、
今現在においてこの魂の何であるかを問うと、
現在というのはその意味で無時間ですから、
自分をどこまでも垂直に掘ることになる。
そうすると必ず超時間的な次元というものに出てしまう。
突き抜けちゃうんですね。

この自分は何なのかと問うていった場合に、さっき話したように、
あらゆるものが、流転する魂としてのこの自分であったと気がつく。
無限のものどもが生々流転している、
そういう場所に降りていっちゃうわけです。

だから、必ずしもこれは空想ということではないんです。
水平方向の時間軸でこの話を聞いてしまうと、空想に聞こえるんです。
私はかつて誰かだった、どこで何をしていたというふうに。
この語りは並行方向で聞くと間違える。
垂直方向に聞くと、ああ、この語りはあのことだなと、
永遠性の表象だなと理解できるんです。

だから輪廻転生というのは、
超時間的な直感を時間軸に投影したというべきものです。
当然これは、嘘か本当かの真偽は問えなくなります。
そういう物語の起こし方であって、
文字通り物語なわけですから。

★★★


物語としてしか語りえないことを語る言葉ーーミュトス・・・


そして「垂直方向」、この言葉からは、
以前日記にも備忘録を残した、
池田さんの、対談本を思い出す。

「君自身に還れ―知と信を巡る対話」

大峯 顕 × 池田晶子 

この本でも垂直方向の精神について、興味深い対談がされていた。

 

垂直的精神。垂直の方向の感受性。

例えば信仰において、社会的な身分、貧富の差、教養、努力、・・・
そうしたものは殆ど意味がない。
そう、魂は心理学でもあるが宗教とも関わることだろう。

例えば、シモーヌ・ヴェイユが神に魂を捉えられた空間、
例えば、最も苦しんでいるものや、蔑まれているものが、
マリアや聖人とであう空間、
悪人と呼ばれる人たちが、
弥陀の誓願に不思議に助けられる空間、
そういう空間は、きっと垂直方向に啓いた場所なのではないかと思う。

 

そこでは自分という魂が
ほんとうは何者なのか、
それだけによって垂直方向の様々な
呼びかけや声に気づくことのできる場所なのではないかと、
半ば夢現つに思う。