外は良寛/松岡正剛著よりーーまたその中にあわ雪ぞ降る…
松岡正剛さんの「外は良寛」を読んだ時のメモ。2007年の日記より。
良寛さんの歌「うらをみせおもてをみせて散るもみじ」は生と死の表裏一体を思わせて、かつやさしく大好きな歌である。
あらためて良寛さんの書を見ていると、詩人の吉増剛造さんの文字を思い出した。一文字一文字から「音」の聞こえてきそうな文字、手毬をつきながら数をかぞえる良寛の声や息遣いを感じさせるような文字である・・。
本を読んでいると良寛さんの「淡雪」のようなイメージが浮かんでくる。心にかかった文章をメモしていきたい。
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淡雪の中にたちたる三千大千世界
またその中にあわ雪ぞ降る
良寛の書に一番ふさわしい言葉は「フラジャイル」(fragile)
という言葉だと思います。フラジャイルとかフラジリティという言葉はふつうは「弱々しい」といった意味です。(中略)
しかし僕が考えているフラジャイルという感覚はもっと積極的なもので、もちろん弱々しいんだけれど、その弱々しさが成立しているところが極めて強靭である、そういうイメージです。シャープペンシルの芯などはまさにフラジャイルなもののわかりやすい例です。
フラジャイルは「もろさ」や「おぼつかなさ」などとも近隣の概念で、従って主張とか説得とか論理というものから遠く離れています。そのくせそこにそうしてあるということが精一杯である、ということにおいては実に弱々しくないのです。一見弱々しいように見えるのに、そのことがそこだけで成立しているために、たいそう強いものになっている、そんな感覚です。(中略)
残念ながらこうしたフラジャイルな感覚というものはこれまで思想的に無視されてきました。つねに強いもの、はっきりしたものが伝達力の高いものだと思われてきた。(中略)
仮に「あはれ」とか「弱さ」というものが話題になる場合でも、強さの否定形として語られてきたに過ぎません。
そうではなくて、フラジャイルなものは当の最初から「弱さが強さ」なのです。これは従来の思想とはかなり異なる思想です。最初から弱さをもって強さとしている。このことはおいおいあきらかにしていきますが、良寛の書だけではなくて、良寛の人生そのものが貫いていたものだったように思われます。
(松岡正剛「外は良寛」より)
・・・
松岡正剛さんの良寛への解釈というか、切り口というか、とても共感した。
弱さをもって強さとする…
この日記からすでに9年の時が流れて…、父も母ももういない。自分の周りの環境も変わり続ける。
今自分も、裏を見せ、表を見せながら、舞っている。
淡雪ーー。美しいことばだなぁ。
この儚さ、宇宙も命も…
…でも降り続いている。