必死に生きるか、必死に死ぬか…
時として、だれかのブログを読んでいて「生きること」自体について悩んだり、考えているブログを読むと、ついつい読み込んでしまう。
というのも、自分もそうしたことを考えるくせがあるからだろう…。
何故生きるのか?について考えるとき、わたしが思い出す映画のひとつが「ショーシャンクの空に」という映画だ。
「ショーシャンクの空に」は自分の人生観を大きく変えた作品だったと思う。
これは映画だ。けれど、このストーリーはわたしの心の中で本当に起きているストーリーなのだ、その時そう感じた。
死のうと思ったことはないけれど、全部が 消えてなくなれば良いとおもったことは何度もある。これが全部誰かの夢で、その夢が覚めたら自分も消えていたら…。とか。
けれど今私が思うのは、とにかくとりあえず生きていて欲しいと思う。
人生は長いし、あとで振り返ったら、自分のその時の状況はそんなに焦ったり責めたりすることもなかったんだなと思えるようになると思っている。
今日、あきらめてしまったら、明日わかるはずだった答や、あなたに出会うことを待っていた誰かに、会いそこねてしまうかもしれないから。そういう日はきっとくると思う。多分、本当は自分がむしろ恵まれていることにいつかきっと気づくと思うから。
「自分が本当にやりたいこと」について考えることができる幸せ―やれるかどうかわからないにしても、可能性について考えることのできる状態は、けれど渦中の人には振り子時計のような苦しみでしかないこともある。
まあでも、とりあえず、悩める力を持ってる自分、それを希望ととらえても良いのだと思う。
日本という国の、戦争の無い時代に生まれて、もちろんさまざまな問題はあるが、
町には情報や食べ物があふれ、多くの人が一見何不自由なく暮らせる今。
そこで、生きることについて悩むことができるのは、多分悩むことのできる自由があるからだ。
そのチャンスを無駄にはしないで、時間と気力のある時は好きなだけ考えたり挑戦したり、恋をしたり、旅に出たり、親友と語り合ったり、あるいはほかの喜びに出あったり、もちろん休んだり…人生をじぶんなりに味わうのが大切。
今回、この映画について書いてみようと思って改めて気が付いたのだが、ステファン・キングの言葉が映画の副題になっている。
“Fear can hold you prisoner. Hope can set you free.”
恐れは君を囚われの身にする。
希望は君を自由の身にする。
(以下、ネタバレあります)
映画の中で、主人公のアンディは「妻を殺した」という無実の罪をきせられ、ショーシャンク刑務所に入って来る。
冤罪ということは本当にあってはいけないことだ。それでも現実にしばしばそうしたことが起こる。
自分の犯していない罪で刑務所にいれられるなんてことになったら?
そのために自分の一生が牢獄の中で、さまざまな苦しみの中で過ごすことになってしまったら?
本気で想像するとどれだけ恐ろしいことだろう。
けれど、例えばもしこの映画のストーリーが自分の見た「夢」だったら、
自分が冤罪で牢獄に投獄されたとしたという「夢」を見たのだとしたら、
視点を変えて、どんな風にこの夢の意味を考えられるのか、ちょっと考えてみた。
そう。そもそも、人間はさまざまな牢獄に入っているのでは無いだろうか。
様々なしがらみ、他人からの評価、既成概念やレッテルや常識、自分という人間についての思い込みの「牢獄」。
罪を犯した記憶はないのに、いつの間にか入れられている牢獄なのだ。
今の日本で言ったら、どんなことが自分を縛り付けることになるのだろう。
生まれた国の文化や宗教、戦争をしているか、先進国なのか、後進国なのか、それは自分で選んだわけではない。家族の関係、もって生まれた病気、兄弟関係、土地。
当たり前だと思っていることすら、生まれた時代や環境によって大きく違うのだ。
本当に偶然(または必然?) に人はあるときに、ある場所に、ある家族の中に生まれてくる。
これは絶対にどうしようもない、変えることができないと思っているような自分の囚われが、実は単なる思い込みだったり、あるいは周りの人間も同じ思い込みを共有しているために、本当は逃げられる場所が、逃げられない牢獄のような環境になっている場合もあるだろう。
でも、そのことに気づくのだ。
自分は無実の罪でここにいる。自分はもう、十分にそれを贖ったのだと。
そうしたら、意を決して牢獄から脱獄するのだ。
アンディは、妻を殺したという冤罪をきせられ、ショーシャンク刑務所にやってくる。
若くして銀行の副頭取にまでなった彼は、非常に頭のいい青年だ。けれど、決して人を馬鹿にしてのし上がるようなタイプではなく、静かでむしろ内省的な青年だ。
環境とはおそろしいもので、冤罪で牢獄に入れられた彼は、やがて自分が妻を殺したも同じだという。
そんなアンディに、もうずっと長く刑務所にいるレッドは言う。「それは違う。お前は引き金をひいてはいない。」と。
そう。牢獄にいるうちに、やがて自分が犯したわけでもない罪の一端が、自分の責任のように人は感じてしまうものだ。
そこで必要なのが友人の存在だ。この刑務所でアンディが出会い、信頼関係を築いていくのはレッドという黒人で、殺人を犯して刑務所にいる。アンディよりも10年以上前に刑務所に入ったレッドは、自分は罪を犯したことを認めている。
やがて刑務所で何年も過ごすうちに、アンディは銀行での経験と能力を生かして、刑務所の所長たちに特別な待遇を受けるようになるが、その立場を生かして囚人たちも本を読んだり音楽を聴けるようにさまざまな努力をする。
牢獄に囚われて、何も希望を抱けない仲間たちにアンディが言う印象的な言葉がある。
「心の豊かさを失っちゃだめだ。」
「どうして?」
「どうしてって、人間の心は石でできているわけじゃない。心の中には何かがあるんだ。他の誰かが手に入れることも、触れることすらできないものがそこにはあるんだ。それは君だけのものだ」
「一体何について話しているんだ?」
「希望だよ。」
そして、「希望は危険だ」という親友のレッドに対して、アンディが言う。
「希望はいいものさ。最高のものかもしれない。そして良いものは決して滅びない。」と。 けれど、やがてアンディの無実が証明されるチャンスがきた時、刑務所の内部のさまざまな秘密を知ってしまったアンディには、釈放どころか、逆に命を奪われる危険が迫る。
そこで有名なセリフがある。
「選択は2つにひとつだ。必死に生きるか、必死に死ぬかだ」
この「必死に死ぬ」とは、どういう意味なのだろうと考えていた。
人生のうちの50年間を刑務所ですごした年配のブロンクスにとって、刑務所は彼の居場所だった。
仮出所することになったブロンクスは、外の世界に戻ることを恐れて、わざと刑務所内で再び罪をおこして仮出所をやめさせてほしいとまで願う。
そう。彼にとっては刑務所の中ではあっても、そこは自分をよく知っている仲間たちの中で、自分自身のアイデンティティを保つことができたのだ。
仮出所をした彼は、めまぐるしく変化していた社会の中で、自分の居場所も存在意義も見つけられず、自殺してしまう。
それは、彼にとって自分を失わないための、必死の死だったのかもしれない。
ところで、夢の中に出てくる黒人や未開人のイメージについて、ユング心理学ではシャドウというアーキタイプ(元型)、すなわち自分のなかの未発達の可能性や影の人格、無意識のもう一人の自分、を意味していると解釈することがある。
人は自分自身の内なる未知の自分、自分の知らない自分の声に、時として耳を傾ける必要があるのだ。それは自分の影の部分であったり、自分の中でそれまで生かしてこなかった部分でもある。
自分の中には、まだまだ未知の力が眠っている。未知なる可能性が眠っているのだ。
映画の中には沢山の象徴的なシーンがある。
刑務所の中で拾った鉱石を削って掘り出すチェスの駒、
知らないうちに深く掘りさげられていた、暗闇のなかのトンネル、
解き放たれるカラス、
一瞬のスキをついて囚人たちに聞かせた「モーツァルトのフィガロの結婚」、
土砂降りの雨の中でのシーン、
長い時間、大木の根本に埋められた箱、
そしてラストの美しい光あふれるシーン。
そう、他人があなたの心の中にある希望に触れることはできない。
けれど希望を奪われてしまったら、おしまいだ。
だから、必死に生きるか、必死に死ぬかしかないのだ。
「希望は危険だ」といったレッドが、もう一度自分を信じるとき、
それは静かだけれど、必死に生きようとする再生のときだ。わくわくする。
とにかく、ラストは美しい。