lucciora’s diary 蛍日記

共感する魂を求めて

カミュにとってのヴェイユ

孤独感とは何処からくるのだろう。

ネットをブラブラしていたら、カミュの言葉に出会った。

 

『意志もまた、一つの孤独である。』

カミュ

 

カミュはよく知らない。中学生のころに、異邦人を読んだだけだ。

だが、シジフォスの神話についてのカミュの文章は読んでみたいと思った。

この神話自体は以前から知っているけれど、カミュはあの時代、あの年齢で何を考えたのか。そして46歳の時に事故で亡くなってしまったのだけれど。もっと長く生きていれば、作家として、様々な展開があったのではないだろうか。

 

シモーヌ・ヴェイユを発見し、そして彼女の本を相次いでガリマール社から出版したのはカミュだったことを考えると、カミュという人も、ヴェイユ著作との出会いを通して、いづれ信仰に出会ったならば、全く違う世界観に辿り着いたかもしれない。

カミュは信仰を持たなかったが、人の生の不条理を見つめる中で、無意味を敢然と受け入れる姿勢を示そうとした。

けれど本当は、「意味/無意味」を超えた心のあり様をどこかに求めていたのではないだろうか。

シジフォスの神話は、まさにヴェイユの亡くなった1943年に出版された作品のようだが、無意味とも思われる労働を繰り返すことの中に、彼が心の奥底で感じていたのは、自分自身の信仰への問いかけではなかったのだろうか?

 

シモーヌ・ヴェイユの、自らを虚しくして、神をその真空に受け入れようとする信仰。そこにカミュは、自らの信仰の可能性をも見出したのではないだろうか。

 

声のマ、全身詩人、吉増剛造展。いってきました。

声ノマ 全身詩人、吉増剛造

2016.6.7 - 8.7(東京国立近代美術館

行ってきました。

久しぶりの剛造ワールドに浸ってまいりました。

朗読パフォーマンスをする吉増剛造 Photo: Sayuri Okamoto

 

20160621214704

〈日記〉より 1961-64年 Photo: Kioku Keizo

 

《沖縄の炭坑夫さん》 制作年不詳 Photo: Kioku Keizo Ⓒ Gozo Yoshimasu

 

文字、文字、文字、文字......
文字の氾濫。洪水。ですね。

 

詩の原稿や、二重露光の写真、銅板に文字を刻印した作品、 映像作品もあり、
久しぶりに吉増ワールドにどっぷり浸かってしまった。

日記がかなりたくさん展示してあるのですが、詩人としての

心の中の決意が固まって行く様がありありと感じられて、

それが私個人的にはとても良かったです。


20歳くらいの頃の日記とか、面白かったですね....
全部見れるわけではなく、日記一冊につき、あるページが開いた状態で展示してあり。

 

これらの選ばれた日の日記は、あとで振り返ってみれば、今の吉増さんへの道のりを示す、キッカケとなった日だったのかなと思える日記もありました。

 

21歳ごろの日記で、
俺はいったい何をして生きていくのか?などと悩み、
自分にできそうな仕事を羅列し(中に船乗り、というのもあり、丸で囲んであった。笑)

その下に詩人→職業ではない
と書いてあったのが、印象に残りました。

吉増剛造さんにこんな時代あったんだなーと、なんだかとても楽しくなりました。

 

その時には見えなかったことが、
今こちらから見れば、あぁ、あの時そんな事考えたよね、と思う。

 

ある日記には、
自分に向かって真正面から唾を吐くような、こき下ろすようなことを言ってくるような、

そういう相手こそ(表現は違ったかも)必要なのだというようなことも書いてあり、

そして、自分はそういうことに対して、
全く平然としていられるような人間にならなくてはいけない、というようなことが書いてあり…

 

すごい覚悟だなと。でも、そうなんだなと、非常に深いところで納得しました。


静かに充たされた時間でした。

ユング 魂の現実性(リアリティ)/ 河合俊雄著 備忘録

魂のリアリティ

 

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カラバッジョ作 ナルシス 1597-1599年ごろ

 
ユング派の心理分析家の河合隼雄さんが大好きで、本も結構読んでいる。
人間の「心」というものの、深さ、複雑さ、重層的なあり方。
それらを知り尽くした隼雄さんの視線は、きれいごとだけでは済まない人生の様々な局面や困難について、どこか『母性的』な包容力を感じて、読んだ後包まれるような気持ちになる。
 
今回初めて、息子の河合俊雄さんの本を読んでみた。
息子の俊雄さんには、どちらかというと、『父性』を感じた。
物事を論理的に理解し、道を示そうとするような透徹した理性。
 
ユング心理学のアプローチはずっと好きで、著作も興味深く読んできた。ある時期は私自身も夢分析を受けていたことがある。
 
ユング心理学夢分析は、カウンセリングを受けたからといって、すぐさま自分が生きていく上で抱えている困難が、解かれるわけではない。
むしろ、時には心の深い底に、引き込まれてしまうこともあるだろう。
 
現実に即したアプローチという点では、今人気のアドラーの方が、効果は出やすいかもしれない。
 
しかし、自分自身の魂や精神について、その本質的な部分を知りたいと思うなら、ユング的なアプローチは、非常に豊かで示唆に富んだ世界を見せてくれるのではないだろうか。しかし、それはカウンセラーの力量や、クライアントとの相性にも左右されるもので、しばしば危険を伴うものでもあるとは思う。
 
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p6
ユングは自分の一生を自己実現の物語として捉えている。
しかし自己実現はよくそう思われているように、
何か未熟で未分化なものが成長や発展していって
完成したより高次のものになるのではない。
自己実現とは、文字通り自分自身になることであり、
何か違ったものになるのではなくて、
はじめからそうであるものになることなのである。

 

p112 自分がその中に生きている神話

フロイトと決別してからユングは方向喪失の状態になり、
ついには精神的危機に陥る。(中略)

このころ、ユングが自問自答していることが興味深い。
自分は過去に人々の神話を解明し、
人類が常にその中に生きていた神話としての英雄について本を書いた。

しかし、今日、人はどのような神話を生きているのか。
ユングは自分がキリスト教神話の中に生きているのかと自問してみる。
聖餐式での経験からしても、これは否である。

ユングは自問自答する。
「ではわれわれはもはや何らの神話を持たないのであろうか。」
「そうだ、明らかに我々は何らの神話ももっていない。」
「ではお前の神話は何かーーお前がその中に生きている神話は何なのか」
中略

神話とは自分が持っているものではなくて、それにいわば包まれているもので、
誰もがその現実性の中で暮らしているはずのものなのである。
過去においてはそれは神話が共同体によって担われているところに端的にあらわれていた。
そのような神話ははたして現代において可能なのだろうか。

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…「今日の神話」ではないにしても、ギリシャ神話や日本神話が好きだ。
神話で語られるのは、根源的な欲動であったり、愛憎、別れ、戦いなどなど、
今でも人の心のなかにあるものは、それほど変わっていないような気がする。

しかし、それを分かち合う共同体は、もはや国や文化といった現実的な場所によってのみ
形成される共同体ではなく、個人同士の心の?魂の?共同体のような「場」に
なってきているような気もする。

「 はじめからそうであるものになること。」…
人には、後天的に獲得された個性ではなく、生まれながらにして
備わっている個性、天性のものがあるのではないだろうか。
親や育った環境とは関係づけて考えにくい、
魂の根底に流れているその人だけに託されたテーマのようなものが。
それが、ここでいう「はじめからそうであるものになること」なのではないだろうか。
河合隼雄さんは、本の中で時折書いていらっしゃった。
皆、「自分自身の物語」を探しているのだと。
神話ではなくても、ちいさな物語でもよい。
「私」とは何者なのか。
・・・物語ること。自分の生について、自分なりに物語ること。
「意味」はなくてもよいのかもしれない。
というのも、「ほかの誰」もそれをしないし、できないのだから。
自分を生きるのは自分だけだ・・・。
それは、ときにさみしいけれど。

 

相互的な出会いについて…「モカシン靴のシンデレラ」

 中沢新一著 「モカシン靴のシンデレラ」

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あらすじ
ミクマク版シンデレラにおいて、「王子」は「ふつうの人には見えないひと」であった。

その人は偉大な狩人で、守護神は霊界の最高者であるヘラジカだった。この人のお世話は、一人いる妹が全部取り仕切っていた。
見えない人は、夕方になると狩りから戻ってきて湖へと下りる。その姿を見ることができた者が結婚することができるといわれていた。そのために、たくさんの少女たちが、この人の姿を見ようと様々に試みたが、誰一人として成功したものはなかった。


「見えない人」は家に入りモカシン靴を脱ぐと、他の人にも見えるようになる。しかしそのときに姿を見ることができても、結婚することはできなかった。
この村の妻を亡くした男の3人娘の末娘は、体が小さく、病気がちで、姉たちにひどい扱いを受けている。一番上の姉は、焼けた炭で末娘の手や顔を焼いたので、末娘は体中が傷跡だらけだった。そこで村人たちから「ボロボロの肌の少女」とか「燃やされた肌の少女」と呼ばれていた。
姉たちは「見えない人」を見ることはもちろんできなかった。
そして、いつも裸足だった末娘が、父からもらったモカシン靴をはいてついに自分の運を試しに行く日がやってきた。
服もなかった少女は森に言って白樺の皮をはぎ、衣服のようにした。
ボロをまとった少女を姉たちは笑い、馬鹿にしたが少女はめげなかった。そして湖畔にやってきた。
「見えない人」の妹は聞く。「あの人が見えますか?」と。
少女には見えた。「見えない人」のそりをつなぐ虹の紐が。それは天の川だった。
その人の妹は、少女をうちに連れて帰って丁寧に体を洗ってやると、少女はみちがえるように美しくなった。髪に櫛を入れ梳ると髪はますます長くなっていった。
目は星のようで、この世界にこのようにきれいな少女はいないと思えるような美しさだった。
そしてついに少女は「見えない人」の妻となった。

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ふつう「私は知っている」というとき、
ひとは知っているのではなく、信じているのである。
生きること、それは信じることだ。
少なくともそれが、私の信じていることである。

マルセル・デュシャン

 

 ミクマク版シンデレラにおいて、「王子」は「ふつうの人には見えないひと」であった。

他の誰にも見えなかったその人を見ることができた少女に「見えない人」が言う。
「wajoolkoos(とうとう見つけたな)」と。

 

「見えない人」と出逢うことがなければ、少女はおそらく死ぬまで、

家の中で意地の悪い母や姉に、重い労働を強いられて暮らしたことだろう。


少女にとって「見えない人」を見ることには、自分の人生の「全て」がかかっていたかもしれない。
しかし「見えない人」もまた、少女がやってきて自分を見つけるだろうことを「知っていた」し、待ってもいたのだ。

このような出会いは、相互的な出会いなのである。

 

シンデレラ物語は地域によってさまざまなヴァリエーションが見られるようだが、

その物語の大きなモチーフである「靴」は、私にとってはユングの言う「ペルソナ」を思い起こさせる。
靴をはかなければ、ひとは家から出ることも、町ひいては社会に出ていくこともできない。
社会的生活を営む者は、誰しも「ペルソナ」をつける。
そうすることで、裸のままの心でふれあうことの複雑さや、深さから免れて、社会はスムースに機能しているのだ。

 

靴を与えられる前の少女は、外に出ることもできず、虐待され、家の中にすら自分の居場所を見つけることができない。居場所がないということは、自分自身の存在理由を失うことに等しいのではないだろうか。
そうした極めて孤独な状況の中でどのように人は自分を保つことができるのだろうか。

 

ーーあらかじめ絶望についての経験がなければ、
誰にしたところで

エクスタシーの状態を知ることはできないーーとは、E.M.シオランの言葉だが、「自分自身から抜け出てしまうほどの体験」、

絶望にしろ歓喜にしろ、そうした体験は純化の過程であって、人はそこで初めて彼岸(死)の世界に触れるのだろう。


こうした意識の変容状態において、ひとは時としてこの世界の真実のようなものを垣間見るのではないだろうか。

 

この物語の中の「見えない人」とは、実は「魂にとっての真実そのもの」だと考えることもできるのではないだろうか。

 

ここで、試みに錬金術的なアプローチをとって物語を見てみるのも面白いと思った。
「見えない人」と「少女」の結婚は、「太陽と月の結婚」ととらえることもできる。
少女が炭で焼かれたり、かまどのそばにいるのは、火による洗礼とも、黒化(ニグレド)の過程とも考えられる。少女は母性的な力(大地)の物質的な側面(意地悪な継母)にとらわれているプリママテリアであり、メルクリウスでもあり、輝く太陽こそ「金」である。

 

白樺の皮をまとった少女は白化(アルベド)の過程であり、そこでは、精神的な浄化が行われる。

 

そして湖に真っ赤な夕日が落ちる時、錬金術の最後の過程である赤化(ルベド)があり、

そこでは 神人合一、有限と無限の合一が行われる。


「見えない人」とは「すべての光(真実)」を集めた太陽であり、その光は虹のスペクトルとなって、そりをひき、彼は天体(天の川)を移行する。
日中はそのあまりの眩しさゆえに、彼を直視することのできる人はいない。
よって彼は「見えない人」と呼ばれるのである。
ただ夕暮れ時に、彼が湖に自身の熱を冷まし、休息するために降りてくるとき時のみ、
近づくものをその光と熱とで滅ぼさずに済むのだ。


少女が彼の妻となる女性だとしたら、彼女は月であり、だからこそ「見えない人」を見た少女は、
太陽の光によって、みるみるうちに輝きはじめ、美しく成長する。
聖なる空間においては、魂は露わなままで互いに喜びをもたらし、「見えない人」はもはや真の姿を覆うこともなく、花嫁のヴェールもやがて取り払われるだろう。

 

「とうとう見つけたな」・・・。
「心」が「真実」を求めるように、「真実」もまた、「心」が彼のもとへと赴くことを待ち、そしてそれを「知っているのだ」。そのことに気付いたならば、私たちの「心」を「真実」へとむかうことを阻むものは一体何であろうか。

 

 

吉増剛造著「我が詩的自伝ー素手で焔をつかみとれ」

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もう、遊ぶことのないフェニキアの舟のかわりに
ーーー茴香(ういきょう)の黄色い花が咲いていた

わたしたちの魂は、その石段を静かに下る
ーーー下るほどに(空の道の)甘い香りがしていた。

吉増剛造 「死の舟」より


4月に出た「我が詩的自伝ー素手で焔をつかみとれ」が手元に届き、
ぱらぱらと、先へ先へと気が走り、ページをめくる。

 

吉増さんの若い頃の話や、作家やアーティストとの交友関係、女性観など、
かなり本音で流れるように語ってくれていて、ファンとしては相当面白い。
それにしても、この帯の写真がすてきだ。
吉増先生はやっぱり顔が良いなー・・・。表はアラーキーの写した若い頃の顔、
そして、裏は今の顔。77歳になられたんだ。。。ある意味、この顔をみているだけで、
作家の生き様を十分に感じることはできると思う。

 

詩人というのは、仕事ではなく、生き方、存在の仕方そのものなのだ。
そう気づいたは、詩人の吉増剛造さんを見たときだったと思う。
佇まい、歩き方、立ち止まり方、視線、話しかた、すべてが「詩人」吉増剛造だった。
どこをスパッと切っても、吉増剛造は「詩人」吉増剛造でしかありえない。

 

「ほんもの」の表現者はすくない。と思う。
ほとんどのものは、なにかエッセンスを薄めて混ぜ合わせたもののように感じる。
個性があっても、「ほんもの」ではないような気がする。
もちろん、それはそれで良いのかもしれない。

 

詩人の言葉や表現は詩人の存在そのものと一体化してたがわない。
表面だけではなく、存在の奥の奥のほうまで。そういうことなのだろうか。
その奥の奥は、どこへつながっているのかを、垣間見せてくれる存在。
それが表現者なのだと思う。

 

このような、もしかして最後の詩人と私が思うその人と
同じ時代に生きていて、会うこともできる自分は、本当にラッキーだと思う。

 

「愛さないの 愛せないの」



下書きに書きかけのままのブログがあったので、アップしておこうと思い。

寺山修司さんの「愛さないの 愛せないの」。

この本は高校時代、親友がくれた本。彼女とは今も時々会ってランチする仲だ。

愛さないの 愛せないの、それは今の私にとっても考えさせられる問いかけだ。


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愛の大工―心の修理をします


台風が吹くと 垣根がこわれたり
大雨が降ると 屋根がもったり するように


愛もときどき 破損したり 穴があいたりします
そんなとき 専門の大工さんが必要です


少年時代
僕は夢のなかで
天の川の堤防が決壊して
星が空じゅうにあふれ出そうとするのを修理しにゆきました


大人になった今
愛の修理を引き受ける大工になりたい
と思いながら

寺山修司

~~~~~


高校時代、吉祥寺のバウスシアターで、寺山修司の映画特集をひとりで観に行ったのを思い出す。

あのころ、私にとって吉祥寺はすごく知らない場所だった。携帯もナビもない時代、ぴあを片手に歩いたのだったか。

今わりと近い場所に住んでいるけど、バウスシアターはなくなってしまった。


あのころ、好きだったもの。

四谷シモンさんの人形、ジャン・コクトーマルセル・デュシャン澁澤龍彦さんの本、アンティークショップや古着屋さん。あと、フールズメイトというインディーズ系の音楽雑誌があって、発売日を楽しみにしてたっけ。

すごく暗かったけど、今思うとキラキラしていたね。