lucciora’s diary 蛍日記
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2025-11-19

映画『平場の月』-月の満ち欠けが美しかった

人生をふりかえる 映画 心理

youtu.be

 

切ない、けれど、心に少し重く、温かく、いつまでも残る感触がある映画だった。

朝倉かすみさんの小説が原作とのことだが、彼らの生き様がとてもリアルに身近に感じて、自分の知っている人たちのお話のように感じた。

 

「平場 の 月」の「平場」とは、言葉の通り、特別ではない、ごく普通の日常的な場所を意味するようだ。

堺雅人と井川遥が等身大でそこにいる気配感があった。

 

ファンタジーみたいかもしれないが、思春期に抱いた気持ちというのは意外と自分の存在の根っことつながっている気がする。いつまで経っても嘘が無い気持ち。

現実とか打算が入っていなくて、まだそうした判断や計算に邪魔される前の、直観的な「好き」「嫌い」「大切」「憧れ」「ほんもの」みたいなもの。

 

人は一生変化し成長していく。

この映画でも離婚や仕事、親の老いなどの情景がちりばめられているのを見ながら、仕事や結婚というものは、青年期の自分がこの社会の中で生きていくための、現実的な日常の契約であるようにも感じる。もっと特別だったり、もっと悲惨な場合もあるだろうが。

 

まぁまぁ、色々と大変だったけど、なんとかやってきた人生を、いい年になって、ふと振り返ってみたり、その終わりについて思ったりしたときに、心の奥に置き忘れていた「自分の心を満たすものは何なのか」を、やっと感じるものなのかもしれない。

 

脇を固める役者さんたち、クラスメート役の大森南朋や、須藤(井川遥)の年下の元彼役の成田凌、居酒屋の大将の塩見三省らの佇まいや存在感が大きく、映画の中では描かれていない彼らの人生についても重層的に奏でられているかのような光を放っていた。

 

印象的な月の満ち欠けの美しさ。

中学生の時、一度だけ、夜に二人で見た月は満月だった。

その月が水面に映っているシーンはとても印象的だった。

将来はまだ未知で、望みや可能性はいくらでも広がっていくような期待感に満ち溢れていた。

 

歳を重ねて、不安や苦しさもある中、希望や優しさや愛情が、月の満ち欠けのように繊細に満ちたり欠けたりするけれど、それでも夜の静寂に輝きを放っていることに変わりはない。そのイメージは、「たった一つだからいい」という言葉につながっている気がした。

 

若い時には見えなかった人の気持ちや状況が、経験を重ねるとともに腑に落ちる。

人は永遠には生きられない。そのことの儚さ、かなしさ、やさしさ。

星野源さんの楽曲「いきどまり」もよかった。

 

 

 

 

 

 

lucciora 2025-11-19 20:20 読者になる

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2025-02-23

映画『怪物』を観た

映画 心理 読書・備忘録

是枝監督の『怪物』をAmazonプライムで鑑賞。

gaga.ne.jp

10代前半の若い役者さんである黒川想矢と柊木陽太の存在感がとにかく素晴らしかった。あっというまに通り過ぎてしまう10代の思春期のころの、言葉にする前に消えてしまうような感情や一瞬の表情が見事にとらえられていると思った。

あの時期の思いや感じたことは、うまく言葉にできないまま、記憶からもすり抜けてしまうけれど、ふとした香りや光の反射などで今でも蘇ってくるような時間が、映画の中で流れていた。

お話自体には、ところどころ痛みを感じるような、

しかし、最後は成長していく強さや輝きや優しさを感じる映画であった。

 

もともと、是枝監督の「怪物」についてのインタビューを読んでいて、「怪物での役を演じるにあたって、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を黒川君に読んでもらった」というようなことが書いてあったのを読んで、どんな映画なんだろうと興味をもって観たこともあって、

観たあとに「あぁ、たしかに、宮沢賢治の本の中のジョバンニとカンパネルラや、星や鉱石や透き通った水や、そんなみずみずしさや、思春期の悲しさのひりひりする感じ、同時に忘れられないような耀きがあるなあ」と思った。

映画自体は、現代のさまざまな社会的な問題をいくつもちりばめていて、色々と考えさせられるし、展開もスリリングで飽きさせない。

いじめの問題、シングルマザー、問題をもみ消そうとする学校や教師たち、虐待、などなど、ニュースでもよくみるような現代の問題が、映画の中で自然に展開する。「怪物」とは、果たして誰なんだろうか。

しかし、一見いじめ、に見える状況が、もっと全く違う、子供同士のストーリーだったり、背景を持っていることは、この映画のように起きているかもしれないし、それは本当にだれにもはっきりとはわからない部分がいつもどこかにあるような気がした。

個人的には、この映画の面白いところは、芥川龍之介の小説であり映画にもなった『羅生門』のように、起きていることの「解釈」というか「見方」は一つではなく、語り手や視点によって異なることを描いていることだと感じた。この映画では、それらのばらばらの視点が、最後にはある部分ではつながったり補い合って、一つの風景を浮かび上がらせているところが凄いなと思った。

たまたま今勉強している「ナラティブ・セラピー」の考え方と重なる部分があるように思ったし、実際に人の人生は、自分の人生の物語をどのように自分自身が解釈するかによって、その風景は変わってくるのだと思う。

(そして、そう思ったのは果たして的外れなのかどうか、ネットで検索してみたところ、「羅生門」構造の映画、との記事があり、今ちょっと安心した。)

forbesjapan.com

 

映画音楽は坂本龍一さん。これが最後の映画音楽となったそうだ。

時間はどんどん流れていく。

年々歳々、人同じからず。

ポケットの中のたいせつなものを感じながら、

鼻歌をうたいながら、たくさん寄り道をしたいとおもった。

 

 

 

lucciora 2025-02-23 00:29 読者になる

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2025-01-12

映画『大きな家』・・・嬉しいことが、少しずつ、少しずつでも 彼らに起こって欲しいと願う

映画 読書・備忘録 心理

映画「大きな家」を観た。

児童養護施設の日常。子供たちの成長。

 

家の近くに児童養護施設があって、通りかかる時に、中で遊んでいる子供たちの様子が垣間見える。

元気そうに、大きな声を出してボール遊びをしていたり、楽しそうに喋っていたり、時にはそこでバザーが開かれたりしている。

 

家族と一緒に住めないということについて、ふと思いを巡らすけれど、一概に親と暮らすことがベストとも言えないとも思う。

もし、親が子供を育てられないと思うなら、そして、追い詰められた親の状況が子どもを傷つける害のほうが大きいなら、むしろ別々に暮らした方が良いのかもしれない。

 

この映画に出てくる施設は、設備が整っているし、スタッフの人たちも、それぞれ精いっぱい子供たちの世話をし、温かい眼差しで包もうとしているように感じる。

 

それでも、この映画を観ていると、多くの子ども達が「家族」というものや、「血がつながっている」ということについて抱いている『特別』な思いがそこかしこに感じられて、考えさせられる。

 

この映画では、子ども達が家族と暮らせない事情などについては一切触れていない。

bighome-cinema.com

 

(以下、映画の内容に触れています。言葉も記憶で書いているので、若干、間違えているかもしれません)

 

17歳くらいの少年だったか…インタビュアーに報告するように、

「あ、でも誕生日にお母さんと出かけるから、その日にプレゼントを買ってもらうんだよね」と何度か話していたのに、

誕生日の当日になって「お母さん、来ないんだって」と。そう、伝えるときの表情。

泣いたり怒ったりなんかしないから、気持ちがかえって心に伝わってくる。

外にひとりで出かけて行く姿。

きっとがっかりさせられたことは、一回きりでは無かったはず。

それでも、やっぱり待っているんだろう。

 

どこかに不安定さを抱えている様子の18歳の少女。そろそろ一人立ちしなければいけない時期になり、

自分の何かを変えたいと、ネパールの児童養護施設にボランティアとして参加する。

彼女は、ネパールの施設の同年齢の少女に興味をもち、彼女を対話へと誘う。

「淋しいとか、思わない?」と聞く日本の少女。彼女自身はどこかでずっと、寂しさを抱えて生きてきたのだろう・・。

 

ネパールの少女はこたえる。「淋しい・・?いいえ。ここには沢山子供たちがいて…家族みたいだもの」

日本の少女は少し驚いたように、そして、そうなんだ‥淋しくないんだ、と噛みしめるようにつぶやいていた。

 

その後、インタビューに答えて日本の彼女は言う。

「ここ(ネパールの施設)では、みんな目が合うとにこっとしてくれたり、いたるところでお互い助け合ってる姿が見える。

でも日本では、みんな下向いてスマホとかいじっていて・・・、自分はそういうところで育っちゃたからなー」

 

いまの日本は、多くの人にとって孤独やストレスを感じやすい場所になっているんじゃないだろうか。

安心感とか、人のあたたかさとか、やさしさとか、心の余裕とか、得られにくい感覚。

昔はあった「人情」みたいなものは、今では厄介払いされている。

その方が楽かもしれないけれど、だれもが孤独と隣り合わせだ。

 

先進国のなかで、若い世代の死因の一位は自殺なのは日本のみだ、という情報もある。未来や、大人になった自分、それらに希望や、ワクワクするような期待感が持てないのは、なぜなんだろう。

 

逆境にも関わらず、映画の中の彼らは、私にとっては同情の対象などでは決してなかった。

途中、数日間、登山を続ける姿もあったが、時に強風に逆らって、険しい山道を登っていくその姿のように、

彼らは強さや逞しさをもっている。

命が輝いている。

むしろそう感じた。

 

この映画を観て、人間の一生について、自分の人生について、ぼんやりと考えている。

 

自分は自分の人生を、どんな風に生きていきたいのか、

どうやって人と関わっていきたいのか…改めて考えてみることも大切なように思う。

歳を重ねて、若い頃とは価値観や人生観も変化している自分を実感した。

 

この映画を観ることで、何ができるか、ということは、一人一人が出来る範囲で、なにか考えられたらいいけれど

 

今まであまり知られていなかった彼らの日常について、

まずは、より多くの人たちが知るということは、この社会にとって重要なことだと思う。

そう思って、久しぶりのブログを書いてみた。

 

ほんのちょっとしたことでもいいな。

嬉しいことが、少しずつ、少しずつでも、彼らに起こって欲しいと願う。

 

自分や、自分の周囲の人たちも同じだ。

これを読んでくれている人たちも。

みんな、それぞれの人生を一生懸命生きているから、

ちょっとした良いことや、幸せが、お互いに、ちょっとずつ積み重なってみんなに起こって、

そしてみんなが少しでも笑顔になることが多いといいな、と思う。

 

 

lucciora 2025-01-12 21:31 読者になる

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2024-03-31

映画『ミッション・ジョイ ~困難な時に幸せを見出す方法~』を観てきた。

映画 心理

下高井戸シネマで、『ミッション・ジョイ ~困難な時に幸せを見出す方法~』を観てきた。

unitedpeople.jp

 

~映画概要『ミッション・ジョイ ~困難な時に幸せを見出す方法~』
困難に直面した時、私たちはどのように幸せを見出すことができるのか?

本作はチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世と、南アフリカのアパルトヘイト撤廃運動の指導者の一人、デズモンド・ツツ大主教という2人のノーベル平和賞受賞者が、宗教の違いを超えてその答えを導き出す深い知恵と喜びに満ちた世紀の対談を元にしたドキュメンタリーである。深い友情で結ばれた2人は、ユーモアを交えながら、幸せや死生観などについて壮大な問いに迫り、私たちにどんな状況でも喜びと共に生きる知恵を授けてくれる。~

 

感想としてはとっても良かった。時々泣けた。

動乱の中を生き抜いてきた老賢人2人の、子供同士のようなやりとりの中に、

時折見せる一種の凄みと、磨かれた玉石が柔らかい光を反射しているような

豊かさを感じて。

「人々が"自由になる"と決めたら

彼らを止められるものは何も無いのだ」

(デズモンド・ツツ)

 

人を助けようとすることの中にこそ、喜びがある、とこの2人が言うとき、

それは本当のことだと強く感じる。

 

どれだけ多くの人々が、彼らの「存在」そのものを心の支えにして、

生き抜いてきたのか、

そして志半ばで命を落としたのか。

自分につながっている、その命の重さを背負ってなお、

彼らは命の喜びに触れている。

解決されきってはいない祖国や人種の問題を抱えながらも、

自分の内側にある喜びを、人に伝えようとしている。

 

人間は根本的には善なのだ、どんな人も。

その言葉が、心にしずかに響いた。

 

 

lucciora 2024-03-31 21:17 読者になる

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2022-05-14

「いまを生きる」

想起・雑記 映画


20歳過ぎのころ「いまを生きる」という映画を観ました。かれこれ30年くらい前になってしまいます。
https://filmarks.com/movies/14908

映画との出会い、という点で、今でもこの映画は私にとってベストの一つだと思います。

もう何年も観ていませんし、その後沢山の映画が出てきたし、もっと洗練されてたり、新しかったりする映画は出てきているでしょうが、

変わらずにマイ・ベストなのは、この映画の中に、私にとっての大きなテーマがあるからなのだと気が付きました。

それは、人は、人との魂の深い部分での出逢いなくしては、本当の意味では生きられないのではないか、という私なりの人生の実感だと思います。

映画の中でロビン・ウィリアムズが型破りな教師役を演じていて・・あったかくて、生徒をだれよりも理解してくれて、沢山の方法を見せて導いてくれる。これこそが本当の先生だよね、と思う。心から尊敬できる、自分より人生を知っている人=先生。

現実では、一生のうちに、心から先生と呼べる人にそうそう出会えないものだと思います。
でも不思議と、心の中には「先生」の原型とでも言うべき、ある理想像があって、私にとってはそれが、この映画でロビン・ウィリアムズ演じるキーティング先生その人でした。

それは、生徒の一人ひとりの中にある最も彼らしいもの、自身すら気づいていない原石の輝きを見出して、様々な方法で語りかけ、刺激し、育てるということ。

自分を信じるということを、教えてくれる。一緒に苦しみながら、考えてくれる。

それを大いなる愛を持って、している人。

そんな先生に、あるいはそんな大人に、出会いたいんだと思います。子供たち、若者たち、そして大人になっても、みんな出会いたいんだと思います。

心から信頼できる大人と出逢えたとき、痛みの中にいる「私」が、「自立」を目指そうと思えるんだということ。

この映画の中で、親との関係も大きなテーマになっています。

自分の信じていること、自分が大切に思うことを声に出すっていうのは怖いことで・・
動いていくのはもっと怖いです。自分の中に、それが本当にあるのか、ないのか、急に見えなくなることもあるから。

それを見つけて、必死に訴えても、ありのままの自分を受け入れてもらえなかった、その無念さ。悔しさ、絶望感。それは今でも、どこかに静かに残っているのかもしれない。 

映画にもありますが、親にわかってもらえない、というのは悲しいことなんですよね。遠い昔から永遠にあるテーマですね。大きな苦痛ですよね。

若くて不安定な要素があるときは、親の支配(価値観)から逃れられない、と思ってしまうのは極々自然で、だから映画では悲しいことになってしまいました。植え付けられた概念から自由になることは至難のわざなんですよね。
だから詩を読むんでしょうね・・。表現するんでしょうね・・。

自分の人生をどう生きたいのか?
いつも思うようにいくわけではなくて、
現実の様々な問題もありながら、それでも自分でなんとかやっていくのは、すごい勇気とエネルギーがいることなんです。

だから何より自分を大切にしてほしいです。なぜなら「あなた」という個性は、あなたしか持っていないのですから。
その原石を磨いていくのは、あなたしかできないのですから。

この映画の中で、カルペ・ディエム(1日(の花)を詰め)という言葉が出てきます。人はいつも死に向かっている。だからこそ、その日を精いっぱい生きる。それは、私の中で「メメント・モリ」(死を忘れるな)という言葉と重なって、だからこそ、いまを生きろ、という強い言葉を、私もかれらと一緒に受け取ったのかもしれない。

つらくても、死を思っていても、真剣に自分に向かっているのなら、深い今を「生きている」と思います。逆に、死を思うからこそ、「より深く」今を生きている、のかもしれません。

あとで振り返ったとき、これらの日々は絶対に無意味ではなく、自分がこの世界に関わろうとして、もがいたりひっかいたりした痕、
あるいは種が芽を出すための土の中での格闘みたいに、この宇宙に痕跡を残している時間だと思います。

それこそ、愛すべきただひとつの姿、その自分を愛してほしいと、私は思います。
なぜなら、本当に素晴らしいものをもっているからです。

いつか、誰かにそれを渡す日が来ると思います。
沢山の人かもしれないし、一人かもしれない。でも、きっと来ると私は信じています。

lucciora 2022-05-14 23:57 読者になる

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2018-07-13

私たちはどこから来て、どこへ行くのか …(2)

映画 読書・備忘録 アート・展覧会

ミッドナイト・イン・パリ(字幕版)

ウディ・アレンの「ミッドナイト・イン パリ」を観た。とっても愉快な気持ちになった。

 

前回の「前世」についてのブログにひきつづき、この映画も「時間と空間の境界線を超えて」しまうお話だった。

 

きっと自分が本当に会いたい人には会えるんじゃないか。会うべき人には。

…たとえ生きてる時代すら違っていたって?

そう。多分、時代とか場所も関係なく。そんな気がした。

そんな風に思わせてくれる、愉しい作品。

 

 久しぶりにウディ・アレンの映画を観たのだけど、翻って考えてみれば過去に戻る話というのは、映画でも本でも結構あることに気づいた。

 

ストーリーを少し書く。

主人公はアメリカ人の脚本家ギル。本当は小説家になりたくて、はじめての小説を書いているけれど、まだ誰にも見せていない。見て欲しいと思える相手が周りにいないのだ。

 

婚約者の女性とパリに旅行に来たけれど、雨のパリが大好きな彼の感性を、婚約者の彼女はまったく理解しようともしない。(こんなに自分の感性にそぐわない相手と、人はなぜ結婚しようと思うのか… 客観的に見ていればわかるのに。私自身を含め人生はそんなことの連続だ。)

 

主人公のギルは、ひとり酔っぱらってホテルに帰りつけずに街角で座っている。

大好きなパリの真夜中…

とそこに、1台のクラッシックカーがやってくる。車からはギルに向かって「乗れよ」と呼びかける陽気な男女がいて・・・。

 

酔いも手伝ってこの車に乗りこんだ彼が行き着いたパーティは、なんと1920年代のパリだった!

これがまた登場人物を見ると私も大好きな時代。ジャンコクトー主催のパーティに出席してみたかった。(笑)

 

自分にとっての黄金時代。次から次へと惜しげもなく現れる、レジェンドな作家やアーティストたち。

フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、ピカソ、ダリ、そしてそのミューズ達。

 

…驚きと興奮のなかで、ギルは徐々にその時代を楽しんでいく。

 

フィッツジェラルド夫妻が「ホンモノ」だとわかった時の、ギルの表情がむちゃくちゃ可笑しい。海外の映画館での観客のリアクションを思わず想像してしまった。きっとこういうシーンは大笑いと拍手喝采。

 

 自分にとっての「黄金時代」ともいえる過去に行った主人公は、その時代に生きる彼らにとっては、そこは黄金時代ではないと知って愕然とするのだけれど、やがて彼も気づく。

「現在というのはいつも不満なものなんだ」と。

 

この話は「前世」ではないまでも、過ぎ去った時代に戻る話で、今はいない憧れの作家やアーティストたちが、彼らの時代に何を考えてどんなことを語り合い、どんな生活を繰り広げていたのか…こうだったんだろうなーという想像と妄想が美しい映像で再現されていてすごく贅沢。

 

夢だったとしても自分がそこにいたら誰とどんな話をして何を見るのだろう。

というか、もし自分だったら、いつの時代のどの国で誰と会いたいか…この映画を観てからずっと考えている。

 

ところで、出会いというのはリアルタイムの現実でなくても良いのだと個人的にはよく思う。本当につよく感動するような出会いは、なにも現実の世界で同時代を生きている人たちとの出会いだけではなくてもよいのだ。もちろんそれも重要だけれど。それも感動的で奇跡的なときもあるけれど。

けれどもし、今出会えていなかったら、時代は違って、タイムトリップしたら自分が話したい仲間たちはいっぱいいるのかもしれない。過去にも未来にも。

 

なぜか心惹かれる風景や作品、見たことがあるような情景、ある時代の建築物や服装、さまざまな様式。

なにかに特別に惹かれるのは何故なのだろう。もしかしたらいつかどこかで出会っていたのかも知れない、そう考えたほうが自分の世界観に厚みや広がりが感じられるし、なんとなく楽しくなってくるのではないかしら。

本や映画というものは、まさにそうした出会いのひとつとも言えるだろう。

 

ゴッホ:天才の絵筆(字幕版)

 

こちらも最近観たドキュメンタリー映画。

ゴッホが自分の製作や人生について、あたかも現在の私たちに話しかけるよう作りになっていて、これもとても良かった。並行して読んでいた本は「謎解きゴッホ」。

 

謎解きゴッホ: 見方の極意 魂のタッチ (河出文庫)

 

―有名な話だけれどゴッホが描いた油絵約900点のうち、生前はただ一枚の絵しか売れなかったという。それも画商でもある弟のテオが売ってくれた絵だった。

それが今やゴッホの絵はオークションで史上最高の値段がつく。

 

あまりにも皮肉な状況だけれど、ゴッホが貧しさや無理解や苦しみの中で自分を追い込みながらも描き続けたことは、彼の絵画を短期間で非常な高みへと導いたように感じた。そこまで彼を追い込んだもの、彼の人生、気質、愛、宗教、家族、そして絵に対する思い。

 

そうしたものに思いを馳せるとき、気づかせられる。

自分が信じたものを作り上げていくこと、周囲の無理解にあっても自分が投げてしまわないこと。自分の好きなものを大切にして生き生きと思い描くこと。

 

自分にとって大切にしたいものが、何かの形をとって自分に語りかけてくる時は、無視しないで意識をそこにもっと向けていこう。じっとみつめたり、耳を傾けるのは意味のないことではないはず。

何百年経っていても、それらは生きたメッセージであり情報なのだから。

 

人の生きざまだったり、作品だったり、場所だったり、自分をインスパイアして先に進む力をくれることがある。彼らが思いをそこに残している。

ゴッホは生きている間、社会的には何者でもなかった。こんなにも称賛されもてはやされる彼は、生きているときは成功者ではまったくなかった。

周囲からも孤立し、きちがいと呼ばれ、唯一の理解者は弟のテオだけだった。

それでも死をえらぶその瞬間まで、ゴッホは絵の中に自分の思いを込め続けた。

そのことのむずかしさと素晴らしさにあらためて今、心をゆさぶられている。

lucciora 2018-07-13 21:31 読者になる

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2018-05-13

必死に生きるか、必死に死ぬか…

映画 想起・雑記

ショーシャンクの空に [DVD](ショーシャンクの空に)

 

時として、だれかのブログを読んでいて「生きること」自体について悩んだり、考えているブログを読むと、ついつい読み込んでしまう。

というのも、自分もそうしたことを考えるくせがあるからだろう…。

 

何故生きるのか?について考えるとき、わたしが思い出す映画のひとつが「ショーシャンクの空に」という映画だ。

 「ショーシャンクの空に」は自分の人生観を大きく変えた作品だったと思う。

これは映画だ。けれど、このストーリーはわたしの心の中で本当に起きているストーリーなのだ、その時そう感じた。

 

死のうと思ったことはないけれど、全部が 消えてなくなれば良いとおもったことは何度もある。これが全部誰かの夢で、その夢が覚めたら自分も消えていたら…。とか。

けれど今私が思うのは、とにかくとりあえず生きていて欲しいと思う。

人生は長いし、あとで振り返ったら、自分のその時の状況はそんなに焦ったり責めたりすることもなかったんだなと思えるようになると思っている。

 

今日、あきらめてしまったら、明日わかるはずだった答や、あなたに出会うことを待っていた誰かに、会いそこねてしまうかもしれないから。そういう日はきっとくると思う。多分、本当は自分がむしろ恵まれていることにいつかきっと気づくと思うから。

 

「自分が本当にやりたいこと」について考えることができる幸せ―やれるかどうかわからないにしても、可能性について考えることのできる状態は、けれど渦中の人には振り子時計のような苦しみでしかないこともある。

まあでも、とりあえず、悩める力を持ってる自分、それを希望ととらえても良いのだと思う。

日本という国の、戦争の無い時代に生まれて、もちろんさまざまな問題はあるが、

町には情報や食べ物があふれ、多くの人が一見何不自由なく暮らせる今。

そこで、生きることについて悩むことができるのは、多分悩むことのできる自由があるからだ。

 

そのチャンスを無駄にはしないで、時間と気力のある時は好きなだけ考えたり挑戦したり、恋をしたり、旅に出たり、親友と語り合ったり、あるいはほかの喜びに出あったり、もちろん休んだり…人生をじぶんなりに味わうのが大切。

 

今回、この映画について書いてみようと思って改めて気が付いたのだが、ステファン・キングの言葉が映画の副題になっている。 

“Fear can hold you prisoner. Hope can set you free.”

 恐れは君を囚われの身にする。

希望は君を自由の身にする。

 

 (以下、ネタバレあります)

映画の中で、主人公のアンディは「妻を殺した」という無実の罪をきせられ、ショーシャンク刑務所に入って来る。

冤罪ということは本当にあってはいけないことだ。それでも現実にしばしばそうしたことが起こる。

 自分の犯していない罪で刑務所にいれられるなんてことになったら?

そのために自分の一生が牢獄の中で、さまざまな苦しみの中で過ごすことになってしまったら?

本気で想像するとどれだけ恐ろしいことだろう。

 

けれど、例えばもしこの映画のストーリーが自分の見た「夢」だったら、

自分が冤罪で牢獄に投獄されたとしたという「夢」を見たのだとしたら、

視点を変えて、どんな風にこの夢の意味を考えられるのか、ちょっと考えてみた。

 

そう。そもそも、人間はさまざまな牢獄に入っているのでは無いだろうか。

様々なしがらみ、他人からの評価、既成概念やレッテルや常識、自分という人間についての思い込みの「牢獄」。

罪を犯した記憶はないのに、いつの間にか入れられている牢獄なのだ。

今の日本で言ったら、どんなことが自分を縛り付けることになるのだろう。

 

生まれた国の文化や宗教、戦争をしているか、先進国なのか、後進国なのか、それは自分で選んだわけではない。家族の関係、もって生まれた病気、兄弟関係、土地。

当たり前だと思っていることすら、生まれた時代や環境によって大きく違うのだ。

本当に偶然(または必然?) に人はあるときに、ある場所に、ある家族の中に生まれてくる。

 

これは絶対にどうしようもない、変えることができないと思っているような自分の囚われが、実は単なる思い込みだったり、あるいは周りの人間も同じ思い込みを共有しているために、本当は逃げられる場所が、逃げられない牢獄のような環境になっている場合もあるだろう。

でも、そのことに気づくのだ。

自分は無実の罪でここにいる。自分はもう、十分にそれを贖ったのだと。

そうしたら、意を決して牢獄から脱獄するのだ。

 

アンディは、妻を殺したという冤罪をきせられ、ショーシャンク刑務所にやってくる。

若くして銀行の副頭取にまでなった彼は、非常に頭のいい青年だ。けれど、決して人を馬鹿にしてのし上がるようなタイプではなく、静かでむしろ内省的な青年だ。

 

環境とはおそろしいもので、冤罪で牢獄に入れられた彼は、やがて自分が妻を殺したも同じだという。

そんなアンディに、もうずっと長く刑務所にいるレッドは言う。「それは違う。お前は引き金をひいてはいない。」と。

そう。牢獄にいるうちに、やがて自分が犯したわけでもない罪の一端が、自分の責任のように人は感じてしまうものだ。

 

そこで必要なのが友人の存在だ。この刑務所でアンディが出会い、信頼関係を築いていくのはレッドという黒人で、殺人を犯して刑務所にいる。アンディよりも10年以上前に刑務所に入ったレッドは、自分は罪を犯したことを認めている。

 

やがて刑務所で何年も過ごすうちに、アンディは銀行での経験と能力を生かして、刑務所の所長たちに特別な待遇を受けるようになるが、その立場を生かして囚人たちも本を読んだり音楽を聴けるようにさまざまな努力をする。

 

牢獄に囚われて、何も希望を抱けない仲間たちにアンディが言う印象的な言葉がある。

「心の豊かさを失っちゃだめだ。」

「どうして?」

「どうしてって、人間の心は石でできているわけじゃない。心の中には何かがあるんだ。他の誰かが手に入れることも、触れることすらできないものがそこにはあるんだ。それは君だけのものだ」

「一体何について話しているんだ?」

「希望だよ。」

 

そして、「希望は危険だ」という親友のレッドに対して、アンディが言う。

「希望はいいものさ。最高のものかもしれない。そして良いものは決して滅びない。」と。 けれど、やがてアンディの無実が証明されるチャンスがきた時、刑務所の内部のさまざまな秘密を知ってしまったアンディには、釈放どころか、逆に命を奪われる危険が迫る。

そこで有名なセリフがある。

「選択は2つにひとつだ。必死に生きるか、必死に死ぬかだ」

 

この「必死に死ぬ」とは、どういう意味なのだろうと考えていた。 

人生のうちの50年間を刑務所ですごした年配のブロンクスにとって、刑務所は彼の居場所だった。

仮出所することになったブロンクスは、外の世界に戻ることを恐れて、わざと刑務所内で再び罪をおこして仮出所をやめさせてほしいとまで願う。

そう。彼にとっては刑務所の中ではあっても、そこは自分をよく知っている仲間たちの中で、自分自身のアイデンティティを保つことができたのだ。

仮出所をした彼は、めまぐるしく変化していた社会の中で、自分の居場所も存在意義も見つけられず、自殺してしまう。

 それは、彼にとって自分を失わないための、必死の死だったのかもしれない。 

 

ところで、夢の中に出てくる黒人や未開人のイメージについて、ユング心理学ではシャドウというアーキタイプ(元型)、すなわち自分のなかの未発達の可能性や影の人格、無意識のもう一人の自分、を意味していると解釈することがある。

人は自分自身の内なる未知の自分、自分の知らない自分の声に、時として耳を傾ける必要があるのだ。それは自分の影の部分であったり、自分の中でそれまで生かしてこなかった部分でもある。 

自分の中には、まだまだ未知の力が眠っている。未知なる可能性が眠っているのだ。

 

映画の中には沢山の象徴的なシーンがある。

刑務所の中で拾った鉱石を削って掘り出すチェスの駒、

知らないうちに深く掘りさげられていた、暗闇のなかのトンネル、

解き放たれるカラス、

一瞬のスキをついて囚人たちに聞かせた「モーツァルトのフィガロの結婚」、

土砂降りの雨の中でのシーン、

長い時間、大木の根本に埋められた箱、

そしてラストの美しい光あふれるシーン。

 

そう、他人があなたの心の中にある希望に触れることはできない。

けれど希望を奪われてしまったら、おしまいだ。

だから、必死に生きるか、必死に死ぬかしかないのだ。

 

「希望は危険だ」といったレッドが、もう一度自分を信じるとき、

それは静かだけれど、必死に生きようとする再生のときだ。わくわくする。

とにかく、ラストは美しい。

 

lucciora 2018-05-13 16:25 読者になる

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2017-12-08

映画「火花」―誰が時代を作っているのか?

映画 想起・雑記

youtu.be

 

先日、映画「火花」を観てきました。

中学時代からの友達と、映画を観てランチしようかということになり、

吉祥寺のオデオンで観てきました。

 

…じつは私はお笑い番組とか全然見ないし、笑いのセンスもまったく無いのですが。

原作の「火花」はあふれるような言葉のエネルギーが面白く、

一気に読んでしまいました。

それで、どんな風な映像になるのか、ちょっと観たくなりました。

 

レビュー見ると大抵皆さんが書いてますが、菅田くんて才能ありますよね。

若いのに、自分とは全く別の経験をしている人のことを、リアルに演じるって

すごい感性。

実際うまい、と思うのですが、それ以上に「観ている人に共感を起こさせる能力」

とでもいうのか…、ひきこまれます。

自分の中にもあったよな、こういう時間、こういう表情、こんな風景、

友達のセリフ。 

 

映画の中で、徳永と神谷の漫才の相方をやってる芸人の方たちも、

当然のことながらリアリティあって、それぞれすごく良かったし、

桐谷健太の神谷役もよかったです。

 

原作の中で徳永が語る、神谷への気持ちの変遷、10年間の時の中でも心の機微、

それらすべては、言葉としては短い映画の時間には入りきらないのですが、

映像としての説得力はあります。

 

個人的には、原作のあふれるような「言葉」の中にあるもの、

そう火花、というより、本の表紙の絵みたいな、

心の中のマグマみたいな「熱」みたいなもの、

それも好きだったのであわせて観て欲しい作品。

 (以下若干のネタバレになるかもしれません。)

 

神谷は結局、自分のなかの笑いに対して純粋であるがゆえに、そして

ある意味エキセントリックというか、社会の枠からはみ出してしまっているがゆえに、

社会的には受け入れられず、だんだんと自分の本質すら見失いそうになるのですが・・・。

結局、芸人をめざしても、ほんの一握りの人間しか残らない。

ほとんどの人間はその世界から、シーンからは消えていく。

それは、あらゆる表現に関わることはすべてそうだと思います 。

音楽も、アートも、舞台も、身体表現も、文学も…。

 

だけど、神谷が喝破するように、シーンにあがってこない無数の人間も、

やっぱりその時代を作っているんだと。

シーンの裏側でさまざまな役割を演じてるんだということ。

そういう意味では、一緒に作ってるんだという事を思っていいんだと。

そう、みんな参加しているんですよね。

心のなかの燃えカスが、ちょっとうずいたシーンでした。

 

 

 

lucciora 2017-12-08 12:14 読者になる

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2017-10-15

映画のなかの色彩~青いパパイヤの香り

映画 想起・雑記

青いパパイヤの香り [DVD]

 

五月に花は咲くけれど 

それは去年の花ではない 

人はいくたび恋しても    

最初のキッスはいちどきり

(青い小径 竹久夢二)

 

映画の中の色のイメージから思いつく、さまざまな愛について

つらつら思いつくままに書いています。

 

実はこの映画を観たのは、イタリアのミラノでした。

イタリアについたばかりで友達もいない冬のある日、

町のシネマクラブ?コミュニティサロン?のような場所で、

この映画がかかっていて、ひとりで観に行きました。

 

当然のことながら、まだ言葉も全然わからず、

くわしい意味はとれませんでした。

それでも、この映画はずっと印象に残りました。

 

青いパパイヤの香り、青といっても原題はverteなので、緑ですね。

日本では、みずみずしい緑色を青と呼びますね。

 

パパイヤのみずみずしい香りが感じられるような生き生きとした情景、

微細な光の美しさ、少女の邪気のない笑顔。

 

舞台は1951年ベトナム、サイゴン。

田舎から奉公にやってきた10歳の少女ムイの成長を描く作品。

…大人になったムイの恋もよかったのですが、やはり個人的には

少女時代のムイの無垢な美しさ、輝きが、印象に残りました。

 

青いパパイヤの香り。

その芳香は、これから何度も出会うかもしれないけれど。

けれど…少女の額を流れる汗が光っている、

これはその瞬間だけのものなんだなと、

なにか強烈に感じたのを覚えています。

 

当時、自分も若かったですが、

時がどんどん流れていくことを、

今よりも強く意識していたのかもしれませんね。

 

夢二の詩のように、

”人はいくたび恋しても 最初のキッスは一度きり”

 

一回性というのか。

竹久夢二も、心のなかの永遠の少女像を、

追い求めた画家ではないかと思いますが、

 

”5月に花は咲くけれど、それは去年の花ではない…”

春は何度も来るけれど、同じ春は来ない。

 

青さ、若さ、そうしたものの輝きを見るとき、

なにかそうしたセンチメントが起こるのは、

とらえがたさ、そんなものへの憧れなのでしょうか。

 

無常感と初恋のはかなさ。

それが青いパパイヤの香り、なのでしょうね。 

lucciora 2017-10-15 15:27 読者になる

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2017-10-08

映画のなかの色彩~ショコラ

映画 想起・雑記

 

ショコラ [DVD]

秋なので、愛についてひさしぶりに?考えてみたくなったからなのか、

映画や音楽の中の愛について…ぱらぱらと思いつくことを。

 

大抵の映画や音楽はなにかしら「愛」をテーマにしていると思います。

タイトルにずばり「愛」という言葉がはいっているものも

すぐに思い浮かぶくらい。

恋愛、家族愛、宗教、自然、国、宇宙、動物、音楽、表現・・・、

それらのものに向けた愛なのでしょう。

 

以前、映画のなかの色について、考えていたことがありました。

とりあえず秋だから「ショコラ」を選んでみました。

 

チョコレートの色は秋の色のような気がします。

つやつやとした栗やドングリやチョコレート。

決して派手ではないけれど、温かみを感じさせるほっとする色です。

 成熟の色です。

 

この映画、大人のファンタジーともとれますが、女性にとっては

心のなかの自己の確立をテーマにしているような気がしました。

とても好きなタイプの映画でした。

 

 心の自由を失わずに、自分と折り合いをつけながら、自立すること。

かわいらしさや、愛情をわすれないで、歳を重ねていくこと。

 小説などを土台にした映画などでは、シチュエーションが日常的なので

まるで本当にあったこと・・・のように感じていたりしますが、

この映画は、随所のストーリー展開が「ありえなさそう」だけど

楽しくてわくわくして、

これはファンタジーだと思いながらも、見終わってみると、

ヨーロッパの小さな村なんかでは、これと近いことが

本当にあったことのような気がしてしまいました。

映画に対する共感というものでしょうか。

 

ジョニー・デップは、いくつかみているのですが、とくに私が好きだったのは

「妹の恋人」「フェイク」そしてこの「ショコラ」です。 

 

人恋しい季節ですね・・・。

 

lucciora 2017-10-08 16:12 読者になる

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2016-07-06

映画『13歳の夏に僕は生まれた』

映画

”一度生まれた者は、もう逃げも隠れも出来ない”

f:id:lucciora:20160706000812j:image 

日本ではあまり知られていないかもしれない。イタリアのマルコ・ジョルダーナ監督の『13歳の夏に僕は生まれた』。

 

同監督の2005年の作品『輝ける青春』では、ある家族を主軸にし、1960年代から現在までの時間の軌跡を辿りながら、イタリアの美しい風景や時代の描写とともに、若さの、人生そのものの輝きが存分に描かれていた。

魅力的な様々な登場人物たちそれぞれの苦悩と喜び、出逢いや別れ、人生のテーマなど、6時間という長編にもかかわらず、私にとっては全く飽きる部分の無い充実した内容だった。

 

その監督の作品ということで、ずっと観たいと思っていたので、今回もそのイメージを初めは期待しながら観ていた。
しかし、この作品は、それとはまったく違うタイプの印象を残した。
この映画には答えは無いし、映画を見た後の心地よい充実感?のようなものもない。 しかし非常に考えさせられる、やはり良い映画だと思った。

 

移民の問題。島国日本では、ヨーロッパの国々に比べれば、まだ移民はそれほど大きな問題にはなっていない。

しかし、この映画で描かれるイタリアにしても、今回のイギリスのEU離脱にしても、大量にやってくる移民についてどう考えるか、というのは、国民一人一人にとって大きなテーマになってきているようだ。

 

(ストーリーについてネタバレあります)

13歳という多感な時期を生きる、都会の少年サンドロ。
感受性は豊かだけれど、恵まれすぎているがために、アグレッシブな部分がまったくない。そんなところを、教師や父親は揶揄する。
ところが、夏のバカンスに父とその友人と3人で出かけたクルージングの途中、サンドロは夜の海に一人落ちてしまい、いくら助けを求めても、船は遠ざかるばかりだった。

死を覚悟するような恐怖を味わったあと、サンドロは不法移民の乗る壊れかけた船に助け上げられる。

しかし、イタリア人だということがわかれば、身代金を要求される危険もある。

サンドロはとっさに、かつて移民が繰り返していた言葉を口にし、移民のふりをする。

 

前作『輝ける青春」の刺激的な会話にあふれた、テンポの良いきらめくような展開に比べると、

今回は移民たちの船での言葉少ないやりとり、父の経営する工場、学校、ブレーシャの街の地味な風景、サンドロの家と家族、移民の収容場所と限られた風景が映し出される。しかし、だからこそ、テーマが際立ってくるようだ。

 

 


移民の少年ラドゥが、船に引き上げられたばかりで寒さに震えているサンドロに、自分のセーターを与えるシーンがある。

イタリア語で はmettersi nei panni degli altri という言い方がある。
人の立場に立って考えてみる、という意味だが、直訳すれば、他人の来ている服を着てみる、ということになる。

ー自分が海に落ち死にそうな思いをして、移民たちと船に乗り、その服を着て自分も移民のふりをして、彼らと一緒に海の上を何日も漂うー

そのような体験がなければ、本当に移民の立場に寄り添うことなど、いわゆる先進国に住む私たちにとってはできないだろう。

完全に信じたわけでは無いが、過酷極まりない船の上で、サンドロと、ラドゥ、その妹アリーナとの交流が始まる。

やがて船がイタリアの港に入港し、サンドロは両親との再会を果たす。

だが、海に落ちる前のサンドロは一度死んでしまったのだ。もう同じ自分ではいられなかった。

新しく生まれたサンドロは、イタリアに入国したラドゥとアリーナに、自分も何かしたやりたいと強く思うようになる。

しかし、それは大変な葛藤と苦悩を生み出すことになる。

年齢制限のために、祖国に強制送還されそうなラドゥは、結果的にはサンドロやその両親の好意を裏切るようなことをしてしまう。友情の証を捨てたものの、やはり、サンドロの心には何かが引っかかっていた。

彼らは自分を裏切ったかもしれない、けれど、そうしなければ、彼らだって生きていけなかったのだ。それを、責めることができるのだろうか?

 

最後にアリーナが娼婦として働き始めた建物の内部の暗く重たい空気、彼女を探すサンドロの不安に満ちた表情が、この問題の深さと難しさをあらわしているように思えた。

一体、何ができるのか?どこまで関わっていけるのか?

 

最後のシーン、バスがロータリーを何度か行き過ぎるシーン。サンドロとアリーナがなすすべもなく座っている。

互いにかける言葉が思いつかないのだろう。

2人を映すカメラのアングルもほとんど動かず、まるで備え付けの防犯カメラのようにリアルに感じた。
すぐに答えの出ない問いかけだからこそ、観たものの 心に長い時間とどまるような映画だと思った。

 

lucciora 2016-07-06 00:04 読者になる

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「詩人が詩を書くのは、自分と同じ言葉を話す人間を見つけるためだ。」ジャン・コクトー

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