lucciora’s diary

「詩人が詩を書くのは、自分と同じ言葉を話す人間を見つけるためだ。」ジャン・コクトー ーー言葉はどこまで「心」に近づけるのだろう。共感する魂を求めて、言葉の海へと漕ぎ出してみよう。 自分の心に響いてきた本、映画、表現など、備忘録的に書き留めています。どうぞよろしく。

秋の夜ーバッハのマタイ受難曲…

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なんだか涼しい。昼間は暑かったのに、やはり秋だ。

 

今夜ふと思いだした。
バッハのマタイ受難曲の中の「主よ、この涙にかけて我を憐れみたまえ。」という曲を。
この曲がタルコフスキーの映画で流れたことを。
キリテ・カナワの声も良かったけど、映画のシーンとあいまって、
この曲に圧倒された。

 

人の心は結構深いと思うこともある。
意識していない部分まで含めばさらに深いだろう。
それでも人には、時として抱えきれないものがあるのは何故だろう。
やはり心はそんなに深くも広くもないからなのか。
それとも、自分でその広さや深さを解放しないからなのか。
押さえ込もうとしても、あふれてくるもの。
それなのに、それを分かち合える相手がいないのは苦痛だ。


分かち合える、というのも変かな。
受けとめてくれる、ということかな。

 

…告解の意味。
そんな時は、神のみが、自分をゆるし、
この苦しみの深さをみつめてくれるだろう、
そう思う時があるのかもしれない。

 

イタリアにいた時、教会で告解する人たちを何度か見た。
電話ボックス(この頃では見ないけれど…)くらいの、
もっと小さいかな…、木で出来た部屋に
神父様が座っていて、小さな窓から告解を聞いているのが、うっすらと見えた。
不思議な風景だった。神父様に告解することで、 その人の心は少しでも楽になるのだろうか。
今なら、多分、少しはなるだろう…と思う。もしかしたら、かなり楽になる場合もあるだろう。

 

人の抱えきれないものを、受け取ること。

宗教のひとつの役割りなのかもしれない。

 

そんなことを思った秋の夜。
神を信じられなくても、
もし本当に自分のすべてをわかってくれるような 親友なり家族なり恋人なりがいたら、 もちろんそれは、とても幸せなことだと思う。