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lucciora’s diary

「詩人が詩を書くのは、自分と同じ言葉を話す人間を見つけるためだ。」ジャン・コクトー ーー言葉はどこまで「心」に近づけるのだろう。共感する魂を求めて、言葉の海へと漕ぎ出してみよう。 自分の心に響いてきた本、映画、表現など、備忘録的に書き留めています。どうぞよろしく。

ひふみよいむな…一二三四五六七…

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備忘録のように書き写してきた「外は良寛松岡正剛さん。


「ひふみよいむな」はどのへんから出てきたのか、おもしろい話がいっぱいありました。
もう少しで読み終わりそうです。

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良寛の書のなかでもとりわけすばらしいものとして、たった
3字の「一二三」と「いろは」をあげる書人は少なくありません。
もともと良寛には、しばしば「一、二、三、四・・・」という具体的な数字が出てきます。(漢詩にも、歌にも)

貞心尼と良寛が最初に歌を交わしたときも、良寛はこの
「一、二、三、四、五、六、七」を強調しています。
当時、長岡福島町の閻魔堂に一人で住んでいた貞心尼は
高徳の聞こえある良寛に会いたくて、ある日(三十歳ごろ)に意を決して歌を送ります。
良寛さんは手毬が好きだと聞いたので「これぞこのほとけの道に遊びつつ つくや尽きせぬみのりなるらむ」と書いた歌でした。


これに答えて七十歳に近い良寛が詠んだ歌が次の返しです。

つきてみよ ひふみよいむなやここのとを
とをとをさめてまた始まるを

 

「一二三四五六七八九十」と手毬をついてみて、また「一二三」と始めるのですという歌。


なにも言っていないといえばそうだし、何もかもを言い尽くしているといえばその通りの、まことに絶妙な歌です。
何が絶妙かといって、良寛は自分の言いたいメッセージを
“ものの太初”に収容したのです。

 

「文字上一味禅」・・・・・

「それは何か」と問われて「一二三四五」と返すというやりくちは、実は禅問答にあります。それもほかならぬ道元の体験した問答にある。
(入宋したばかりの道元が最初のころ阿育王山の年老いた典座(食事係)に難題をぶつけ、逆に問答の中で「文字というものがわかっておらんな」と言われ、しょげ返ってしまう。
そして、ふたたびさんざん悩んだ後に道元が老典座を訪ねていくと「文字を学ぶのは文字の原郷を知るためであり、修行を積むのは修行しつつもその当人に出会うためなのだ」というようなことを言う。)
それでもまだ腑に落ちない道元は、重ねて「つまるところ文字とは一体何なのですか?」ときいてしまう。

そこですかさず老典座の答えた言葉は、ただの一言「一二三四五!」。

 

・・・そして道元は知る。「然ればすなわち、従来看るところの文字はこれ、一二三四五なり。今日看るところの文字は、また六七八九十なり」と。老典座は一二三四五という文字を教えてくれた。いま自分は六七八九十という文字を見ている。この二つはちがうようでいて実のところ同じである。
そこには一挙の文字自体がある。

 

道元の「一二三四五」には、さらに“前”があります。

僧、智門に問う「蓮華いまだ水より出でざる時はいかん」
智門曰く「蓮華は一二三四五六七、天下の人を疑殺す」

僧が智門に「蓮の花は咲けば蓮の花だが、その花がまだ咲いていないときをどう見るのか」と問うたのに対して、智門が「蓮の花は蓮の花、一二三が四五六七とつづくのと同じことだ」と答えたという話です。「天下の人を疑殺す」は「そんなことを言っていると笑われるぞ」といった意味、ようするに「柳は緑、花くれない」ということです。

 

ともかく道元の「文字上一味禅」は良寛のお気に入りだった。
しかしそういうだけではすまされないものも、ここにはひそんでいる。それはいよいよ書そのものの問題に関係してきます。

 

ここに「一」と「十」という文字があります。一本棒を引くのと二本を交差させるもじです。
「大」を書くにはまず一があり、「天」を書くには先に二がある。「王」や「看」には三が在り、・・・「吾」は五で始まるし、「只」という字には八が棲んでいる。
良寛はいつだって「一二三四五六七」を書いてばかりいたのです。

書人たちはむろんのこと、ゆっくり字を書いたことのあるひとなら、このことは誰もが気づくことです。
「天」という字を書くときには、一を書いて、もう一本書いて二という数字を書く、そこにまた人が加わって初めて「天」になる。
有名な「天上大風」や「南無天満大自在天神」という良寛の作品は、まさにそうやって生まれていったのです。

 

ともかくも良寛はそういう数を楽しんだ。つまり良寛の「大」や「天」には良寛の「ひぃ、ふぅ、みぃ、よ」という声がかかっている。

いわば合の手が入っているのです。

そこを聞かなければ良寛の詩歌もつまらない。

 

形もリズムであるということ、これははなはだ画期的な視点です。

かつて彫刻家のジャコメッティは「僕の彫刻は彫刻の外側の空気のリズムでできている」というような発言をしましたが、ひょっとして「書」もまた周囲の空気の流れをかきあつめて形を作っているのかもしれないのです。

 

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ひふみよいむな…一二三四五六七にこれほどの深い背景があるとは、おもしろいですよね。