読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

lucciora’s diary

「詩人が詩を書くのは、自分と同じ言葉を話す人間を見つけるためだ。」ジャン・コクトー ーー言葉はどこまで「心」に近づけるのだろう。共感する魂を求めて、言葉の海へと漕ぎ出してみよう。 自分の心に響いてきた本、映画、表現など、備忘録的に書き留めています。どうぞよろしく。

風の便りにつくと答えよ…「外は良寛」より

「外は良寛」/松岡正剛著より
備忘録的に、文章を書きうつしています。
融通無碍でフラジャイルな寂しがりやの良寛さん。自由な風のような良寛さん。

良寛はいつも人恋しかったのではないかと思うのです。かなりの淋しがり屋にほかならないのです。だいたい一人ぼっちが好きなのは淋しがり屋の証拠です」と松岡正剛さんは書いていらっしゃいますが、そんな気がします。存在することは、本来孤独な事だと思います。

・・・

文化十三,四年(1817年)のとき、良寛はまた五合庵を出て、すぐ近所の乙子神社の草庵に入ります。
六十歳になっていた。いよいよ万葉趣味に傾倒しきっていた時期ですが、その一方かなり病気がちになります。

・・・
たしかに良寛の消息二百六十三通のうち、病気に関するものが実に三十四通もあることからしても、良寛が病がちで、また気分的に病気に弱かったことが推測されます。薬を乞うている手紙も多い。弱気も出て、ときに弱音も隠さない。

 

柴の戸のふゆの夕べの淋しさを
浮世の人にいかで語らむ

 

かくて総じて病がちであった良寛と、最微弱的に自然を捉え、人々に「貰い物」をしていた良寛とは無関係ではありません。

・・・
そこで晩年の良寛が「自力」の思想から「他力」の思想へ少し傾斜したのではないかという憶測が生まれます。僕は良寛の禅は禅宗ではないと思っていますから、晩年に真宗に近寄ったとしても不思議はない。

むしろ「他力」は良寛のもともとの感覚だったようにも思います。実際にも、次のような「梁塵秘抄」の調べを継ぐような歌もつくっているのです。

 

草の庵に寝てもさめても申すこと
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

こういう歌は浄土真宗っぽいといえば、まさにそういう香りがします。(略)けれども良寛はもとより宗派には縁がない。自力も他力も一緒くた、そこはそれやはり融通無礙そのものなのです。むしろ次の歌が良寛の宗教観を伝えていると思えます。

 

この僧の心を問はば大空の
風の便りにつくとこたえよ

 

ひらひらと大空の風の便りにまかせるのが良寛の日々です。
一人暮らしの良寛には、ちょうどよい時分に他人が施しをし、いいころあいに他人が歌を学んでいく。
そういう人に出会えればよし、出会えなくてもそれまた仕方のないことで、もはや良寛はそういう心地よい衰弱の中にあったわけです。(略)

自分がだんだん弱っていくことと、人々がものを持ってきてくれるとか、訪ねてくれる人がいるということが、そのまま生きた日々の柔らかい信仰になっていたということなのです。

子供たちと手毬をつきたくなるのもこの心境です。
子供たちのいいところは「生き死に」を口に出さないところです。まだそんな分別もない。良寛もやっとその分別を越えた。

良寛と子供は似たようなもの、そうすると、その子供たちと良寛とのあいだに、てんてん手毬の手元が動きます。こうなると自分の生も死も、その境目もそれほど重要になるべくはずもない。このよの執着はしょせん蚊帳の外のこと、良寛の日々の呼吸はしだいに自分の死生観の境界上をすうっと滑るようになっていけたのでないでしょうか。

 

九夏三伏の日
吐瀉(としゃ)して四支萎ゆ
夢の如く 復(また)幻の如く
三日飲食(おんじき)を断つ
故人 良薬を贈り
擣篩(とうし)色香美なり
起坐して恭しく一嘗すれば
通身 爽利を覚ゆ

 

この詩には病身の良寛がいます。
けれどもその良寛は、悪寒を吐いてしまって、ぼうっと何も出来ないでいる高熱に冒されたような状態の中に、被虐的ではないけれども独特の快感を見つめているようにも思われます。

それは良寛がいつでも死と生に対して隣接できているということでもあります。
(略)
ただひたすらの良寛独自の「ゆらぎをもった死生観」だったと思います。

・・・