lucciora’s diary 蛍日記

共感する魂を求めて

流星ワゴン

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流星ワゴン

 

ーーやっとわかった。

信じることや夢見ることは、未来を持っているひとだけの特権だった。

信じていたものに裏切られたり、夢が破れたりすることすら、

未来を断ち切られたひとから見れば、それは間違いなく幸福なのだった。

  

 

 

ドラマにもなった重松清さんの小説。

小説というものを私はあまり読んでこなくて、どちらかというと

心理学・宗教学や、思想・エッセイなどが好きで読んできたけれど、

最近、歳のせいなのか…やっと小説が面白いと思うようになってきた。

 

それでも小説のなかの風景描写だったり、セリフだったりが、

自分の感覚に合わないとなんだか面倒になっていたのだけど、

重松清さんは、私にとってその辺りがとてもすんなり入ってくる作家なのだろう。

 

この小説では、積極的に死のう、と思うほどの気力もなくなった、

生きることに疲れはてた主人公が、夜の駅前のロータリーで

「死んでしまってもいいな…」と思うところから物語が始まる。

そう、・・・生きても死んでもどちらでもよいけど、自分には何かする余力もないように感じるとき。

 

そこに、流星ワゴンがやってくるのだ。

そのワゴン車に乗っている二人は、もうこの世の住人ではない。

主人公は、二人に誘われて、自分の人生のやり直し、というか

自分が見逃していた、本当に大事なものを見つけに行くのだ。

 

よく聞く話だけれど、亡くなるときに、自分の人生が走馬灯のように

すべてすごい速さで見えるというけれど、

まさにそんな話だ。

その時、すべてが見えるのだろうか。

楽しみのような、さみしいような。

 

けれど、この話が何か胸に訴えてくるのは、本当に流星ワゴンがあるのかとか、

人生のやり直しはできるのか、ということよりも、

自分自身が気づく、ということができればそれが大転換なのだということ。

 

たとえ現実がひっくり返るわけではなくても、

自分が「わかって」、自分の中に真実がすとんと落ちてくることが、

その人の人生の質を180度変えてしまうことだってある、

ということではないだろうか。

 

日常を生きていると、その中に自分が埋没してしまい、

いつの間にか見えなくなることはたくさんある。

その現実のあわただしい時間の流れから離れて、もう一度生活を眺めてみれば、

見えてくるものがある。

 

自分がそれまで到底理解できなかった近しい人たちの真実、

吐露できないで呑み込んでしまった相手の気持ち、

思いもよらなかったできごとがクリアに感じられることがある。

 

もし死がせまっているなら、自分はそれでよかったのか、

この世で生きているあいだに、自分がしたかったことはなんなのか、

それを、生と死の間をさまようワゴンの持つ「死者の視点」が教えてくれるのだ。

 

いつか私も流星ワゴンに乗って、旅をしてみたい。

今はもういない人たちと、おしゃべりを楽しみながら。

 

ーー僕も苦笑して「でもさ」とつづけた。

たとえばデジャ・ブや、昔どこかで会ったような気がするひとに会うことは、

誰かのやり直しの現実に付き合った痕跡なのかもしれない。

星座のような記憶の回路からぽつんとはずれた、そんな記憶を、

もしかしたら、僕たちはたくさん持っているのかもしれない。