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lucciora’s diary

「詩人が詩を書くのは、自分と同じ言葉を話す人間を見つけるためだ。」ジャン・コクトー ーー言葉はどこまで「心」に近づけるのだろう。共感する魂を求めて、言葉の海へと漕ぎ出してみよう。 自分の心に響いてきた本、映画、表現など、備忘録的に書き留めています。どうぞよろしく。

「幸福の無数の断片」中沢新一/著者との対話の中でジョナス・メカスが引用した言葉。

ずっと前に、自分の作品に寄せて書いた文章です。
自分自身のために記録として載せてますが・・・
月日が経ってもほとんど変化していない自分の中身に、
なかば感心しつつ呆れてます。

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Anno Luce (アンノルーチェ)  ― 光年

ひとつのできごとには、ひとつのかたち、ひとつの光景しか存在しない。
しかし、そこには無限に「別のできごと」の起こる可能性が在ったのかも知れない。
その時だれかの言った言葉、動作、笑い声やざわめき、それらは一回性のものだ。
あるいは晴れていたのか、曇っていたのか、雪がふっていたのか、風の音や、空気の香り、それらも又、一回だけのものだ。
他にどんなことが起こる可能性があったのか、あるいは起こる「べきだった」のか…。
それは、今となってはわからないし、そして多分その瞬間でさえも、わからなかった。
すべてのできごとの内に在った、無限の可能性にもかかわらず、ただひとつのことだけが
起こる。
しかし私は、起こったことだけでなく、起こらなかったことも同じように、(そして後悔としてではなく、希望として)どこかに留めていたいのだ。

ある時まで、人の生きている時間は“線”のようなものだと思っていた。そして始めから終わりまでを、一気に走りぬけたいと思っていた。
ところがある時、一生のうちには、「起こること」 と「起こらないこと」とがあると気づいた。そして、そのことが私にとっては非常に大切なことだったのだ。
「縁起」という言葉がある。すべては、他の出来事との関わりあいによって、生じてくるということだ。そしてそう感じ始めると、人の一生を“円”のようなものと感じ始めた。一度起こったことは、永遠に「起こったこと」として円の中に在り続け、起こらなかった事は、永遠に「起こらなかったこと」として円の外に残るだろう。

しかし、この作品を作りながら、それは「筒」の様なものかも知れないと思い始めた。
筒の両端は外部へと開かれている。そして、その筒の中には時間としての前後が在るのではなく、星と星との間の距離の様に、関わり合う「距離としての時間」があるのだ。
先に起こった事が「原因」で後に起こったことが「結果」というのではなく、どちらもが互いの原因になりうるような。
人と人との関わりも、一方だけから生じるという事はなく、双方のあいだになりたつ。
そして、しばしばその関係こそが、個人をささえているときがある。 
私はそうした、いくつかの深い出逢いのために、この作品をつくった。

光が在るとき、私たちは「ものごと」を見るが、光そのものを見ているようには感じない。
けれども、色彩は反射された「光」であり、光の欠如/影によって、私たちはものの色や、かたちを認識するのだから、私たちの見ているものはじっさい光そのものだ。
こうしてガラスの筒の中に光を集めれば、ふだん室内いっぱいに輝いているのと同じ光
がこの筒のなかで輝いている。外で輝いている光が、いつものようにふたつの窓を通って入ってきて、しかし今はこの筒の中にある。
それは、不思議な感じがした。光よりも速く旅するものは無いはずなのに、まるでそこでは光が静止しているように見える…。実際には光はすごい速さでそこを通りすぎているのに。

光年(Anno Luce)という言葉について考えていた。光が一年間に旅する距離=95億キロメ−トル。もし今夜2000光年離れたところにある星が、私たちの空に見えるとしたら、その星自体はすでに死んで、消えてしまっているかも知れない。
今はもう存在しないものの光が、私たちの空に瞬き、また旅をしてゆく・・・・。
そこでは、距離「遠さ」は時間の単位であり、光は時間であるかのようだ。

日本では、親しい人が亡くなった時“星になった”と言うことがあるが、ギリシャ神話にも多く、神に愛されたものたちが死後、星座になることが語られる。
「すべての男女は星である、」とエリファス・レヴィは言った。
「ひとは舞踏する星を産み得んがためには、自分のなかになお混沌をもたねばならぬ」
と、ニ−チェは言っている。
超新星の光は、星の爆発によって生まれる。ささえきれない自身の重力によって爆発するのだ。それは、私に多くの聖人たちやキリストやブッダの輪光を思い起こさせる。
より強い光のあるところには、より強い影ができる。
しかし、生きているうちに星になれなかった者たちも又、もうここにはいないが、何光年か離れたところから(あるいは記憶として)彼らの光をおくっているのかも知れない。

ふたたび作品に目を戻すと、このすりガラスの筒は、この宇宙の何処からか生じて、また何処かへと戻ってゆく私たちの一生にも思える。
光を放っているガラスの筒がこの世界だとしたら、その両側のブラックボックスは、ここにいる私たちからみれば闇だが、中にはたくさんの光が充ち溢れ、反射しあっている。
私たちの時間は、宇宙にとってはほんの一瞬に過ぎない。
多分、私たちはそうした光の、エネルギ−の、受け手なのだ。そして私たちのあいだでも、より深く触れ、理解されるところには、その力と同じものの光が生まれるだろう。
何故なら、ひとが誰かを理解しようと自分の注意を傾けるとき、そして受け手もまたそこに意識を向けた時、そこには非常に大きなエネルギ−が流れはじめるから。
ドストエフスキ−が言っている。“人生の重要な部分は、ほんのわずかな瞬間でしかなくそれはふたつの魂の出会う瞬間だ、と。*
そして、「すべての深い関わりから生じた光は、永遠に残る」と、私は思っている。
時間は経ち、関係は変わっていっても、この瞬間は終わることなくとどまりつづける。
そして他者へと伝わっていくのだ ・・・・ 宇宙の中を旅する、光に似て。