世の中に交じらぬとにはあらねども
一人遊びぞわれはまされる
良寛の一人遊びは手毬とおはじきです。良寛には、特に手毬はぴったりだったかもしれません。手毬ははぐれていくリズムを持っているからです。
はぐれるリズムをもつということは、そこにおぼつかない「うつろいやすさ」があるということですが、こうした時々刻々に微妙に変化するリズムこそ、良寛にはふさわしい。一人遊びではないけれど、存外に一人を感じさせる“かくれんぼ”も好きな良寛でした。こんな歌があります。
草枕夜ごとにかわるやどりにも
むすぶは同じふるさとの夢
この歌は「夜ごとに変わる」というところが大事で、その変わっていかざるをえないことがたいへん良寛的です。
しかし夜毎に草枕が変わるといっても種田山頭火や尾崎放哉がしたような徹底的な放浪というものとは違います。
良寛は徹底ではないのです。
もっともっとうつろっている。良寛はむしろテーマがない人です。
「白扇賛」という詩があります。好きな詩のひとつです。
団扇画かざる意高きかな
わずかに丹青を着くれば
二に落ち来たる
無一物の時 全体現わる
華あり月あり 楼台あり
団扇(うちわ)になにかを画こうとするとき、何かをちょっとでも画いてしまえば準じたものになってしまう。
むしろなにも画かないときのほうが最初のすべてのイメージが横溢しているものだ、そら華がでた、ほら月が出た、楼閣が見えてくる―そういう詩です。
ここで「無一物のとき、全体現わる。」が良寛です。
(中略)自分が放下して、なにもないタブラ・ラサ(白紙)のような状態のときにさあっと全体があらわれるということです。
そして良寛はこの「無一物で全体を現す」ということがめっぽう上手でした。だからこそ縁起が保たれる。
だんだん捨てて、だんだん取るのではない。
何も無いから次々に線が生まれ、その線から離れられるのです。
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天上大風の吹き荒れる中でも、ここにもそこにも自分がいて、
この世を見て聞いて漂っているけれど 、
そのどこにも実体は「存在しない」のかもしれない・・・
手にさはるものこそなけれのりのみち
それがさながらそれにありせば
生まれてきて、いろいろなことをして老いて やがて去っていく 。
何もないところからやってきて、何もないところへ…
虚空に台風が渦巻いてる。