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lucciora’s diary

「詩人が詩を書くのは、自分と同じ言葉を話す人間を見つけるためだ。」ジャン・コクトー ーー言葉はどこまで「心」に近づけるのだろう。共感する魂を求めて、言葉の海へと漕ぎ出してみよう。 自分の心に響いてきた本、映画、表現など、備忘録的に書き留めています。どうぞよろしく。

人生のほんとう/池田晶子著 備忘録4

読書・備忘録

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 ひきつづき…人生のほんとうより

 語りのレベル p172

 

私はさきほど、「善く生きる」といいましたが、同時に「どうでもいい」と言っています。
これは矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、矛盾していません。
あるいは矛盾しているといってもいいです。実際、矛盾しているんだから。笑
池田の言うことはどうも矛盾しているのではないか。
いつも何か違うことを言っているように聞こえるかもしれません、ひょっとしたら。
けれども、物語を語ることは、どのレベルでものを言うかということです。
つまり存在イコール自己、この「イコール」さえ理解できていれば、
私の言うことが矛盾していないことが分かります。
何を言ってもいいんだ、どのレベルで語っているかの違いに過ぎないんだということが
わかるはずです。

ちょっと説明的に言うと、人間はいろいろなレベルを一人の個人が持っています。
つまり個人の某としての存在、あるいは社会的存在としての自分、
それぞれのレベルがあります。
その逆の側に、心としての、魂としての自分というレベルがあります。
魂のレベルは、当然宇宙的なものに触れていきます。
宇宙的存在としての自分というレベルがあります。
で、存在の究極というところにやがて行きます。

存在の究極というのは、究極的混沌であることを裏返しにすると、
空ですから、空の側から言えば、これはもう何でも語れるということになります。
混沌の側から語れば、どうでもいいという言葉が出てきますし、
秩序の側から語れば、善く生きるという言葉が出てきます。

混沌と秩序、これは同じことの裏返しです。
あるいは論理に沿って語るか、非論理でもって語るか、
現象の側で語るか、論理の側で語るかという言い方もできます。
どのレベルで語るか。

「ある」とすることによって語るか「ない」とすることによって語るかによっても違います。
どうとでも語れるんです。

そこまで行ってしまうと、言葉は非常に自在になります。
何を言ってもおかしくないというようなことになる。
どのレベルで語っても、語りは語りなんです。
ヴィトゲンシュタインという哲学者の言葉で、非常にうまい言い方だと思って感心しているのが
「世界とは言語が見る夢である」。
語られる世界、語られて、その語られ方によってある世界です。
物語と言うことができるでしょう。(中略)

神話などはその辺の語り方がやっぱりうまくて、「リグ・ヴェーダ」だったか、
たぶんインドの神話だと思いますが、
「神が神の夢の中へ溶けていく」、そういう言い方がどこかにあったと思います。
そういうことですね、宇宙とはそのようなものです。

「神が自分自身の夢の中へ溶けていく」だったかな。
これは本当に遥かな気持ちになりますね。

私は今までのところ、「ロゴス」つまり論理の方法によって言葉を語っています。
これに対して「ミュトス」つまり物語や神話という言葉が人類にはあります。
これは対極のようでいて、じつは互いに裏返しです。
ミュトスの言葉は、ロゴスでは語れない言葉を語れます。
けれども、究極的なことは絶対に語れないという側から見れば、
ロゴスもまたミュトスの一つと見えてきます。

つまり「ロゴス」という言葉も、哲学者たちが言語で見た夢なんです。
「ロゴス」は哲学者たちの夢物語です。
しかし、かつての哲学者たちは、今はもうみんな死んでいる人たちです。
つまり死者の言葉をわれわれは読んでいるわけです。
哲学書に限らず、文学書を読むのもそうですが、われわれは死者の言葉を
読んでいるのです。

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死者の言葉、であっても、
発する側と受け取る側の時間が大きくズレた出会いであっても、
受け取る側にとってそれが、ほんものの「出会い」であれば
それは貴重だ。
言葉は何千年も(何万年も…?)生き続ける。

時がながれて、ある言葉が、はじめに言われた時の意味とは、
異なる意味を持ち始めることもあるのではないだろうか。

自分の言った言葉の意味が、後になってより深い意味で
実感されることは時としてある。
ひとつのことですら、玉ねぎの皮のように、
何層もの連なりの中で、語られている。