lucciora’s diary 蛍日記

共感する魂を求めて

人生のほんとう/池田晶子著 備忘録 1

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人生の本当/池田晶子 著より

ヘラクレイトスの断片p136

ヘラクレイトスという私の非常に好きな哲学者、というより哲人なんですね、この人は面白い断片を残しています。
「不死なるものが死すべきものであり、死すべきものが不死なるものである。
かのものの死をこのものが生き、かのものの生をこのものが死している」。
これは非常に正確なアニミズム的世界観ですね。何が生きて何が死んでいるのかは
よく考えると言えなくなる。

もう一つ、同じヘラクレイトスで、
「魂の際限に、君はどこまで行っても行き着くことはできないだろう。
それほど深いロゴスを魂はもっている」というのもあります。
これは自己の底抜けイコール存在そのもの、存在の底抜けと同じことです。
この場合の「魂」は、つまり「存在」になっちゃってますね。
自分自身が何であるかということを追いかけていくと、こうなってしまう。

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ヘラクレイトスの言葉、美しい。
このロゴスっていうのは、
今日的なロジックとはかけ離れたものなのだろうな・・・

池田晶子さんの、2004~2005年の西武池袋コミュニティ・カレッジでの講義をまとめた本。
第五章 「魂」。
わたしにとって、とくに興味深い言葉がこの章にたくさん散りばめられている。
その始まりに、池田さんの話していることがおもしろかった。

「魂」について話すことは、池田さんにとって難しいと感じることで、
それについて話そうとすると、絶句してしまうというようなことで・・・。
なぜならそれは哲学というものの、向こう側に広がっていることがら、
たぶん本来心理学があつかう領域であるから。
池田さん本人は、これがこうだと言い切るのが好きで、だから
心理学という、曖昧で非常に多義的、これがこれだというふうに言いきれない事柄が、
そして普遍化しづらいということ自体が、ちょっとかなわないなと感じていたそうだ。
しかし年齢とともに、人生の味わい、としか言えないようなものが
非常に面白くなってきて、
同時に魂のことをかんがえたくなってきた、という。

池田さんのような思想家の方に自分を比べるべくもないが、
思考のレベルは問わないとして、傾向としてのみ
照らしあわせて考えてみると、私自身は哲学はどうも苦手で、
逆に心理学(といってもユング、アサジョーリ、ピエロ・フェルッチ、ミンデルあたり)
や、どこかに余白を残した表現、思想ーーそうしたものを好んで読んできたことに
思い当たる。
余白がないと、読んでいて時に息苦しい。
逆に、意味が多義的なほど、自分のなかの様々な層で対応する部分を感じ、自分としては
深い体験をできる場合もある。


多義的な提示、言葉やイメージを、心の中にほおりこんだ時に
ひろがってくる余韻とか、波紋の広がりのようなものを、眺めているのが好きだ。
答えを出さずに、つらつらと思いを辿る愉しみ。
焦点を一つにあわさずに、ちょっとずらしたところを見ているのも面白い。
やがて、まったく別の時に、ポーンと答のようなものを、受け取るときがある。
それを楽しみにしている。
無論、その答とは、自分にしか当てはまらないものかもしれない。
そうした自分の漠然としたものへの好みを、改めて認識している。

池田さんも引用されていたけれど、「月を指す指は月ではない」。

結局のところ、月はむしろ自分の心の中にしかないのではないかと
どこかで思う。
しかし、その心の果てもまた、自分から底ぬけていて、
月は「向こう側」へと映っているのではないだろうか。

とはいえ、もし月について誰かと話したくなるなら・・・
やはり人は月を指差すことが必要かもしれない。
自分の言葉とともに。