lucciora’s diary 蛍日記

共感する魂を求めて

シーシュポスの神話ー創造と苦しさと喜びと

カミユの「意思も一つの孤独である」という言葉に惹かれて、
私も 「シーシュポスの神話」を読んでみた。
ちなみに、その言葉に出会ったいくつかの記事の中のひとつが、下のブログだった。

カミュの言葉についての考察その他、本や映画をまたいで、テーマを探っていく
書き方がとてもおもしろかった。

http://camus242.blog133.fc2.com/blog-entry-191.html

シーシュポスの神話。
感じるところはあるけれど、結局、
上のブログ以上のことは自分には書けそうにないと思った。

以前、テレビで、吉増剛造さんと羽生善治さんの対談があった。
その中で、詩を作ることにしても、勝つための将棋の手を考えることにしても、
終わりのない、苦しい作業、けれど喜びを見出す時もあるという2人の対話があった。
そこで、シーシュポスの神話について触れる場面があった。
2人の姿は、まさにシーシュポスに重なってみえた。

今の自分の生き方にしても、今までにしても、
自分はシーシュポス的な部分を持ち得てないのかもしれない。
相当悩み苦しんだし、今の自分にも苦しみはある。
でもシーシュポスのようにはなれないことこそが、苦しみだったのかもしれない。
あるいは、自分のケースはもっと別の神話、寓話であるような気がした。

そう。この神話は非常に男性的な神話なのかもしれない。

カミユの書く「不条理」について、時代性ももちろんあるだろうし、
カミユ本人の複雑かつ不条理な生い立ちや人生全体について、
今の日本で「普通」に生きている自分には、
汲むことのできない深い断絶があるのだろう。しかし、
それとは別に、自分は「不条理」な部分について、
べつの要素に視点を移しているような気がした。
それは、自分にとっての「信仰心」みたいなもの・・・かもしれない。

自分の運命や、不条理と思われる状況に絶望して、
しばらく人は空虚な生を生きる。
けれど、そこで、何か自分をおおもとから掴んでくれるものに出会えた場合、
人は「転回」することができる。大きな転回。
それはたった一つの言葉かもしれない。人でも、本でも、映画でも、かまわない、

なにか大きな自分を超えたものがあって、
その中で自分は何かしらの場や時間に置かれ、
流れているのだという漠然とした納得のようなもの。
あきらめ、ともいうのかもしれない。
明らかにみるという意味でのあきらめ。
何かに生かされているような気がする、「気がする」というくらいだけれど。