lucciora’s diary

「詩人が詩を書くのは、自分と同じ言葉を話す人間を見つけるためだ。」ジャン・コクトー ーー言葉はどこまで「心」に近づけるのだろう。共感する魂を求めて、言葉の海へと漕ぎ出してみよう。 自分の心に響いてきた本、映画、表現など、備忘録的に書き留めています。どうぞよろしく。

相互的な出会いについて…「モカシン靴のシンデレラ」

 中沢新一著 「モカシン靴のシンデレラ」

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あらすじ
ミクマク版シンデレラにおいて、「王子」は「ふつうの人には見えないひと」であった。

その人は偉大な狩人で、守護神は霊界の最高者であるヘラジカだった。この人のお世話は、一人いる妹が全部取り仕切っていた。
見えない人は、夕方になると狩りから戻ってきて湖へと下りる。その姿を見ることができた者が結婚することができるといわれていた。そのために、たくさんの少女たちが、この人の姿を見ようと様々に試みたが、誰一人として成功したものはなかった。


「見えない人」は家に入りモカシン靴を脱ぐと、他の人にも見えるようになる。しかしそのときに姿を見ることができても、結婚することはできなかった。
この村の妻を亡くした男の3人娘の末娘は、体が小さく、病気がちで、姉たちにひどい扱いを受けている。一番上の姉は、焼けた炭で末娘の手や顔を焼いたので、末娘は体中が傷跡だらけだった。そこで村人たちから「ボロボロの肌の少女」とか「燃やされた肌の少女」と呼ばれていた。
姉たちは「見えない人」を見ることはもちろんできなかった。
そして、いつも裸足だった末娘が、父からもらったモカシン靴をはいてついに自分の運を試しに行く日がやってきた。
服もなかった少女は森に言って白樺の皮をはぎ、衣服のようにした。
ボロをまとった少女を姉たちは笑い、馬鹿にしたが少女はめげなかった。そして湖畔にやってきた。
「見えない人」の妹は聞く。「あの人が見えますか?」と。
少女には見えた。「見えない人」のそりをつなぐ虹の紐が。それは天の川だった。
その人の妹は、少女をうちに連れて帰って丁寧に体を洗ってやると、少女はみちがえるように美しくなった。髪に櫛を入れ梳ると髪はますます長くなっていった。
目は星のようで、この世界にこのようにきれいな少女はいないと思えるような美しさだった。
そしてついに少女は「見えない人」の妻となった。

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ふつう「私は知っている」というとき、
ひとは知っているのではなく、信じているのである。
生きること、それは信じることだ。
少なくともそれが、私の信じていることである。

マルセル・デュシャン

 

 ミクマク版シンデレラにおいて、「王子」は「ふつうの人には見えないひと」であった。

他の誰にも見えなかったその人を見ることができた少女に「見えない人」が言う。
「wajoolkoos(とうとう見つけたな)」と。

 

「見えない人」と出逢うことがなければ、少女はおそらく死ぬまで、

家の中で意地の悪い母や姉に、重い労働を強いられて暮らしたことだろう。


少女にとって「見えない人」を見ることには、自分の人生の「全て」がかかっていたかもしれない。
しかし「見えない人」もまた、少女がやってきて自分を見つけるだろうことを「知っていた」し、待ってもいたのだ。

このような出会いは、相互的な出会いなのである。

 

シンデレラ物語は地域によってさまざまなヴァリエーションが見られるようだが、

その物語の大きなモチーフである「靴」は、私にとってはユングの言う「ペルソナ」を思い起こさせる。
靴をはかなければ、ひとは家から出ることも、町ひいては社会に出ていくこともできない。
社会的生活を営む者は、誰しも「ペルソナ」をつける。
そうすることで、裸のままの心でふれあうことの複雑さや、深さから免れて、社会はスムースに機能しているのだ。

 

靴を与えられる前の少女は、外に出ることもできず、虐待され、家の中にすら自分の居場所を見つけることができない。居場所がないということは、自分自身の存在理由を失うことに等しいのではないだろうか。
そうした極めて孤独な状況の中でどのように人は自分を保つことができるのだろうか。

 

ーーあらかじめ絶望についての経験がなければ、
誰にしたところで

エクスタシーの状態を知ることはできないーーとは、E.M.シオランの言葉だが、「自分自身から抜け出てしまうほどの体験」、

絶望にしろ歓喜にしろ、そうした体験は純化の過程であって、人はそこで初めて彼岸(死)の世界に触れるのだろう。


こうした意識の変容状態において、ひとは時としてこの世界の真実のようなものを垣間見るのではないだろうか。

 

この物語の中の「見えない人」とは、実は「魂にとっての真実そのもの」だと考えることもできるのではないだろうか。

 

ここで、試みに錬金術的なアプローチをとって物語を見てみるのも面白いと思った。
「見えない人」と「少女」の結婚は、「太陽と月の結婚」ととらえることもできる。
少女が炭で焼かれたり、かまどのそばにいるのは、火による洗礼とも、黒化(ニグレド)の過程とも考えられる。少女は母性的な力(大地)の物質的な側面(意地悪な継母)にとらわれているプリママテリアであり、メルクリウスでもあり、輝く太陽こそ「金」である。

 

白樺の皮をまとった少女は白化(アルベド)の過程であり、そこでは、精神的な浄化が行われる。

 

そして湖に真っ赤な夕日が落ちる時、錬金術の最後の過程である赤化(ルベド)があり、

そこでは 神人合一、有限と無限の合一が行われる。


「見えない人」とは「すべての光(真実)」を集めた太陽であり、その光は虹のスペクトルとなって、そりをひき、彼は天体(天の川)を移行する。
日中はそのあまりの眩しさゆえに、彼を直視することのできる人はいない。
よって彼は「見えない人」と呼ばれるのである。
ただ夕暮れ時に、彼が湖に自身の熱を冷まし、休息するために降りてくるとき時のみ、
近づくものをその光と熱とで滅ぼさずに済むのだ。


少女が彼の妻となる女性だとしたら、彼女は月であり、だからこそ「見えない人」を見た少女は、
太陽の光によって、みるみるうちに輝きはじめ、美しく成長する。
聖なる空間においては、魂は露わなままで互いに喜びをもたらし、「見えない人」はもはや真の姿を覆うこともなく、花嫁のヴェールもやがて取り払われるだろう。

 

「とうとう見つけたな」・・・。
「心」が「真実」を求めるように、「真実」もまた、「心」が彼のもとへと赴くことを待ち、そしてそれを「知っているのだ」。そのことに気付いたならば、私たちの「心」を「真実」へとむかうことを阻むものは一体何であろうか。