lucciora’s diary 蛍日記

共感する魂を求めて

映画のなかの色彩~ショコラ

 

ショコラ [DVD]

秋なので、愛についてひさしぶりに?考えてみたくなったからなのか、

映画や音楽の中の愛について…ぱらぱらと思いつくことを。

 

大抵の映画や音楽はなにかしら「愛」をテーマにしていると思います。

タイトルにずばり「愛」という言葉がはいっているものも

すぐに思い浮かぶくらい。

恋愛、家族愛、宗教、自然、国、宇宙、動物、音楽、表現・・・、

それらのものに向けた愛なのでしょう。

 

以前、映画のなかの色について、考えていたことがありました。

とりあえず秋だから「ショコラ」を選んでみました。

 

チョコレートの色は秋の色のような気がします。

つやつやとした栗やドングリやチョコレート。

決して派手ではないけれど、温かみを感じさせるほっとする色です。

 成熟の色です。

 

この映画、大人のファンタジーともとれますが、女性にとっては

心のなかの自己の確立をテーマにしているような気がしました。

とても好きなタイプの映画でした。

 

 心の自由を失わずに、自分と折り合いをつけながら、自立すること。

かわいらしさや、愛情をわすれないで、歳を重ねていくこと。

 小説などを土台にした映画などでは、シチュエーションが日常的なので

まるで本当にあったこと・・・のように感じていたりしますが、

この映画は、随所のストーリー展開が「ありえなさそう」だけど

楽しくてわくわくして、

これはファンタジーだと思いながらも、見終わってみると、

ヨーロッパの小さな村なんかでは、これと近いことが

本当にあったことのような気がしてしまいました。

映画に対する共感というものでしょうか。

 

ジョニー・デップは、いくつかみているのですが、とくに私が好きだったのは

「妹の恋人」「フェイク」そしてこの「ショコラ」です。 

 

人恋しい季節ですね・・・。

 

消された愛だけが 思い出になるのです

 

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秋の夜長に読みたい本は?

 

そうですね。秋はなんだか詩を読みたくなりますね。

とくに、愛について、もっと深くかんがえてみたくなります。

神様の愛、親の愛、友愛、男女の愛、仏様のは愛ではなく慈悲、でしょうか。

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鉛筆が愛と書くと
消しゴムがそれを消しました
あとには何にも残らなかった

ところで 消された愛は存在しなかったのかといえば
そうではありません

消された愛だけが 思い出になるのです
 
 

寺山修二「消す」

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もうひとつ、今夜また思い出した歌。

 

闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば 生れぬ前の 父ぞ恋しき

 

一休さん作とも、白隠さん作とも、言われているようです。

暗闇の中の真っ黒いカラス。

闇の中で鳴きもしないその声を聴く。

心で聴いているのでしょうね。

…それを聞くとき、生まれぬ前の父を恋しく思う。

この「生まれぬ前の父」とは何なのか・・・。

 

キリストとも如来とも、自分を育ててくれた親とも、さまざまな解釈があるそうです。

そうした隠された、深い愛に、気づくことができる秋ですように。 

 

今週のお題「読書の秋」

シェーファー バリアント

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前回万年筆について書きましたが、いつもより沢山の方が見に来てくださったようです。

万年筆好きな方、結構いるんですね。嬉しかったです。

 

これが私の1番お気に入りの万年筆です。

1940〜50年代のものだと思います。

名前はシェーファーバリアント。(だったと思うのですが…まちがっていたら、教えてください)

 

まず、ボディーの色が気に入ってます。ビンテージ万年筆ファンのサイトpenheroで見ると「ペルシャンブルー」というカラーなのでしょうか…この色、私にはなにか懐かしい色なのです。

 

調べて見ると、ペルシャンブルーとは、もともとラピスラズリの色、紺青を指すらしいです。

ラピスラズリが大好きなので、今更ながら、このペンをひと目で気に入ったのも納得です。

キャップにあるシェーファーのトレードマークのホワイトドットもかわいい。

http://www.penhero.com/PenGallery/Sheaffer/SheafferTouchdownEarly.htm

 

ペン先は14金の個性的な形で、トライアンフと呼ばれるものです。書き味は硬めです。でも、インクの出が程よくて、するすると書けるので、ストレスフリーなのです。

 

インク吸入は、タッチダウン方式といって、現在ではほとんど見ない吸入式です。

ちなみに、どのようにインクを入れるかというと、

後ろのペン軸に一体化している一部分を、インクを入れるときに上に引き上げてから、インクボトルの中にペン先全体を入れます。

そしてボトルの中で、後ろの部分を下にぎゅーっと押すとインクがシュワーと中に入ってくるのです。

 

これが結構気持ち良くてですね…

しばらく文章を書いてインクが無くなったころに、ちょっと儀式的な感じで、ひと息いれながらインクボトルを開けて・・・というのが癖になります。

 

昔の万年筆のデザインは一本一本、味があってとても好きです。

古いペンでも、ペン先がちゃんとしていれば、まだまだ書けるものも多いです。気が向いたらビンテージ万年筆のお店とかに、遊びに出かけてみてはいかがでしょう。

 

東京での個人的なおすすめは、ユーロボックスさん。なんだかんだ時間が無くて、もうずいぶんお邪魔していないのですが。手頃な価格のものも、当時は結構ありました。

http://euro-box.com/

楽しいペンが沢山あった覚えがあります。

ではまた。

 

 [http://blog.hatena.ne.jp//odai/6653586347148057610:title=お題「お気に入りの文房具」より

 

 

 

シェーファーの万年筆

<p>今週のお題「自己紹介」</p>

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普段使いの万年筆。

シェーファーの、たしか'60年代のものだと思ったのですが、名前を忘れてしまいました。…画像で調べるとインペリアルだったかな。

ペンの胴体と一体型のニブ(ペン先)は、硬めの書き心地で、スピーディにぐんぐん書きたいときに使います。

 

もう随分前に、万年筆と筆記具&アンティーク文具のお店で働いていたことがあります。ブックカフェも併設。

もともと文房具は大好きだったので、仕事自体は面白かったです。

 

万年筆を好きな方というのは、皆さん自分なりの思いとこだわりのある方たちが多いんですよね。

大抵は文字を書くことが好きな人が万年筆を探しに来るので、そういう方たちと色々なお話をするのも楽しかったです。

 

そんなわけで、当時は一生懸命、万年筆について勉強してました。一本一本の書き味や、持ち味、そしてビンテージ万年筆や、限定の万年筆。漆や蒔絵の万年筆。

 

万年筆って、なめらかなインクにペン先をのっけて筆圧軽く書ける、とても手に優しい筆記具なんですよね。

自分に合うものと出会えると。

 

 

ダライ・ラマの言葉から…

自分を害する相手と戦わずして、自分の信念を貫くということ、それはどんなに難しい事だろう。

観音菩薩の生まれ変わりとされるダライ・ラマの人生は、この時代にあっても、わたしにはやはり神秘的なものに思える。

ダライ・ラマの言葉から、
他者"others"と自分との関わりについて、ガイドになるような言葉を3つ。

"Our prime purpose in this life is to help others. And if you can't help them, at least don't hurt them."

この人生で私達がまずすべきこととは、他者を助ける事である。
だが、もしあなたにそれができないのなら、少なくとも彼等を傷つけてはならない。

(…少なくとも彼らを傷つけてはならない、というところがわたしは好きだ。
この世界には、簡単に人を傷つける人が多すぎるように思う。時として心がしわしわになって、ボロボロになる。
自分とて、他者を助けることはできてはいないけれど。少なくとも…)

"What is love?
Love is the absence of judgement."

愛とは何か?
愛とは判定の不在である。


(そう…。自分の物差しで人を"ジャッジ"するのはやめよう。誰かを愛した時は、相手の全てを許容してしまう。
そんな風に、相手をジャッジすることをやめれば、その相手のことを受け容れることもできるのかもしれない。)

"Do not let the behavior of others destroy your inner peace."

他者の振る舞いによって、あなたの心の平穏を乱されることのないように。

(強くなりたい…心が。ずっとそう思ってるけど。笑)

ひとつぶの麦もし地に落ちて死なずば…

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一粒の砂の中に世界を…

イリアム・ブレイクの詩を昨日書きました。

 

それで思い出したけれど、

ひとつぶの…と云えばアンドレ・ジイドだったか、一粒の麦、落ちて死なずば…


「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、
死なば多くの実を結ぶべし」

新約聖書ヨハネ伝」第12章

 

聖書のことばって本質をついていて、すごいなといつも思います。

『聖書』なのだから当然といえば当然ですが。笑

仏教的な思想観が好きですが、聖書はすごい。

 

よく思います。

この世で偉業をなす人もいますが、多くの人は無名でその人生を終えるでしょう。自分もまた…

 

それでも、その人の家族や関わった人たちにとっては、その人は多分とくべつで大切な存在であったと思うし、代わる者などいないのだと。

生命をつないでいるということは、すでに多くの実を結んでいるということかもしれない。

 

anonymous・・・無名性ということ。

たまに絵画や詩歌でもありますよね。

詠み人知らず。

anonymous、作者不明の歌や絵。

中には素晴らしいものもたくさんあります。その人に想いを馳せてみる。

 

でもそんな時、ふと名も無い、とくに取り柄もない…もっと大勢の通り過ぎていった人たちについても考えたりします。

 

それでも良いのだとある時思いました。

それでも、この時空にたしかに刻まれている、そのものの場所があるのです。

 

ひとつぶのザクロの実。

それをひとくち食べてしまったがために、地上と冥界を行き来することになってしまったギリシャ神話の美しいペルセポネ。

 

シモーヌ・ヴェイユはそれを、神と知らぬうちに結ばれたものの姿に重ねていました。

ヴェイユの『重力と恩寵』は、ある時期私にとっての聖書のようになっていました。

わたしは彼女のように生きることはできないし、しないけれど、

その言葉にはとても魂をゆさぶられました。付箋だらけの文庫をバッグにいれていた時期がありました。

 

ーーざくろの実。

人は、自分からすすんで神を愛すると約束するのではない。
自分の知らぬうちに、自分の内部でむすばれた約束に、同意するのである。
シモーヌ・ヴェイユ

 

今でもやはり、彼女の残した言葉は、私にとってとくべつな言葉です。

そう。

わたしたちもまた、ひとつぶの・・・

無限のなかのひとつぶの…

 

ひとつぶの砂に世界を…

       一粒の砂の中に世界を見

  一輪の花に天国を見るには
  君の手のひらで無限を握り
  一瞬のうちに永遠をつかめ

 

           f:id:lucciora:20170323231828j:image

 

Auguries of Innocence : William Blake

  To see a World in a grain of sand,
  And a Heaven in a wild flower,
  Hold Infinity in the palm of your hand,
  And Eternity in an hour.

 

ウィリアム・ブレイク詩集「ピカリング草稿」から「無垢の予兆」Auguries of Innocence(壺齋散人訳)

 

最近、この詩が頭のなかで浮遊していました。むかし母がくちずさんでいた詩。

 

同じようなタイトルの展覧会も、今やっているみたい。情報には疎いのですが、たまたま見つけました。

 

…いま、これは私たちにとって、大切なテーマの1つなのかもしれませんね。

 

ひとつぶの砂の中には世界がある。

そこにすべてあるんですね。

そして一瞬の中には永遠が。

 

自分の中に、自分の必要とするものはすべてある。

それをみとめるならば。

 

 

 

 

 

 

手紙

手紙を書くのが好きです。
手紙をもらうのも、大好きです。

最近あまり、もらわないから淋しいですけど…自分もあまり書いていないんだから仕方ないですね。

電子メールだって、もらえば勿論うれしいけれど、
家の郵便受けに、ちょっと厚みのある封筒のざらっとした手触りだったり、
海外からのエアメール便を見ると、思わず軽くスキップしてしまいます。

封筒の手触りって、どうしてあんなに素敵なのかな。
このふくろの中に自分へのメッセージが折り畳まれて入っている。

たくさんの文字が、私だけに向かって、ひそかに話しかけてくる。
そのことが嬉しいのです。

だから私も、手紙を書くのは楽しみです。

万年筆に青いインクを充填して、コーヒーでも飲みながら、相手のことをつらつらと考えながら、幸せな時間を過ごします。
切手も相手のイメージに合わせて、特別なものを選んだりして。

ポストが赤いのは、手紙を入れるイメージとして、本当にピッタリだと思います。
あの朱色というか赤というかの、ぼってりした、どっしりした鉄のボディが、温かく見えるのです。

そして赤いポストに投函するとき、
はなれた場所にいる相手のことを思い出し、手紙をうけとる姿をちょっと思い浮かべてみる。

手紙っていうのは、すごく人間らしいものだと思います。

〒 〒 〒 〒 〒 〒 〒

あなたへの手紙 /寺山修司

あて名のない手紙を書いたことがあります

それを郵便ポストに入れずに楡(にれ)の木の穴にいれたことがあります

まだ逢ったことのない女の子への手紙でした

愛の手紙でした

ところが その手紙に返事がきたのです

お手紙ありがとう

愛の手紙に 愛の手紙で

お返事できるのがとてもしあわせです

この返事も

ほんとはぼくが自分で書いたものです

僕が今より若く まだ人生の苦渋を知らなかったころ

空はいつも真青だった

流星ワゴン

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流星ワゴン

 

ーーやっとわかった。

信じることや夢見ることは、未来を持っているひとだけの特権だった。

信じていたものに裏切られたり、夢が破れたりすることすら、

未来を断ち切られたひとから見れば、それは間違いなく幸福なのだった。

  

 

 

ドラマにもなった重松清さんの小説。

小説というものを私はあまり読んでこなくて、どちらかというと

心理学・宗教学や、思想・エッセイなどが好きで読んできたけれど、

最近、歳のせいなのか…やっと小説が面白いと思うようになってきた。

 

それでも小説のなかの風景描写だったり、セリフだったりが、

自分の感覚に合わないとなんだか面倒になっていたのだけど、

重松清さんは、私にとってその辺りがとてもすんなり入ってくる作家なのだろう。

 

この小説では、積極的に死のう、と思うほどの気力もなくなった、

生きることに疲れはてた主人公が、夜の駅前のロータリーで

「死んでしまってもいいな…」と思うところから物語が始まる。

そう、・・・生きても死んでもどちらでもよいけど、自分には何かする余力もないように感じるとき。

 

そこに、流星ワゴンがやってくるのだ。

そのワゴン車に乗っている二人は、もうこの世の住人ではない。

主人公は、二人に誘われて、自分の人生のやり直し、というか

自分が見逃していた、本当に大事なものを見つけに行くのだ。

 

よく聞く話だけれど、亡くなるときに、自分の人生が走馬灯のように

すべてすごい速さで見えるというけれど、

まさにそんな話だ。

その時、すべてが見えるのだろうか。

楽しみのような、さみしいような。

 

けれど、この話が何か胸に訴えてくるのは、本当に流星ワゴンがあるのかとか、

人生のやり直しはできるのか、ということよりも、

自分自身が気づく、ということができればそれが大転換なのだということ。

 

たとえ現実がひっくり返るわけではなくても、

自分が「わかって」、自分の中に真実がすとんと落ちてくることが、

その人の人生の質を180度変えてしまうことだってある、

ということではないだろうか。

 

日常を生きていると、その中に自分が埋没してしまい、

いつの間にか見えなくなることはたくさんある。

その現実のあわただしい時間の流れから離れて、もう一度生活を眺めてみれば、

見えてくるものがある。

 

自分がそれまで到底理解できなかった近しい人たちの真実、

吐露できないで呑み込んでしまった相手の気持ち、

思いもよらなかったできごとがクリアに感じられることがある。

 

もし死がせまっているなら、自分はそれでよかったのか、

この世で生きているあいだに、自分がしたかったことはなんなのか、

それを、生と死の間をさまようワゴンの持つ「死者の視点」が教えてくれるのだ。

 

いつか私も流星ワゴンに乗って、旅をしてみたい。

今はもういない人たちと、おしゃべりを楽しみながら。

 

ーー僕も苦笑して「でもさ」とつづけた。

たとえばデジャ・ブや、昔どこかで会ったような気がするひとに会うことは、

誰かのやり直しの現実に付き合った痕跡なのかもしれない。

星座のような記憶の回路からぽつんとはずれた、そんな記憶を、

もしかしたら、僕たちはたくさん持っているのかもしれない。

 

 

 

 

心に微かな風が…


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あなたのブログを読んでいました。
それで、

ーあ、この言葉はどこで聞いたんだっけ、と思ったんですよね。
いつか、誰かが言ってくれたなぁと。

そして思い出しました。


「ほんの少しだけね、あなたの心のドアを開いておきましたよ。
あまり大きく広げると、辛いかもしれないから、ほんのちょっとだけ、ね。
そこから入ってくる新しいものを、何か感じられるといいね。」
と言ってくれたなぁと。

 

あの頃、多分しんどかったんですよね。それで体がこわばって、背中とかいつもバリバリに固まっていて、息が詰まってくるしい…

そういう時に、行く場所があのころあったなって。

 

その場所は夕方になると、柔らかい灯りがともってる、沈香とか白檀のお香の香りがして、静かな東洋的な音楽が流れている、リラックスできる場所でした。

 

週に何度か気功のクラスがあって、ふだんは気功治療をやっている場所だったんですけども。…私は東洋思想とか興味もあって、ヨガも何度か試したことはあるんですが、気功も面白いと思ったんです。でも長続きしないんですけども…。

 

そこの気功の先生は、ちょっとお坊さんみたいに見えて…作務衣を着て、髪の毛を短く剃っていたから、そう見えたのかな。気功の治療を、時々受けていました。

 

勿論、気、みたいなものも感じますし、少し離れたところから、あったかいエネルギーみたいなものも感じるんです。そういうのに敏感な人に言わせれば、かなり力がある先生だって、言ってましたよ。

 

それなのに私は頭でっかちの人なので、気、よりも実際に押してもらったりするのが実は好きでしたけども…

 

今振り返ると、ほんとのところでは、その先生に何かを相談した時の「助言」みたいな言葉を聞くのが結構好きで、もしかしたら話がしたくて行っていたのかもしれません。

 

ある時、何の話からだったのか、ふと言ったんですよね。

…私ね、すごく疑い深いっていうのかなー。うちの母なんて、人の言うことをそのまま真に受けて信じちゃうのに。

相手のことを、疑ってるというのとは違ってて。…でも何となく、人は変わるもんだと思ってて、気持ちや考えも変わるって。人が「変わらない」と言ったりしても、いつか変わるかもしれないし、だけど自分はそれで構わない、とか思ってるんですよね。

でも、信じても良いんですよね。その人の言葉を…とりあえず。

 

すると、その先生が言ったんです。

…なんとなくね、ビジョンみたいなのが見えたんです。

まだ産まれたばかりの赤ちゃんだと思うんだけど、お母さんが貧しかったのか、病気だったのかな、置き去りにされてしまったみたい。

それで、ずっと泣いているんだけど、誰も来てくれなくて。…寒いのか暑いのか、どんどん弱ってしまって…っていう姿が見えたんです。

そんな事が、あなたの魂の歴史の中にあったのかもしれないし、あるいは心象風景かもしれないんだけど。

 

…その先生は普段そういうことは言わない人だったので、その時はちょっと驚いた。

ただそんな光景が浮かんだのかもしれない。前世か、私の心象風景なのか、たとえ話なのか。でも、それがなんであったのか、ということはそれ程大事ではなかった。

先生の話してくれたビジョンは、私にとても響くものがあったんです。

 

子供の頃から、決して開放的な子供ではなかったと思うし、

色々なことに敏感すぎて、いつもどこかで疲れていたんですよね。

家族の軋轢のなかで、誰も自分の話を聞いてくれないような気がしてたんです。

… もっと言えば、自分が大切だと自分でも思えなかったんです。

 

何かを信じて、それを失って傷つくよりは、初めから失われるものとして、すべてを見ようとしていたのかもしれない。

 

だから、棄てられる赤ちゃん、寒さに凍えて、暑さで息ができない、それは私に思えました。本当にその通りだなって。それで暫く、泣いていました。

その通りですよね、って。

 

だから、帰りぎわ、先生が言ってくれた言葉を思いだします。

「ほんの少しだけね、あなたの心のドアを開いておきましたよ。あまり大きく広げると、辛いかもしれないから、ほんのちょっとだけ、ね。そこから入ってくる新しいものを、何か感じられるといいね。」と。

 

そのとき心は開いたのか、開いてなかったのか、今は閉じてしまったのか、ひらいているのか?

 

わからないけれど、心を少しだけ、ひらくっていうことは、心の目では見えましたよ。

微かな風がすっと通るのを、心の肌で感じましたよ。

 

そんな事を思いだしました。あなたのブログの言葉から…

 

 

歴史と感情/集合無意識

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シュタイナー教育を語る / 高橋巌より

「感情は時間の中で存在しており、空間の中では存在していないということです。
過去と現在と未来は、大体感情で結びついていると言ってもいいくらいです。
歴史というのは、一言でいうと、人類的規模での感情の集大成、前に述べたこととの関連で言えば、人類の夢である、と言ってもいいくらいです。

歴史というのは、ほとんどが感情なのです。一般にはそういうふうには受け取られていませんが、歴史が現在の私の生活に意味があるとすれば、それは本来は、過去の流れのなかから今の私のほうに感情のエネルギーが流れてきているからなのです。

歴史から単なる知識を引き出そうとか、そこに科学的な法則を見出だそうとすることだけが、本来の歴史研究だと思うことは、ニーチェが語っていたように、人生にとっての歴史の意味を誤解させてしまいます。」


ーーー


感情は時間の中に存在している。…なるほど…。納得。

 

集合無意識の中には、神話、おとぎ話、歴史上の人物、あらゆる物語が溶け込んでいる。
それは、つまるところ、あらゆる生き物の感情の経験、なのかもしれない。
ユングとシュタイナーが意外と近くにいたのかもしれないということ。
感情が時間の中に存在している、ということ。では空間の中に存在しているもの、とは何なのか。
そもそも、時間のない空間てあるのだろうか。…

メランコリアーそして、憂鬱の逆転

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メランコリア。憂鬱。
今更ながら、シュタイナーの気質についての文章を読んでいて、以前から親しみのある一枚の版画を思い出す。

 

アルブレヒト・デューラーメランコリア
シュタイナーも、四体液説から、人間の気質について自論を展開していったようだが、この話はまた、ギリシャの宇宙を成す元素は何かという話とも、繋がっていくことだったなーと、改めて思い出す。

 

忘れたり、思い出したりの繰り返しだけれども、その時その時、自分の知りたいことにフォーカスが合っているから、以前とはまた違う視点で見ているのかもしれない。

 

学生時代、はじめはユングからの影響で、神話や神秘主義錬金術の本も結構読んだ。
人間の気質について四体液説も読んだけど、当時は4つでは単純すぎると思っていた。その点、占星術のほうがよりデリケートな解釈が出るので面白いと思っていた。


けれど、デューラーのこの版画は、ずっとイメージが残っていて、メランコリアという言葉も注視していた時間が長かったんだろう。
やはりデューラーの作品の力がある。


…私、まさに憂鬱質なんだな。と思う。
私のホロスコープの第1室には、憂鬱を示す土星が入ってるし、逆に自分を示す太陽は12室(最後の部屋)だし。
もちろん、4つの気質が混ざり合っているわけだけど。

 

けれど、今更、なのでデューラーの「メランコリア」の絵をよくよく見てみれば、そうだ、あの頃もよく考えたことを再認識できる。


このメランコリアの示す可能性とは、つまり自分が最も「重い」ものに、重力に、支配され束縛されている(という認識をもつ)者が、知性や自己認識や思索によって、高く、自由な、広がりの次元を識る可能性も示しているのだ。

 

アルブレヒト・デューラーメランコリアについて、若桑みどりさんの講義から、詳しく書き留めているブログがあって、面白かった。

http://blog.goo.ne.jp/masamasa_1961/e/81f32a463b176da027022eaa01a94b7d

 

 

恋と信仰

 

良寛と貞心尼の歌のやりとりを美しいと思う。


恋なのか、信仰心なのか。
ただ、ひたすら、どこまでもついていきたいと思う「絶対」な存在。


親鸞法然への信もまた。
なかなか出逢えるものでもないけれど、
人生の導師とは、そんな気持ちを喚起する存在なのだろう。

 

アッシジに行ったとき、聖フランチェスコ教会を訪ねた。
そして聖フランチェスコの埋葬されている墓を見た。
キャンドルが灯され、とてもあたたかく、明るく感じる空間だった。
未だに多くの人がやってきて祈りを捧げていた。


そのあと、聖キアラ教会を訪ねた。
聖キアラの着ていた白い服が展示されていた。
キアラの服が思ったより大きかったのと、
絵に描かれたフランチェスコには小柄な印象を持っていたので、
キアラの方がフランチェスコよりも大柄だったのかな・・
などと当時の2人の姿について勝手な空想をふくらませていた。

 

教会やアッシジの佇まいは、かつて彼らが生きていた気配を、数百年後の今も感じさせるような、ポテンシャルに満ちていた。
彼らが生きていたことは、その時の私にとって何かとても身近なことに感じられた。

 

良寛と貞心尼、フランチェスコとキアラ、彼らのあいだにある、特別な
信頼と尊敬、憧れ、慕情。

 

神や仏が介在することによって、永遠化され、昇華される人間の「思い」。
そういうものも、ある。


常軌を逸したもの。
恋と信仰は、どこか似ている。

もちろん違う。
けれど、どちらも、本当のものならば大きな痕跡を残すだろう。
…心に。

 

幸いなるかな
幸いなるかな

 

困難な事も多いけれど、いつか思いたい。
人生は美しい。 そんな風に。

 

 

 

 

うらをみせ おもてをみせて 散る紅葉

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「外は良寛」/松岡正剛著より
備忘録的に、文章を書きうつしてきました最終回です。

 ・・・・

ついに良寛の最晩年です。体もだんだん弱っている。しかし良寛は六十歳をこえて二人の女性と親交をむすびます。

 

貞心尼は小さなころからの文学少女です。詩歌ばかり読んだり詠んでいたとも、雪のように白い餅肌で、気位が高かったともいいます。

 

なぜ貞心尼がまだ見ぬ良寛に強い関心をもったのか、正確なことはわかりません。当時の良寛が相当に高名であったことは確かなことなので、まずもって風聞だけはたくさん聞いていたでしょう。

 

そしてその風聞には「歌と書がすばらしい風変わりな老僧だ」といったこと、「なかなか良寛さんを満足させる人がいない」といったこと、あるいは「とても理想が高い人だ」といったことなども交じっていたにちがいない。

ひょっとしたら勝気な貞心尼のこと、好奇心と自尊心をくすぐっていたかもしれない。「それなら私が」と思ったとも考えられる。

 

そこで貞心尼は、おそらくは二十五、六のころから良寛を敬慕して縁のありそうなところを訪れはじめます。そして良寛七十歳、貞心尼が三十歳のとき、二人は出会う。

 

これぞこの仏の道にあそびつつ
つくやつきせぬみのりなるらむ(貞心尼)

 

つきてみよひふみよいむなここのとを
とをとおさめてまたはじまるを(良寛

 

二人はたちまち親密になっていく。良寛が死んでしまうので二人の関係は五年しか続かなかったのですが、クライマックスは 出会って三年目のころでした。

 

いかにせむ学びの道も恋草の
しげりて今はふみ見るも憂し(貞心)

 

いかにせむ牛に汗すと思ひしも
恋の重荷を今はつみけり(良寛

 
われも人もうそもまこともへだてなく
照らしぬきける月のさやけき(貞心)

 

手にさはるものこそなけれのりのみち
それがさながらそれにありせば(良寛

 

衰弱というものは、他人からは見えないことですが、本人にとってはかなり大きな現象です。

良寛もいよいよ衰弱の度を加えます。そしてその一部始終を貞心尼はみつめます。良寛もこんな歌を歌っている。かなり本音が出ています。

 

老いらくを誰が始めけむ教へてよ
いざなひ行きて恨みましものを

 

貞心尼はいっさいの心底を傾けて、その衰弱をいとしんだ。われわれはその貞心尼の心情の吐露を「蓮(はちす)の露」の歌からしか推察できませんが、そこには予想以上のいとしみが あふれます。

 

ことしげきむぐらの庵にとぢられて
身をば心にまかせざりけり

 

きみなくば千たび百たび数ふとも
とをづつとををももとしらじを

 

すでに良寛は自分の死を覚悟していたふしがあります。しかしおもいのほかあっけなく最期がやってきてしまいます。臨終は 貞心尼がみとります。そこで貞心尼は必死に歌を詠む。涙がとまらなかったかもしれません。

 

生き死にのさかひはなれて住む身にも
さらぬ別れのあるぞかなしき

 

良寛も僅かに頷いて、最後の返しを詠みます。

 

うらをみせおもてをみせて散るもみじ

 

天保元年十二月二十六日のことです。良寛が七十四歳、貞心尼はまだ三十四歳です。
もう散ってしまうというのに、良寛はそこにいる。では、散ってしまうのかといえば、また次のもみじが裏を見せ、表を見せて空中にある。
それらのもみじははらはらと落ちゆくもみじですが、 そのもみじを歌っている良寛は、結局はいつまでももみじとともに空中に舞っているのです。

 

淡雪の中にたちたる三千大世界(みちあふち)
またその中にあわ雪ぞ降る

 

ただただ良寛の淡雪が降っていたのです。
ともかくも、気がつけば外は良寛ーー、 
良寛だらけです。
(読了)

・・・・・

良寛と貞心尼との歌のやり取りは、本当に美しい。

信仰を深めながら、人としての良寛にも、貞心尼はどれだけ教えられ、導かれることがあったのだろう。

 

アッシジの聖フランチェスコと聖キアラの関係にも近いものを感じる。

 

てにさはる ものこそなけれ のりのみち

それがさながら それにありせば

 

彼らにとって、彼女たちの存在は、弟子であり、やがては同志であり、また時に励ましであり安らぎであったのではないだろうか。

人は孤独だ。けれどそれゆえに人は出逢う。時には深い魂の地点で。

それが、この世界に生きていることの最も大きな意味のように思える。 

 

秋の夜ーバッハのマタイ受難曲…

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なんだか涼しい。昼間は暑かったのに、やはり秋だ。

 

今夜ふと思いだした。
バッハのマタイ受難曲の中の「主よ、この涙にかけて我を憐れみたまえ。」という曲を。
この曲がタルコフスキーの映画で流れたことを。
キリテ・カナワの声も良かったけど、映画のシーンとあいまって、
この曲に圧倒された。

 

人の心は結構深いと思うこともある。
意識していない部分まで含めばさらに深いだろう。
それでも人には、時として抱えきれないものがあるのは何故だろう。
やはり心はそんなに深くも広くもないからなのか。
それとも、自分でその広さや深さを解放しないからなのか。
押さえ込もうとしても、あふれてくるもの。
それなのに、それを分かち合える相手がいないのは苦痛だ。


分かち合える、というのも変かな。
受けとめてくれる、ということかな。

 

…告解の意味。
そんな時は、神のみが、自分をゆるし、
この苦しみの深さをみつめてくれるだろう、
そう思う時があるのかもしれない。

 

イタリアにいた時、教会で告解する人たちを何度か見た。
電話ボックス(この頃では見ないけれど…)くらいの、
もっと小さいかな…、木で出来た部屋に
神父様が座っていて、小さな窓から告解を聞いているのが、うっすらと見えた。
不思議な風景だった。神父様に告解することで、 その人の心は少しでも楽になるのだろうか。
今なら、多分、少しはなるだろう…と思う。もしかしたら、かなり楽になる場合もあるだろう。

 

人の抱えきれないものを、受け取ること。

宗教のひとつの役割りなのかもしれない。

 

そんなことを思った秋の夜。
神を信じられなくても、
もし本当に自分のすべてをわかってくれるような 親友なり家族なり恋人なりがいたら、 もちろんそれは、とても幸せなことだと思う。