読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

lucciora’s diary

「詩人が詩を書くのは、自分と同じ言葉を話す人間を見つけるためだ。」ジャン・コクトー ーー言葉はどこまで「心」に近づけるのだろう。共感する魂を求めて、言葉の海へと漕ぎ出してみよう。 自分の心に響いてきた本、映画、表現など、備忘録的に書き留めています。どうぞよろしく。

歴史と感情/集合無意識

f:id:lucciora:20161219094913j:image

 

シュタイナー教育を語る / 高橋巌より

「感情は時間の中で存在しており、空間の中では存在していないということです。
過去と現在と未来は、大体感情で結びついていると言ってもいいくらいです。
歴史というのは、一言でいうと、人類的規模での感情の集大成、前に述べたこととの関連で言えば、人類の夢である、と言ってもいいくらいです。

歴史というのは、ほとんどが感情なのです。一般にはそういうふうには受け取られていませんが、歴史が現在の私の生活に意味があるとすれば、それは本来は、過去の流れのなかから今の私のほうに感情のエネルギーが流れてきているからなのです。

歴史から単なる知識を引き出そうとか、そこに科学的な法則を見出だそうとすることだけが、本来の歴史研究だと思うことは、ニーチェが語っていたように、人生にとっての歴史の意味を誤解させてしまいます。」


ーーー


感情は時間の中に存在している。…なるほど…。納得。

 

集合無意識の中には、神話、おとぎ話、歴史上の人物、あらゆる物語が溶け込んでいる。
それは、つまるところ、あらゆる生き物の感情の経験、なのかもしれない。
ユングとシュタイナーが意外と近くにいたのかもしれないということ。
感情が時間の中に存在している、ということ。では空間の中に存在しているもの、とは何なのか。
そもそも、時間のない空間てあるのだろうか。…

メランコリアーそして、憂鬱の逆転

f:id:lucciora:20161217205646j:image

メランコリア。憂鬱。
今更ながら、シュタイナーの気質についての文章を読んでいて、以前から親しみのある一枚の版画を思い出す。

 

アルブレヒト・デューラーメランコリア
シュタイナーも、四体液説から、人間の気質について自論を展開していったようだが、この話はまた、ギリシャの宇宙を成す元素は何かという話とも、繋がっていくことだったなーと、改めて思い出す。

 

忘れたり、思い出したりの繰り返しだけれども、その時その時、自分の知りたいことにフォーカスが合っているから、以前とはまた違う視点で見ているのかもしれない。

 

学生時代、はじめはユングからの影響で、神話や神秘主義錬金術の本も結構読んだ。
人間の気質について四体液説も読んだけど、当時は4つでは単純すぎると思っていた。その点、占星術のほうがよりデリケートな解釈が出るので面白いと思っていた。


けれど、デューラーのこの版画は、ずっとイメージが残っていて、メランコリアという言葉も注視していた時間が長かったんだろう。
やはりデューラーの作品の力がある。


…私、まさに憂鬱質なんだな。と思う。
占星術的にも、憂鬱を示す土星が第1室に入ってるし。逆に自分を示す太陽は12室だし。
もちろん、4つの気質が混ざり合っているわけだけど。

 

けれど、今更、なのでデューラーの「メランコリア」の絵をよくよく見てみれば、そうだ、あの頃もよく考えたことを再認識できる。


このメランコリアの示す可能性とは、つまり自分が最も「重い」ものに、重力に、支配され束縛されている(という認識をもつ)者が、知性や自己認識や思索によって、高く、自由な、広がりの次元を識る可能性も示しているのだ。

 

アルブレヒト・デューラーメランコリアについて、若桑みどりさんの講義から、詳しく書き留めているブログがあって、面白かった。

http://blog.goo.ne.jp/masamasa_1961/e/81f32a463b176da027022eaa01a94b7d

 

 

恋と信仰

 

良寛と貞心尼の歌のやりとりを美しいと思う。


恋なのか、信仰心なのか。
ただ、ひたすら、どこまでもついていきたいと思う「絶対」な存在。


親鸞法然への信もまた。
なかなか出逢えるものでもないけれど、
人生の導師とは、そんな気持ちを喚起する存在なのだろう。

 

アッシジに行ったとき、聖フランチェスコ教会を訪ねた。
そして聖フランチェスコの埋葬されている墓を見た。
キャンドルが灯され、とてもあたたかく、明るく感じる空間だった。
未だに多くの人がやってきて祈りを捧げていた。


そのあと、聖キアラ教会を訪ねた。
聖キアラの着ていた白い服が展示されていた。
キアラの服が思ったより大きかったのと、
絵に描かれたフランチェスコには小柄な印象を持っていたので、
キアラの方がフランチェスコよりも大柄だったのかな・・
などと当時の2人の姿について勝手な空想をふくらませていた。

 

教会やアッシジの佇まいは、かつて彼らが生きていた気配を、数百年後の今も感じさせるような、ポテンシャルに満ちていた。
彼らが生きていたことは、その時の私にとって何かとても身近なことに感じられた。

 

良寛と貞心尼、フランチェスコとキアラ、彼らのあいだにある、特別な
信頼と尊敬、憧れ、慕情。

 

神や仏が介在することによって、永遠化され、昇華される人間の「思い」。
そういうものも、ある。


常軌を逸したもの。
恋と信仰は、どこか似ている。

もちろん違う。
けれど、どちらも、本当のものならば大きな痕跡を残すだろう。
…心に。

 

幸いなるかな
幸いなるかな

 

困難な事も多いけれど、いつか思いたい。
人生は美しい。 そんな風に。

 

 

 

 

うらをみせ おもてをみせて 散る紅葉

f:id:lucciora:20161105211747j:image

 

「外は良寛」/松岡正剛著より
備忘録的に、文章を書きうつしてきました最終回です。

 ・・・・

ついに良寛の最晩年です。体もだんだん弱っている。しかし良寛は六十歳をこえて二人の女性と親交をむすびます。

 

貞心尼は小さなころからの文学少女です。詩歌ばかり読んだり詠んでいたとも、雪のように白い餅肌で、気位が高かったともいいます。

 

なぜ貞心尼がまだ見ぬ良寛に強い関心をもったのか、正確なことはわかりません。当時の良寛が相当に高名であったことは確かなことなので、まずもって風聞だけはたくさん聞いていたでしょう。

 

そしてその風聞には「歌と書がすばらしい風変わりな老僧だ」といったこと、「なかなか良寛さんを満足させる人がいない」といったこと、あるいは「とても理想が高い人だ」といったことなども交じっていたにちがいない。

ひょっとしたら勝気な貞心尼のこと、好奇心と自尊心をくすぐっていたかもしれない。「それなら私が」と思ったとも考えられる。

 

そこで貞心尼は、おそらくは二十五、六のころから良寛を敬慕して縁のありそうなところを訪れはじめます。そして良寛七十歳、貞心尼が三十歳のとき、二人は出会う。

 

これぞこの仏の道にあそびつつ
つくやつきせぬみのりなるらむ(貞心尼)

 

つきてみよひふみよいむなここのとを
とをとおさめてまたはじまるを(良寛

 

二人はたちまち親密になっていく。良寛が死んでしまうので二人の関係は五年しか続かなかったのですが、クライマックスは 出会って三年目のころでした。

 

いかにせむ学びの道も恋草の
しげりて今はふみ見るも憂し(貞心)

 

いかにせむ牛に汗すと思ひしも
恋の重荷を今はつみけり(良寛

 
われも人もうそもまこともへだてなく
照らしぬきける月のさやけき(貞心)

 

手にさはるものこそなけれのりのみち
それがさながらそれにありせば(良寛

 

衰弱というものは、他人からは見えないことですが、本人にとってはかなり大きな現象です。

良寛もいよいよ衰弱の度を加えます。そしてその一部始終を貞心尼はみつめます。良寛もこんな歌を歌っている。かなり本音が出ています。

 

老いらくを誰が始めけむ教へてよ
いざなひ行きて恨みましものを

 

貞心尼はいっさいの心底を傾けて、その衰弱をいとしんだ。われわれはその貞心尼の心情の吐露を「蓮(はちす)の露」の歌からしか推察できませんが、そこには予想以上のいとしみが あふれます。

 

ことしげきむぐらの庵にとぢられて
身をば心にまかせざりけり

 

きみなくば千たび百たび数ふとも
とをづつとををももとしらじを

 

すでに良寛は自分の死を覚悟していたふしがあります。しかしおもいのほかあっけなく最期がやってきてしまいます。臨終は 貞心尼がみとります。そこで貞心尼は必死に歌を詠む。涙がとまらなかったかもしれません。

 

生き死にのさかひはなれて住む身にも
さらぬ別れのあるぞかなしき

 

良寛も僅かに頷いて、最後の返しを詠みます。

 

うらをみせおもてをみせて散るもみじ

 

天保元年十二月二十六日のことです。良寛が七十四歳、貞心尼はまだ三十四歳です。
もう散ってしまうというのに、良寛はそこにいる。では、散ってしまうのかといえば、また次のもみじが裏を見せ、表を見せて空中にある。
それらのもみじははらはらと落ちゆくもみじですが、 そのもみじを歌っている良寛は、結局はいつまでももみじとともに空中に舞っているのです。

 

淡雪の中にたちたる三千大世界(みちあふち)
またその中にあわ雪ぞ降る

 

ただただ良寛の淡雪が降っていたのです。
ともかくも、気がつけば外は良寛ーー、 
良寛だらけです。
(読了)

・・・・・

良寛と貞心尼との歌のやり取りは、本当に美しい。

信仰を深めながら、人としての良寛にも、貞心尼はどれだけ教えられ、導かれることがあったのだろう。

 

アッシジの聖フランチェスコと聖キアラの関係にも近いものを感じる。

 

てにさはる ものこそなけれ のりのみち

それがさながら それにありせば

 

彼らにとって、彼女たちの存在は、弟子であり、やがては同志であり、また時に励ましであり安らぎであったのではないだろうか。

人は孤独だ。けれどそれゆえに人は出逢う。時には深い魂の地点で。

それが、この世界に生きていることの最も大きな意味のように思える。 

 

秋の夜ーバッハのマタイ受難曲…

f:id:lucciora:20161021002031j:image

なんだか涼しい。昼間は暑かったのに、やはり秋だ。

 

今夜ふと思いだした。
バッハのマタイ受難曲の中の「主よ、この涙にかけて我を憐れみたまえ。」という曲を。
この曲がタルコフスキーの映画で流れたことを。
キリテ・カナワの声も良かったけど、映画のシーンとあいまって、
この曲に圧倒された。

 

人の心は結構深いと思うこともある。
意識していない部分まで含めばさらに深いだろう。
それでも人には、時として抱えきれないものがあるのは何故だろう。
やはり心はそんなに深くも広くもないからなのか。
それとも、自分でその広さや深さを解放しないからなのか。
押さえ込もうとしても、あふれてくるもの。
それなのに、それを分かち合える相手がいないのは苦痛だ。


分かち合える、というのも変かな。
受けとめてくれる、ということかな。

 

…告解の意味。
そんな時は、神のみが、自分をゆるし、
この苦しみの深さをみつめてくれるだろう、
そう思う時があるのかもしれない。

 

イタリアにいた時、教会で告解する人たちを何度か見た。
電話ボックス(この頃では見ないけれど…)くらいの、
もっと小さいかな…、木で出来た部屋に
神父様が座っていて、小さな窓から告解を聞いているのが、うっすらと見えた。
不思議な風景だった。神父様に告解することで、 その人の心は少しでも楽になるのだろうか。
今なら、多分、少しはなるだろう…と思う。もしかしたら、かなり楽になる場合もあるだろう。

 

人の抱えきれないものを、受け取ること。

宗教のひとつの役割りなのかもしれない。

 

そんなことを思った秋の夜。
神を信じられなくても、
もし本当に自分のすべてをわかってくれるような 親友なり家族なり恋人なりがいたら、 もちろんそれは、とても幸せなことだと思う。

ひふみよいむな…一二三四五六七…

  f:id:lucciora:20161019222745j:image

 

備忘録のように書き写してきた「外は良寛松岡正剛さん。


「ひふみよいむな」はどのへんから出てきたのか、おもしろい話がいっぱいありました。
もう少しで読み終わりそうです。

ーーーーー

良寛の書のなかでもとりわけすばらしいものとして、たった
3字の「一二三」と「いろは」をあげる書人は少なくありません。
もともと良寛には、しばしば「一、二、三、四・・・」という具体的な数字が出てきます。(漢詩にも、歌にも)

貞心尼と良寛が最初に歌を交わしたときも、良寛はこの
「一、二、三、四、五、六、七」を強調しています。
当時、長岡福島町の閻魔堂に一人で住んでいた貞心尼は
高徳の聞こえある良寛に会いたくて、ある日(三十歳ごろ)に意を決して歌を送ります。
良寛さんは手毬が好きだと聞いたので「これぞこのほとけの道に遊びつつ つくや尽きせぬみのりなるらむ」と書いた歌でした。


これに答えて七十歳に近い良寛が詠んだ歌が次の返しです。

つきてみよ ひふみよいむなやここのとを
とをとをさめてまた始まるを

 

「一二三四五六七八九十」と手毬をついてみて、また「一二三」と始めるのですという歌。


なにも言っていないといえばそうだし、何もかもを言い尽くしているといえばその通りの、まことに絶妙な歌です。
何が絶妙かといって、良寛は自分の言いたいメッセージを
“ものの太初”に収容したのです。

 

「文字上一味禅」・・・・・

「それは何か」と問われて「一二三四五」と返すというやりくちは、実は禅問答にあります。それもほかならぬ道元の体験した問答にある。
(入宋したばかりの道元が最初のころ阿育王山の年老いた典座(食事係)に難題をぶつけ、逆に問答の中で「文字というものがわかっておらんな」と言われ、しょげ返ってしまう。
そして、ふたたびさんざん悩んだ後に道元が老典座を訪ねていくと「文字を学ぶのは文字の原郷を知るためであり、修行を積むのは修行しつつもその当人に出会うためなのだ」というようなことを言う。)
それでもまだ腑に落ちない道元は、重ねて「つまるところ文字とは一体何なのですか?」ときいてしまう。

そこですかさず老典座の答えた言葉は、ただの一言「一二三四五!」。

 

・・・そして道元は知る。「然ればすなわち、従来看るところの文字はこれ、一二三四五なり。今日看るところの文字は、また六七八九十なり」と。老典座は一二三四五という文字を教えてくれた。いま自分は六七八九十という文字を見ている。この二つはちがうようでいて実のところ同じである。
そこには一挙の文字自体がある。

 

道元の「一二三四五」には、さらに“前”があります。

僧、智門に問う「蓮華いまだ水より出でざる時はいかん」
智門曰く「蓮華は一二三四五六七、天下の人を疑殺す」

僧が智門に「蓮の花は咲けば蓮の花だが、その花がまだ咲いていないときをどう見るのか」と問うたのに対して、智門が「蓮の花は蓮の花、一二三が四五六七とつづくのと同じことだ」と答えたという話です。「天下の人を疑殺す」は「そんなことを言っていると笑われるぞ」といった意味、ようするに「柳は緑、花くれない」ということです。

 

ともかく道元の「文字上一味禅」は良寛のお気に入りだった。
しかしそういうだけではすまされないものも、ここにはひそんでいる。それはいよいよ書そのものの問題に関係してきます。

 

ここに「一」と「十」という文字があります。一本棒を引くのと二本を交差させるもじです。
「大」を書くにはまず一があり、「天」を書くには先に二がある。「王」や「看」には三が在り、・・・「吾」は五で始まるし、「只」という字には八が棲んでいる。
良寛はいつだって「一二三四五六七」を書いてばかりいたのです。

書人たちはむろんのこと、ゆっくり字を書いたことのあるひとなら、このことは誰もが気づくことです。
「天」という字を書くときには、一を書いて、もう一本書いて二という数字を書く、そこにまた人が加わって初めて「天」になる。
有名な「天上大風」や「南無天満大自在天神」という良寛の作品は、まさにそうやって生まれていったのです。

 

ともかくも良寛はそういう数を楽しんだ。つまり良寛の「大」や「天」には良寛の「ひぃ、ふぅ、みぃ、よ」という声がかかっている。

いわば合の手が入っているのです。

そこを聞かなければ良寛の詩歌もつまらない。

 

形もリズムであるということ、これははなはだ画期的な視点です。

かつて彫刻家のジャコメッティは「僕の彫刻は彫刻の外側の空気のリズムでできている」というような発言をしましたが、ひょっとして「書」もまた周囲の空気の流れをかきあつめて形を作っているのかもしれないのです。

 

ーーーーー

ひふみよいむな…一二三四五六七にこれほどの深い背景があるとは、おもしろいですよね。

 

風の便りにつくと答えよ…「外は良寛」より

「外は良寛」/松岡正剛著より
備忘録的に、文章を書きうつしています。
融通無碍でフラジャイルな寂しがりやの良寛さん。自由な風のような良寛さん。

良寛はいつも人恋しかったのではないかと思うのです。かなりの淋しがり屋にほかならないのです。だいたい一人ぼっちが好きなのは淋しがり屋の証拠です」と松岡正剛さんは書いていらっしゃいますが、そんな気がします。存在することは、本来孤独な事だと思います。

・・・

文化十三,四年(1817年)のとき、良寛はまた五合庵を出て、すぐ近所の乙子神社の草庵に入ります。
六十歳になっていた。いよいよ万葉趣味に傾倒しきっていた時期ですが、その一方かなり病気がちになります。

・・・
たしかに良寛の消息二百六十三通のうち、病気に関するものが実に三十四通もあることからしても、良寛が病がちで、また気分的に病気に弱かったことが推測されます。薬を乞うている手紙も多い。弱気も出て、ときに弱音も隠さない。

 

柴の戸のふゆの夕べの淋しさを
浮世の人にいかで語らむ

 

かくて総じて病がちであった良寛と、最微弱的に自然を捉え、人々に「貰い物」をしていた良寛とは無関係ではありません。

・・・
そこで晩年の良寛が「自力」の思想から「他力」の思想へ少し傾斜したのではないかという憶測が生まれます。僕は良寛の禅は禅宗ではないと思っていますから、晩年に真宗に近寄ったとしても不思議はない。

むしろ「他力」は良寛のもともとの感覚だったようにも思います。実際にも、次のような「梁塵秘抄」の調べを継ぐような歌もつくっているのです。

 

草の庵に寝てもさめても申すこと
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

こういう歌は浄土真宗っぽいといえば、まさにそういう香りがします。(略)けれども良寛はもとより宗派には縁がない。自力も他力も一緒くた、そこはそれやはり融通無礙そのものなのです。むしろ次の歌が良寛の宗教観を伝えていると思えます。

 

この僧の心を問はば大空の
風の便りにつくとこたえよ

 

ひらひらと大空の風の便りにまかせるのが良寛の日々です。
一人暮らしの良寛には、ちょうどよい時分に他人が施しをし、いいころあいに他人が歌を学んでいく。
そういう人に出会えればよし、出会えなくてもそれまた仕方のないことで、もはや良寛はそういう心地よい衰弱の中にあったわけです。(略)

自分がだんだん弱っていくことと、人々がものを持ってきてくれるとか、訪ねてくれる人がいるということが、そのまま生きた日々の柔らかい信仰になっていたということなのです。

子供たちと手毬をつきたくなるのもこの心境です。
子供たちのいいところは「生き死に」を口に出さないところです。まだそんな分別もない。良寛もやっとその分別を越えた。

良寛と子供は似たようなもの、そうすると、その子供たちと良寛とのあいだに、てんてん手毬の手元が動きます。こうなると自分の生も死も、その境目もそれほど重要になるべくはずもない。このよの執着はしょせん蚊帳の外のこと、良寛の日々の呼吸はしだいに自分の死生観の境界上をすうっと滑るようになっていけたのでないでしょうか。

 

九夏三伏の日
吐瀉(としゃ)して四支萎ゆ
夢の如く 復(また)幻の如く
三日飲食(おんじき)を断つ
故人 良薬を贈り
擣篩(とうし)色香美なり
起坐して恭しく一嘗すれば
通身 爽利を覚ゆ

 

この詩には病身の良寛がいます。
けれどもその良寛は、悪寒を吐いてしまって、ぼうっと何も出来ないでいる高熱に冒されたような状態の中に、被虐的ではないけれども独特の快感を見つめているようにも思われます。

それは良寛がいつでも死と生に対して隣接できているということでもあります。
(略)
ただひたすらの良寛独自の「ゆらぎをもった死生観」だったと思います。

・・・