lucciora’s diary 蛍日記

共感する魂を求めて

メランコリアーそして、憂鬱の逆転

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メランコリア。憂鬱。
今更ながら、シュタイナーの気質についての文章を読んでいて、以前から親しみのある一枚の版画を思い出す。

 

アルブレヒト・デューラーメランコリア
シュタイナーも、四体液説から、人間の気質について自論を展開していったようだが、この話はまた、ギリシャの宇宙を成す元素は何かという話とも、繋がっていくことだったなーと、改めて思い出す。

 

忘れたり、思い出したりの繰り返しだけれども、その時その時、自分の知りたいことにフォーカスが合っているから、以前とはまた違う視点で見ているのかもしれない。

 

学生時代、はじめはユングからの影響で、神話や神秘主義錬金術の本も結構読んだ。
人間の気質について四体液説も読んだけど、当時は4つでは単純すぎると思っていた。その点、占星術のほうがよりデリケートな解釈が出るので面白いと思っていた。


けれど、デューラーのこの版画は、ずっとイメージが残っていて、メランコリアという言葉も注視していた時間が長かったんだろう。
やはりデューラーの作品の力がある。


…私、まさに憂鬱質なんだな。と思う。
私のホロスコープの第1室には、憂鬱を示す土星が入ってるし、逆に自分を示す太陽は12室(最後の部屋)だし。
もちろん、4つの気質が混ざり合っているわけだけど。

 

けれど、今更、なのでデューラーの「メランコリア」の絵をよくよく見てみれば、そうだ、あの頃もよく考えたことを再認識できる。


このメランコリアの示す可能性とは、つまり自分が最も「重い」ものに、重力に、支配され束縛されている(という認識をもつ)者が、知性や自己認識や思索によって、高く、自由な、広がりの次元を識る可能性も示しているのだ。

 

アルブレヒト・デューラーメランコリアについて、若桑みどりさんの講義から、詳しく書き留めているブログがあって、面白かった。

http://blog.goo.ne.jp/masamasa_1961/e/81f32a463b176da027022eaa01a94b7d

 

 

恋と信仰

 

良寛と貞心尼の歌のやりとりを美しいと思う。


恋なのか、信仰心なのか。
ただ、ひたすら、どこまでもついていきたいと思う「絶対」な存在。


親鸞法然への信もまた。
なかなか出逢えるものでもないけれど、
人生の導師とは、そんな気持ちを喚起する存在なのだろう。

 

アッシジに行ったとき、聖フランチェスコ教会を訪ねた。
そして聖フランチェスコの埋葬されている墓を見た。
キャンドルが灯され、とてもあたたかく、明るく感じる空間だった。
未だに多くの人がやってきて祈りを捧げていた。


そのあと、聖キアラ教会を訪ねた。
聖キアラの着ていた白い服が展示されていた。
キアラの服が思ったより大きかったのと、
絵に描かれたフランチェスコには小柄な印象を持っていたので、
キアラの方がフランチェスコよりも大柄だったのかな・・
などと当時の2人の姿について勝手な空想をふくらませていた。

 

教会やアッシジの佇まいは、かつて彼らが生きていた気配を、数百年後の今も感じさせるような、ポテンシャルに満ちていた。
彼らが生きていたことは、その時の私にとって何かとても身近なことに感じられた。

 

良寛と貞心尼、フランチェスコとキアラ、彼らのあいだにある、特別な
信頼と尊敬、憧れ、慕情。

 

神や仏が介在することによって、永遠化され、昇華される人間の「思い」。
そういうものも、ある。


常軌を逸したもの。
恋と信仰は、どこか似ている。

もちろん違う。
けれど、どちらも、本当のものならば大きな痕跡を残すだろう。
…心に。

 

幸いなるかな
幸いなるかな

 

困難な事も多いけれど、いつか思いたい。
人生は美しい。 そんな風に。

 

 

 

 

うらをみせ おもてをみせて 散る紅葉

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「外は良寛」/松岡正剛著より
備忘録的に、文章を書きうつしてきました最終回です。

 ・・・・

ついに良寛の最晩年です。体もだんだん弱っている。しかし良寛は六十歳をこえて二人の女性と親交をむすびます。

 

貞心尼は小さなころからの文学少女です。詩歌ばかり読んだり詠んでいたとも、雪のように白い餅肌で、気位が高かったともいいます。

 

なぜ貞心尼がまだ見ぬ良寛に強い関心をもったのか、正確なことはわかりません。当時の良寛が相当に高名であったことは確かなことなので、まずもって風聞だけはたくさん聞いていたでしょう。

 

そしてその風聞には「歌と書がすばらしい風変わりな老僧だ」といったこと、「なかなか良寛さんを満足させる人がいない」といったこと、あるいは「とても理想が高い人だ」といったことなども交じっていたにちがいない。

ひょっとしたら勝気な貞心尼のこと、好奇心と自尊心をくすぐっていたかもしれない。「それなら私が」と思ったとも考えられる。

 

そこで貞心尼は、おそらくは二十五、六のころから良寛を敬慕して縁のありそうなところを訪れはじめます。そして良寛七十歳、貞心尼が三十歳のとき、二人は出会う。

 

これぞこの仏の道にあそびつつ
つくやつきせぬみのりなるらむ(貞心尼)

 

つきてみよひふみよいむなここのとを
とをとおさめてまたはじまるを(良寛

 

二人はたちまち親密になっていく。良寛が死んでしまうので二人の関係は五年しか続かなかったのですが、クライマックスは 出会って三年目のころでした。

 

いかにせむ学びの道も恋草の
しげりて今はふみ見るも憂し(貞心)

 

いかにせむ牛に汗すと思ひしも
恋の重荷を今はつみけり(良寛

 
われも人もうそもまこともへだてなく
照らしぬきける月のさやけき(貞心)

 

手にさはるものこそなけれのりのみち
それがさながらそれにありせば(良寛

 

衰弱というものは、他人からは見えないことですが、本人にとってはかなり大きな現象です。

良寛もいよいよ衰弱の度を加えます。そしてその一部始終を貞心尼はみつめます。良寛もこんな歌を歌っている。かなり本音が出ています。

 

老いらくを誰が始めけむ教へてよ
いざなひ行きて恨みましものを

 

貞心尼はいっさいの心底を傾けて、その衰弱をいとしんだ。われわれはその貞心尼の心情の吐露を「蓮(はちす)の露」の歌からしか推察できませんが、そこには予想以上のいとしみが あふれます。

 

ことしげきむぐらの庵にとぢられて
身をば心にまかせざりけり

 

きみなくば千たび百たび数ふとも
とをづつとををももとしらじを

 

すでに良寛は自分の死を覚悟していたふしがあります。しかしおもいのほかあっけなく最期がやってきてしまいます。臨終は 貞心尼がみとります。そこで貞心尼は必死に歌を詠む。涙がとまらなかったかもしれません。

 

生き死にのさかひはなれて住む身にも
さらぬ別れのあるぞかなしき

 

良寛も僅かに頷いて、最後の返しを詠みます。

 

うらをみせおもてをみせて散るもみじ

 

天保元年十二月二十六日のことです。良寛が七十四歳、貞心尼はまだ三十四歳です。
もう散ってしまうというのに、良寛はそこにいる。では、散ってしまうのかといえば、また次のもみじが裏を見せ、表を見せて空中にある。
それらのもみじははらはらと落ちゆくもみじですが、 そのもみじを歌っている良寛は、結局はいつまでももみじとともに空中に舞っているのです。

 

淡雪の中にたちたる三千大世界(みちあふち)
またその中にあわ雪ぞ降る

 

ただただ良寛の淡雪が降っていたのです。
ともかくも、気がつけば外は良寛ーー、 
良寛だらけです。
(読了)

・・・・・

良寛と貞心尼との歌のやり取りは、本当に美しい。

信仰を深めながら、人としての良寛にも、貞心尼はどれだけ教えられ、導かれることがあったのだろう。

 

アッシジの聖フランチェスコと聖キアラの関係にも近いものを感じる。

 

てにさはる ものこそなけれ のりのみち

それがさながら それにありせば

 

彼らにとって、彼女たちの存在は、弟子であり、やがては同志であり、また時に励ましであり安らぎであったのではないだろうか。

人は孤独だ。けれどそれゆえに人は出逢う。時には深い魂の地点で。

それが、この世界に生きていることの最も大きな意味のように思える。 

 

秋の夜ーバッハのマタイ受難曲…

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なんだか涼しい。昼間は暑かったのに、やはり秋だ。

 

今夜ふと思いだした。
バッハのマタイ受難曲の中の「主よ、この涙にかけて我を憐れみたまえ。」という曲を。
この曲がタルコフスキーの映画で流れたことを。
キリテ・カナワの声も良かったけど、映画のシーンとあいまって、
この曲に圧倒された。

 

人の心は結構深いと思うこともある。
意識していない部分まで含めばさらに深いだろう。
それでも人には、時として抱えきれないものがあるのは何故だろう。
やはり心はそんなに深くも広くもないからなのか。
それとも、自分でその広さや深さを解放しないからなのか。
押さえ込もうとしても、あふれてくるもの。
それなのに、それを分かち合える相手がいないのは苦痛だ。


分かち合える、というのも変かな。
受けとめてくれる、ということかな。

 

…告解の意味。
そんな時は、神のみが、自分をゆるし、
この苦しみの深さをみつめてくれるだろう、
そう思う時があるのかもしれない。

 

イタリアにいた時、教会で告解する人たちを何度か見た。
電話ボックス(この頃では見ないけれど…)くらいの、
もっと小さいかな…、木で出来た部屋に
神父様が座っていて、小さな窓から告解を聞いているのが、うっすらと見えた。
不思議な風景だった。神父様に告解することで、 その人の心は少しでも楽になるのだろうか。
今なら、多分、少しはなるだろう…と思う。もしかしたら、かなり楽になる場合もあるだろう。

 

人の抱えきれないものを、受け取ること。

宗教のひとつの役割りなのかもしれない。

 

そんなことを思った秋の夜。
神を信じられなくても、
もし本当に自分のすべてをわかってくれるような 親友なり家族なり恋人なりがいたら、 もちろんそれは、とても幸せなことだと思う。

ひふみよいむな…一二三四五六七…

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備忘録のように書き写してきた「外は良寛松岡正剛さん。


「ひふみよいむな」はどのへんから出てきたのか、おもしろい話がいっぱいありました。
もう少しで読み終わりそうです。

ーーーーー

良寛の書のなかでもとりわけすばらしいものとして、たった
3字の「一二三」と「いろは」をあげる書人は少なくありません。
もともと良寛には、しばしば「一、二、三、四・・・」という具体的な数字が出てきます。(漢詩にも、歌にも)

貞心尼と良寛が最初に歌を交わしたときも、良寛はこの
「一、二、三、四、五、六、七」を強調しています。
当時、長岡福島町の閻魔堂に一人で住んでいた貞心尼は
高徳の聞こえある良寛に会いたくて、ある日(三十歳ごろ)に意を決して歌を送ります。
良寛さんは手毬が好きだと聞いたので「これぞこのほとけの道に遊びつつ つくや尽きせぬみのりなるらむ」と書いた歌でした。


これに答えて七十歳に近い良寛が詠んだ歌が次の返しです。

つきてみよ ひふみよいむなやここのとを
とをとをさめてまた始まるを

 

「一二三四五六七八九十」と手毬をついてみて、また「一二三」と始めるのですという歌。


なにも言っていないといえばそうだし、何もかもを言い尽くしているといえばその通りの、まことに絶妙な歌です。
何が絶妙かといって、良寛は自分の言いたいメッセージを
“ものの太初”に収容したのです。

 

「文字上一味禅」・・・・・

「それは何か」と問われて「一二三四五」と返すというやりくちは、実は禅問答にあります。それもほかならぬ道元の体験した問答にある。
(入宋したばかりの道元が最初のころ阿育王山の年老いた典座(食事係)に難題をぶつけ、逆に問答の中で「文字というものがわかっておらんな」と言われ、しょげ返ってしまう。
そして、ふたたびさんざん悩んだ後に道元が老典座を訪ねていくと「文字を学ぶのは文字の原郷を知るためであり、修行を積むのは修行しつつもその当人に出会うためなのだ」というようなことを言う。)
それでもまだ腑に落ちない道元は、重ねて「つまるところ文字とは一体何なのですか?」ときいてしまう。

そこですかさず老典座の答えた言葉は、ただの一言「一二三四五!」。

 

・・・そして道元は知る。「然ればすなわち、従来看るところの文字はこれ、一二三四五なり。今日看るところの文字は、また六七八九十なり」と。老典座は一二三四五という文字を教えてくれた。いま自分は六七八九十という文字を見ている。この二つはちがうようでいて実のところ同じである。
そこには一挙の文字自体がある。

 

道元の「一二三四五」には、さらに“前”があります。

僧、智門に問う「蓮華いまだ水より出でざる時はいかん」
智門曰く「蓮華は一二三四五六七、天下の人を疑殺す」

僧が智門に「蓮の花は咲けば蓮の花だが、その花がまだ咲いていないときをどう見るのか」と問うたのに対して、智門が「蓮の花は蓮の花、一二三が四五六七とつづくのと同じことだ」と答えたという話です。「天下の人を疑殺す」は「そんなことを言っていると笑われるぞ」といった意味、ようするに「柳は緑、花くれない」ということです。

 

ともかく道元の「文字上一味禅」は良寛のお気に入りだった。
しかしそういうだけではすまされないものも、ここにはひそんでいる。それはいよいよ書そのものの問題に関係してきます。

 

ここに「一」と「十」という文字があります。一本棒を引くのと二本を交差させるもじです。
「大」を書くにはまず一があり、「天」を書くには先に二がある。「王」や「看」には三が在り、・・・「吾」は五で始まるし、「只」という字には八が棲んでいる。
良寛はいつだって「一二三四五六七」を書いてばかりいたのです。

書人たちはむろんのこと、ゆっくり字を書いたことのあるひとなら、このことは誰もが気づくことです。
「天」という字を書くときには、一を書いて、もう一本書いて二という数字を書く、そこにまた人が加わって初めて「天」になる。
有名な「天上大風」や「南無天満大自在天神」という良寛の作品は、まさにそうやって生まれていったのです。

 

ともかくも良寛はそういう数を楽しんだ。つまり良寛の「大」や「天」には良寛の「ひぃ、ふぅ、みぃ、よ」という声がかかっている。

いわば合の手が入っているのです。

そこを聞かなければ良寛の詩歌もつまらない。

 

形もリズムであるということ、これははなはだ画期的な視点です。

かつて彫刻家のジャコメッティは「僕の彫刻は彫刻の外側の空気のリズムでできている」というような発言をしましたが、ひょっとして「書」もまた周囲の空気の流れをかきあつめて形を作っているのかもしれないのです。

 

ーーーーー

ひふみよいむな…一二三四五六七にこれほどの深い背景があるとは、おもしろいですよね。

 

風の便りにつくと答えよ…「外は良寛」より

「外は良寛」/松岡正剛著より
備忘録的に、文章を書きうつしています。
融通無碍でフラジャイルな寂しがりやの良寛さん。自由な風のような良寛さん。

良寛はいつも人恋しかったのではないかと思うのです。かなりの淋しがり屋にほかならないのです。だいたい一人ぼっちが好きなのは淋しがり屋の証拠です」と松岡正剛さんは書いていらっしゃいますが、そんな気がします。存在することは、本来孤独な事だと思います。

・・・

文化十三,四年(1817年)のとき、良寛はまた五合庵を出て、すぐ近所の乙子神社の草庵に入ります。
六十歳になっていた。いよいよ万葉趣味に傾倒しきっていた時期ですが、その一方かなり病気がちになります。

・・・
たしかに良寛の消息二百六十三通のうち、病気に関するものが実に三十四通もあることからしても、良寛が病がちで、また気分的に病気に弱かったことが推測されます。薬を乞うている手紙も多い。弱気も出て、ときに弱音も隠さない。

 

柴の戸のふゆの夕べの淋しさを
浮世の人にいかで語らむ

 

かくて総じて病がちであった良寛と、最微弱的に自然を捉え、人々に「貰い物」をしていた良寛とは無関係ではありません。

・・・
そこで晩年の良寛が「自力」の思想から「他力」の思想へ少し傾斜したのではないかという憶測が生まれます。僕は良寛の禅は禅宗ではないと思っていますから、晩年に真宗に近寄ったとしても不思議はない。

むしろ「他力」は良寛のもともとの感覚だったようにも思います。実際にも、次のような「梁塵秘抄」の調べを継ぐような歌もつくっているのです。

 

草の庵に寝てもさめても申すこと
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

こういう歌は浄土真宗っぽいといえば、まさにそういう香りがします。(略)けれども良寛はもとより宗派には縁がない。自力も他力も一緒くた、そこはそれやはり融通無礙そのものなのです。むしろ次の歌が良寛の宗教観を伝えていると思えます。

 

この僧の心を問はば大空の
風の便りにつくとこたえよ

 

ひらひらと大空の風の便りにまかせるのが良寛の日々です。
一人暮らしの良寛には、ちょうどよい時分に他人が施しをし、いいころあいに他人が歌を学んでいく。
そういう人に出会えればよし、出会えなくてもそれまた仕方のないことで、もはや良寛はそういう心地よい衰弱の中にあったわけです。(略)

自分がだんだん弱っていくことと、人々がものを持ってきてくれるとか、訪ねてくれる人がいるということが、そのまま生きた日々の柔らかい信仰になっていたということなのです。

子供たちと手毬をつきたくなるのもこの心境です。
子供たちのいいところは「生き死に」を口に出さないところです。まだそんな分別もない。良寛もやっとその分別を越えた。

良寛と子供は似たようなもの、そうすると、その子供たちと良寛とのあいだに、てんてん手毬の手元が動きます。こうなると自分の生も死も、その境目もそれほど重要になるべくはずもない。このよの執着はしょせん蚊帳の外のこと、良寛の日々の呼吸はしだいに自分の死生観の境界上をすうっと滑るようになっていけたのでないでしょうか。

 

九夏三伏の日
吐瀉(としゃ)して四支萎ゆ
夢の如く 復(また)幻の如く
三日飲食(おんじき)を断つ
故人 良薬を贈り
擣篩(とうし)色香美なり
起坐して恭しく一嘗すれば
通身 爽利を覚ゆ

 

この詩には病身の良寛がいます。
けれどもその良寛は、悪寒を吐いてしまって、ぼうっと何も出来ないでいる高熱に冒されたような状態の中に、被虐的ではないけれども独特の快感を見つめているようにも思われます。

それは良寛がいつでも死と生に対して隣接できているということでもあります。
(略)
ただひたすらの良寛独自の「ゆらぎをもった死生観」だったと思います。

・・・

 

「連音」する「連字」ーー「外は良寛」より

「外は良寛松岡正剛著より/備忘録3

 

良寛の詩歌には「つつ」という言葉がたびたび出てきます。

霞立つ長き春日を子供らと 

手まりつきつつ今日も暮らしつ

 

手毬をつきつつ今日も暮らしているというのは、単に手毬をついて今日も暮らしているということとちがいます。

手毬をつくことが「つつ」で強調されている。手毬をついていることが暮らしに大きくかぶさっているわけです。しかもそこにはかなり積極的なずれもある。

ずれて反復するものがある。

 

紀の国の高ぬのおくの古寺に 

杉のしづくを聞きあかしつつ

(高ぬは高野山のこと)


山かげの草の庵はいとさむし 

柴をたきつつ夜をあかしつ


雪の夜に寝ざめてきけば雁かねも 

天つみ空をなづみつつ行く


浮雲のいづくを宿とさだめねば 

風のまにまに日を送りつつ

 

良寛の最期に接した貞心尼の歌にも「つつ」が出ます。
「これぞこのほとけの道にあそびつつ つくや尽きせぬみのりなるらむ」

という歌ですが、これは何と貞心尼が良寛に最初に贈った歌です。
(中略)この歌に「つつ」が読まれたということは、いかに適確に貞心尼が良寛の本来をとらえていたかという証左ではないかと、僕には思えます。それくらい「つつ」は良寛っぽい。

 

良寛はよく知られるように、晩年に向かうにしたがって万葉集を偏愛しています。
それまでの良寛はあきらかに古今にも新古今にも惹かれている。
良寛の語感や言葉のリズムはまさに万葉的です。が、もっといえば万葉以前の、良寛が読んだか読まないかはわかりませんが、「古事記」や「祝詞」、あるいは古代歌謡のようなものも感じます。僕はそこに日本の「つつ」のルーツをとらえます。

 

僕がふと思うのは、日本の神様の名前です。たとえばオオヤマトトビモモソヒメ、ヒコホホデミノミコト、ホトタタライスズヒメ、タツツヒメ、ホノニニギノミコトといった神名には同じ音の連続があります。(略)この同音連鎖の響きに何かの「言霊の力」をこめるやりかたがあらわれているように思うのです。・・・この連打感というのは、まさに手毬のようなずれあいつつ響きあう差分的リズムです。

 

こうした「つつ」は線のちょっとした震えとか手の微細なゆれとか、ものの置きかたの動きとか、そういうところにも見え隠れしています。

 

そもそも良寛が詩歌を読むことを選んだことが、音やリズムに関心を持っていた証拠です。・・・
そこには禅のもっている独自のリズム感を文芸にもちこみたいという意図もあったかもしれません。

 

・・・どこかアタマの隅っこでは、何か格別の語感のリズムを求めていた。僕はそれを、とくに「連音」に感じていたのだと想像したかったわけでした。これは良寛が好んだ「一二三」とか「いろは」といった序数趣味にも関係してきます。

ーーーーー

良寛という存在のやさしさ。

松岡正剛さんの捉え方は勿論面白いけれど、私はまた何か違う印象も受けた。

良寛さんの立居振舞のどこかに空性を感じる。

〜しつつ、〜〜。

という、何かひとつだけに集中した意識ではなく、様々なものの気配、それらすべてを同時に、感じているような。

ここという場所を、絶対としてとらえない、意識は色々な場所に飛び、風になり、音になり、手毬になり、空になり…そんな風なとらわれなさを私は感じた。

風のような人だなぁと。

 

 

外は良寛 / 松岡正剛著 備忘録

ひきつづき「外は良寛松岡正剛著より…

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世の中に交じらぬとにはあらねども 

一人遊びぞわれはまされる

 

良寛の一人遊びは手毬とおはじきです。良寛には、特に手毬はぴったりだったかもしれません。手毬ははぐれていくリズムを持っているからです。

 

はぐれるリズムをもつということは、そこにおぼつかない「うつろいやすさ」があるということですが、こうした時々刻々に微妙に変化するリズムこそ、良寛にはふさわしい。一人遊びではないけれど、存外に一人を感じさせる“かくれんぼ”も好きな良寛でした。こんな歌があります。

 

草枕夜ごとにかわるやどりにも

むすぶは同じふるさとの夢

 

この歌は「夜ごとに変わる」というところが大事で、その変わっていかざるをえないことがたいへん良寛的です。

しかし夜毎に草枕が変わるといっても種田山頭火や尾崎放哉がしたような徹底的な放浪というものとは違います。

良寛は徹底ではないのです。

もっともっとうつろっている。良寛はむしろテーマがない人です。

 

「白扇賛」という詩があります。好きな詩のひとつです。

 

団扇画かざる意高きかな
わずかに丹青を着くれば 

二に落ち来たる
無一物の時 全体現わる
華あり月あり 楼台あり

 

団扇(うちわ)になにかを画こうとするとき、何かをちょっとでも画いてしまえば準じたものになってしまう。

むしろなにも画かないときのほうが最初のすべてのイメージが横溢しているものだ、そら華がでた、ほら月が出た、楼閣が見えてくる―そういう詩です。

ここで「無一物のとき、全体現わる。」が良寛です。

 

(中略)自分が放下して、なにもないタブラ・ラサ(白紙)のような状態のときにさあっと全体があらわれるということです。

そして良寛はこの「無一物で全体を現す」ということがめっぽう上手でした。だからこそ縁起が保たれる。

だんだん捨てて、だんだん取るのではない。

何も無いから次々に線が生まれ、その線から離れられるのです。

ーーーーー

天上大風の吹き荒れる中でも、ここにもそこにも自分がいて、

この世を見て聞いて漂っているけれど 、
そのどこにも実体は「存在しない」のかもしれない・・・

 

手にさはるものこそなけれのりのみち
 それがさながらそれにありせば

 

生まれてきて、いろいろなことをして老いて やがて去っていく 。

何もないところからやってきて、何もないところへ…
虚空に台風が渦巻いてる。

外は良寛/松岡正剛著よりーーまたその中にあわ雪ぞ降る…

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松岡正剛さんの「外は良寛」を読んだ時のメモ。2007年の日記より。

 

良寛さんの歌「うらをみせおもてをみせて散るもみじ」は生と死の表裏一体を思わせて、かつやさしく大好きな歌である。 

あらためて良寛さんの書を見ていると、詩人の吉増剛造さんの文字を思い出した。一文字一文字から「音」の聞こえてきそうな文字、手毬をつきながら数をかぞえる良寛の声や息遣いを感じさせるような文字である・・。
本を読んでいると良寛さんの「淡雪」のようなイメージが浮かんでくる。心にかかった文章をメモしていきたい。

………

 

淡雪の中にたちたる三千大千世界 

またその中にあわ雪ぞ降る

 

良寛の書に一番ふさわしい言葉は「フラジャイル」(fragile)
という言葉だと思います。フラジャイルとかフラジリティという言葉はふつうは「弱々しい」といった意味です。(中略)

しかし僕が考えているフラジャイルという感覚はもっと積極的なもので、もちろん弱々しいんだけれど、その弱々しさが成立しているところが極めて強靭である、そういうイメージです。シャープペンシルの芯などはまさにフラジャイルなもののわかりやすい例です。

フラジャイルは「もろさ」や「おぼつかなさ」などとも近隣の概念で、従って主張とか説得とか論理というものから遠く離れています。そのくせそこにそうしてあるということが精一杯である、ということにおいては実に弱々しくないのです。一見弱々しいように見えるのに、そのことがそこだけで成立しているために、たいそう強いものになっている、そんな感覚です。(中略)

残念ながらこうしたフラジャイルな感覚というものはこれまで思想的に無視されてきました。つねに強いもの、はっきりしたものが伝達力の高いものだと思われてきた。(中略)

仮に「あはれ」とか「弱さ」というものが話題になる場合でも、強さの否定形として語られてきたに過ぎません。
そうではなくて、フラジャイルなものは当の最初から「弱さが強さ」なのです。これは従来の思想とはかなり異なる思想です。最初から弱さをもって強さとしている。このことはおいおいあきらかにしていきますが、良寛の書だけではなくて、良寛の人生そのものが貫いていたものだったように思われます。
松岡正剛「外は良寛」より)
・・・

松岡正剛さんの良寛への解釈というか、切り口というか、とても共感した。

弱さをもって強さとする…

この日記からすでに9年の時が流れて…、父も母ももういない。自分の周りの環境も変わり続ける。

今自分も、裏を見せ、表を見せながら、舞っている。

淡雪ーー。美しいことばだなぁ。

この儚さ、宇宙も命も…

…でも降り続いている。

 

非時と廃墟そして鏡…あの頃の記憶

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廃墟に入って写真を撮ることにハマっていた時がある。
誰もいない、時間の止まった工場の中や、建物の中を探索するのは、
特殊な経験だった。
初めて乗る電車、全く知らない駅で降り、カメラを背負ってフェンスを越えて…
1人で行くのもちょっと危険な気がして、大抵は友人と入ったけれど…
夏でもヒンヤリと涼しい、埃っぽく湿った空気の匂い、
数年昔の時間のまま止まったカレンダー、雨の後の室内の水たまりの光、
それらの感覚は今も辿ることができる。


それとつながる記憶なのかはわからないけれど、
夕暮れ時、電車の中から見える家々の灯りと人影に、
形容しがたい気持ちを抱いていた時期があった。
無数の家々に、明るさや色合いも異なる灯りが灯っている。
電車からはかなりの距離があるのに、時としてとてもよく見えるような気がした。
部屋の中の人の声までも聞こえるような。(幻覚…)
でも、この家々の人たちに私が会うことは無いだろう。

そして、自分の家へと近づく頃、道すがら夕食の支度をしている音が聞こえ、
様々な匂いが空気の中に溶け込んでいる。
通りすがり、こぼれてくる部屋の灯り、話し声、
お皿のカチャリとぶつかる音…
けれど、そこでも自分は彼らと時を共有してはいない。

あの頃は、家に帰れば母がいた。私のために夕食も用意してくれていて。
あの、灯り、声、匂い。
あれは、今、どこかにあるのだろうか。(?)

「非時と廃墟そして鏡」とはジャズ評論家の間章(あいだあきら)さんの本のタイトル。
当時、間さんの文章にすっかり痺れていた。
非時と廃墟…

なんだろう、今、ここに属していない、場所…
今でもそれはある。無いものとして、ある。

 

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人生のほんとう/池田晶子著 備忘録4

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ひきつづき…『人生のほんとう』より

 語りのレベル p172

私はさきほど、「善く生きる」といいましたが、同時に「どうでもいい」と言っています。
これは矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、矛盾していません。
あるいは矛盾しているといってもいいです。実際、矛盾しているんだから。笑
池田の言うことはどうも矛盾しているのではないか。
いつも何か違うことを言っているように聞こえるかもしれません、ひょっとしたら。
けれども、物語を語ることは、どのレベルでものを言うかということです。
つまり存在イコール自己、この「イコール」さえ理解できていれば、
私の言うことが矛盾していないことが分かります。
何を言ってもいいんだ、どのレベルで語っているかの違いに過ぎないんだということが
わかるはずです。

ちょっと説明的に言うと、人間はいろいろなレベルを一人の個人が持っています。
つまり個人の某としての存在、あるいは社会的存在としての自分、
それぞれのレベルがあります。
その逆の側に、心としての、魂としての自分というレベルがあります。
魂のレベルは、当然宇宙的なものに触れていきます。
宇宙的存在としての自分というレベルがあります。
で、存在の究極というところにやがて行きます。

存在の究極というのは、究極的混沌であることを裏返しにすると、
空ですから、空の側から言えば、これはもう何でも語れるということになります。
混沌の側から語れば、どうでもいいという言葉が出てきますし、
秩序の側から語れば、善く生きるという言葉が出てきます。

混沌と秩序、これは同じことの裏返しです。
あるいは論理に沿って語るか、非論理でもって語るか、
現象の側で語るか、論理の側で語るかという言い方もできます。
どのレベルで語るか。

「ある」とすることによって語るか「ない」とすることによって語るかによっても違います。
どうとでも語れるんです。

そこまで行ってしまうと、言葉は非常に自在になります。
何を言ってもおかしくないというようなことになる。
どのレベルで語っても、語りは語りなんです。
ヴィトゲンシュタインという哲学者の言葉で、非常にうまい言い方だと思って感心しているのが
「世界とは言語が見る夢である」。
語られる世界、語られて、その語られ方によってある世界です。
物語と言うことができるでしょう。(中略)

神話などはその辺の語り方がやっぱりうまくて、「リグ・ヴェーダ」だったか、
たぶんインドの神話だと思いますが、
「神が神の夢の中へ溶けていく」、そういう言い方がどこかにあったと思います。
そういうことですね、宇宙とはそのようなものです。

「神が自分自身の夢の中へ溶けていく」だったかな。
これは本当に遥かな気持ちになりますね。

私は今までのところ、「ロゴス」つまり論理の方法によって言葉を語っています。
これに対して「ミュトス」つまり物語や神話という言葉が人類にはあります。
これは対極のようでいて、じつは互いに裏返しです。
ミュトスの言葉は、ロゴスでは語れない言葉を語れます。
けれども、究極的なことは絶対に語れないという側から見れば、
ロゴスもまたミュトスの一つと見えてきます。

つまり「ロゴス」という言葉も、哲学者たちが言語で見た夢なんです。
「ロゴス」は哲学者たちの夢物語です。
しかし、かつての哲学者たちは、今はもうみんな死んでいる人たちです。
つまり死者の言葉をわれわれは読んでいるわけです。
哲学書に限らず、文学書を読むのもそうですが、われわれは死者の言葉を
読んでいるのです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・

死者の言葉、であっても、
発する側と受け取る側の時間が大きくズレた出会いであっても、


受け取る側にとってそれが、ほんものの「出会い」であれば
それは貴重だ。今は存在しない星の光を、私たちが今日の夜空に見ることに似ている。
言葉は何千年も(何万年も…?)生き続ける。

時がながれて、ある言葉が、はじめに言われた時の意味とは、
異なる意味を持ち始めることもあるのではないだろうか。

自分の言った言葉の意味が、後になってより深い意味で

だれかに実感されることは時としてある。
ひとつのことですら、玉ねぎの皮のように、
何層もの連なりの中で、語られている。

 

 

人生のほんとう/池田晶子著 備忘録 3

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引き続き・・・人生のほんとう/池田晶子著 より

p150

ヘラクレイトスの断片を、もう一つ紹介しておきます。
この人は魂についての言葉をずいぶん残していて、それは非常にうまいなと思います。
ピュタゴラスよりも、私は面白く感じます。

「生きているあいだも死んだ後も、目覚めている時も眠っている時も、
また若かろうと老いていようと、同じひとつのものがわれわれのうちに宿っている。
なぜならこのものが転じて彼のものとなり、
逆に彼のものが転じてそれとなるからである。」

これなんか「胡蝶の夢」と同じような論理性をもっていますね。
「自分」のひっくり返り方です。魂にとっては生きても死んでも同じだよ、と。

★★★

彼岸と此岸。
こちら側から、向こう側へ。
向こう側から、こちら側へ。
流れている。
いつかその流れから、ふっと抜けでることはあるのだろうか…

★★★

 

・・・この哲学では神はまず「流れる」実体として、とらえられている。


この流れるものとしての神は、いたるところを貫いて流れる。
それはまた、「創造的」な産出を行う実体でもある。

 

創造は流れの休止点で起こる。
つまり月も星も風も、木々も動物もすべてが、
休止という仮の形態をとった、別種の流れに他ならないのである。

 

世界に現象しているものはすべて、神である偉大な「流れる」実体の、
休止の表現に他ならないからである。

 

森のバロック/中沢新一

★★★★

 

 

 

 

 

人生のほんとう/池田晶子著 備忘録2

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ひきつづき・・・
『人生のほんとう』/池田晶子より

第5章「魂」より p144

 

私は輪廻転生の思想というのは
人間が自己の何であるかを考えていった場合に
必ず現れてくる根強い一つの型だと思っています。
自分の何であるか、この魂はなぜこうなのかということ、
その歴史を垂直方向に求めてゆくと
必ずこの表象が現れてくる。

表象というのは、必ずしも空想ではありません。
なぜ自分は自分なのかということを水平方向に、
親から生まれた、さらにそれを遡って家系とか祖先とか、
この世の時間軸を遡る方向ではなく、
今現在においてこの魂の何であるかを問うと、
現在というのはその意味で無時間ですから、
自分をどこまでも垂直に掘ることになる。
そうすると必ず超時間的な次元というものに出てしまう。
突き抜けちゃうんですね。

この自分は何なのかと問うていった場合に、さっき話したように、
あらゆるものが、流転する魂としてのこの自分であったと気がつく。
無限のものどもが生々流転している、
そういう場所に降りていっちゃうわけです。

だから、必ずしもこれは空想ということではないんです。
水平方向の時間軸でこの話を聞いてしまうと、空想に聞こえるんです。
私はかつて誰かだった、どこで何をしていたというふうに。
この語りは並行方向で聞くと間違える。
垂直方向に聞くと、ああ、この語りはあのことだなと、
永遠性の表象だなと理解できるんです。

だから輪廻転生というのは、
超時間的な直感を時間軸に投影したというべきものです。
当然これは、嘘か本当かの真偽は問えなくなります。
そういう物語の起こし方であって、
文字通り物語なわけですから。

 

 

★★★


物語としてしか語りえないことを語る言葉ーーミュトス・・・


そして「垂直方向」、この言葉からは、
以前日記にも備忘録を残した、
池田さんの、対談本を思い出す。

「君自身に還れ―知と信を巡る対話」

大峯 顕 × 池田晶子 

この本でも垂直方向の精神について、興味深い対談がされていた。

 

垂直的精神。垂直の方向の感受性。

例えば信仰において、社会的な身分、貧富の差、教養、努力、・・・
そうしたものは殆ど意味がない。
そう、魂は心理学でもあるが宗教とも関わることだろう。

例えば、シモーヌ・ヴェイユが神に魂を捉えられた空間、

例えば、最も苦しんでいるものや、蔑まれているものが、

マリアや聖人とであう空間、

悪人と呼ばれる人たちが、
弥陀の誓願に不思議に助けられる空間、

そういう空間は、きっと垂直方向に啓いた場所なのではないかと思う。

 

そこでは自分という魂が
ほんとうは何者なのか、
それだけによって垂直方向の様々な
呼びかけや声に気づくことのできる場所なのではないかと、
半ば夢現つに思う。

 

 

人生のほんとう/池田晶子著 備忘録 1

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人生の本当/池田晶子 著より

ヘラクレイトスの断片p136

ヘラクレイトスという私の非常に好きな哲学者、というより哲人なんですね、この人は面白い断片を残しています。
「不死なるものが死すべきものであり、死すべきものが不死なるものである。
かのものの死をこのものが生き、かのものの生をこのものが死している」。
これは非常に正確なアニミズム的世界観ですね。何が生きて何が死んでいるのかは
よく考えると言えなくなる。

もう一つ、同じヘラクレイトスで、
「魂の際限に、君はどこまで行っても行き着くことはできないだろう。
それほど深いロゴスを魂はもっている」というのもあります。
これは自己の底抜けイコール存在そのもの、存在の底抜けと同じことです。
この場合の「魂」は、つまり「存在」になっちゃってますね。
自分自身が何であるかということを追いかけていくと、こうなってしまう。

・・・・・・・・・・・・・・
ヘラクレイトスの言葉、美しい。
このロゴスっていうのは、
今日的なロジックとはかけ離れたものなのだろうな・・・

池田晶子さんの、2004~2005年の西武池袋コミュニティ・カレッジでの講義をまとめた本。
第五章 「魂」。
わたしにとって、とくに興味深い言葉がこの章にたくさん散りばめられている。
その始まりに、池田さんの話していることがおもしろかった。

「魂」について話すことは、池田さんにとって難しいと感じることで、
それについて話そうとすると、絶句してしまうというようなことで・・・。
なぜならそれは哲学というものの、向こう側に広がっていることがら、
たぶん本来心理学があつかう領域であるから。
池田さん本人は、これがこうだと言い切るのが好きで、だから
心理学という、曖昧で非常に多義的、これがこれだというふうに言いきれない事柄が、
そして普遍化しづらいということ自体が、ちょっとかなわないなと感じていたそうだ。
しかし年齢とともに、人生の味わい、としか言えないようなものが
非常に面白くなってきて、
同時に魂のことをかんがえたくなってきた、という。

池田さんのような思想家の方に自分を比べるべくもないが、
思考のレベルは問わないとして、傾向としてのみ
照らしあわせて考えてみると、私自身は哲学はどうも苦手で、
逆に心理学(といってもユング、アサジョーリ、ピエロ・フェルッチ、ミンデルあたり)
や、どこかに余白を残した表現、思想ーーそうしたものを好んで読んできたことに
思い当たる。
余白がないと、読んでいて時に息苦しい。
逆に、意味が多義的なほど、自分のなかの様々な層で対応する部分を感じ、自分としては
深い体験をできる場合もある。


多義的な提示、言葉やイメージを、心の中にほおりこんだ時に
ひろがってくる余韻とか、波紋の広がりのようなものを、眺めているのが好きだ。
答えを出さずに、つらつらと思いを辿る愉しみ。
焦点を一つにあわさずに、ちょっとずらしたところを見ているのも面白い。
やがて、まったく別の時に、ポーンと答のようなものを、受け取るときがある。
それを楽しみにしている。
無論、その答とは、自分にしか当てはまらないものかもしれない。
そうした自分の漠然としたものへの好みを、改めて認識している。

池田さんも引用されていたけれど、「月を指す指は月ではない」。

結局のところ、月はむしろ自分の心の中にしかないのではないかと
どこかで思う。
しかし、その心の果てもまた、自分から底ぬけていて、
月は「向こう側」へと映っているのではないだろうか。

とはいえ、もし月について誰かと話したくなるなら・・・
やはり人は月を指差すことが必要かもしれない。
自分の言葉とともに。

「砂漠はいつかお前にお返しをしてくれるだろう」

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「心」とは何かということに、つねに興味があったので、宗教・心理学の本をいろいろと読みかじってきた。

サイコシンセシスは、イタリアのロベルト・アサジョーリが提唱したもので、
友人の言葉を借りれば

ユングが地下の帝王だとしたら、アサジョーリはベランダ的だね。わりと楽しい気分になれる」と勧めてくれたことがあった。
そんなことで、日本でも何人かのプロセスワーカーのワークショップに参加したこともあった。
アーノルドミンデルなどの「プロセス志向心理学」なども読む分には面白かった。

ピエロフェルッチは「内なる可能性」という本を読んで結構良いなと思ったいたところ、イタリアで講演会をやっているのを偶然情報誌で見つけて参加した。
その時彼の話した「小話」が面白かった。
ほぼ忘れかけていたのだけど、思い立ってノートを探していたら見つかったので
記しておきたい。

・・・・・・・・・・・・・

昔、インドの砂漠に近い町で商いをしている若者がいた。
ある時、砂漠の向こう側にある町との取引があった。
その町に行くには二つの道があって、一つは砂漠を突っ切って向こうの街へと抜ける方法。
それは急いでいるときに通ることのある道だが、体力をうばう日差しと熱風が襲ってくる危険な道だった。
もう一つの道は、山際を通っていく道であった。だが、その道はあまりにも時間がかかりすぎた。
そこで若者は、彼の仕事の成功のために、砂漠を突っ切る道を選んだ。

暑さの中、砂漠を進み続けて道半ばに差し掛かった時、砂漠の向こうのほうに
一人の老人が倒れているのを彼は見つけた。

近づいていくと、その老人は「あ、おまえだったのか?」と驚いたように言った。
若者は、その老人のことを知らなかったので、なぜこの老人が自分を知っているのか不思議に思った。
老人は砂漠で水をこぼしてしまい、のどの渇きで今にも死にそうに弱っていた。
彼はしばらく悩んでいた。この老人に今水を与えてしまったら、自分は旅を続けることはできない。
仕事の取引も失うことになる。
しかし結局、彼はしばらく考えた末に老人に水を飲ませてやった。
そのとき老人は言った。
「砂漠はいつかお前にお返しをしてくれるだろう」

大きな取引を逃した若者はそのまま、大した成功もなく、やがて結婚し平凡だが平和な人生を送った。
彼はその後どんな取引の時も、決して砂漠を横切らず、山際の道を進むことを選んだ。

ある時、山際を歩き商いの旅を続けているとき、彼の息子が重い病に倒れたことを人づてに聞いた。
このまま山際の道を歩いて帰ったら、間に合わないかもしれない。
彼は決心してあの時以来、決して通ることのなかった砂漠の道を横切り始めた。

彼はもう若くはなかった。そして不運なことに彼は持ってきた水をこぼしてしまった。
力尽きて砂漠に倒れた彼の目に、向こうの方からやってくる人影が見えた。
ているものや、持ち物をみて彼は驚いた。なんとそれは若い日の彼自身だったのだ。
若者がやってきて、彼を見つける。
彼は知っていた。彼は若者に「お前だったのか」と言い、そして伝えることを。
「砂漠はいつかお前にお返しをしてくれるだろう」と。

・・・・・・・・・・・・・


この話を聞いたとき、鳥肌が立つ思いがした。
ピエロ・フェルッチの話の仕方もうまかったのかもしれないが、何か人生というものの不可思議な仕組みを、教えられた気がした。
描いた夢みたいなものを、どこかで捨てなくてはいけない瞬間がある。
けれど捨てたものは、別の場所で別の何かを得るきっかけになっていることがよくある。

ピエロ・フェルッチは講演を次のように締めくくった。

「人は誰でも自分の中に
芽を出すべき種子をもっている。
ただ大切なのは、それに注意力をむけることだ。
すぐにはっきりとわからないサインでも、心の中で
何度も思い出してみること。
それらは、夢や共時性の中にあらわれてくる。」

 

終わったと思ったことも、終わっていない場合がある。

何かべつのできごとの契機であったり、縁起を含んでいるのだ。