”一度生まれた者は、もう逃げも隠れも出来ない”
日本ではあまり知られていないかもしれない。イタリアのマルコ・ジョルダーナ監督の『13歳の夏に僕は生まれた』。
同監督の2005年の作品『輝ける青春』では、ある家族を主軸にし、1960年代から現在までの時間の軌跡を辿りながら、イタリアの美しい風景や時代の描写とともに、若さの、人生そのものの輝きが存分に描かれていた。
魅力的な様々な登場人物たちそれぞれの苦悩と喜び、出逢いや別れ、人生のテーマなど、6時間という長編にもかかわらず、私にとっては全く飽きる部分の無い充実した内容だった。
その監督の作品ということで、ずっと観たいと思っていたので、今回もそのイメージを初めは期待しながら観ていた。
しかし、この作品は、それとはまったく違うタイプの印象を残した。
この映画には答えは無いし、映画を見た後の心地よい充実感?のようなものもない。 しかし非常に考えさせられる、やはり良い映画だと思った。
移民の問題。島国日本では、ヨーロッパの国々に比べれば、まだ移民はそれほど大きな問題にはなっていない。
しかし、この映画で描かれるイタリアにしても、今回のイギリスのEU離脱にしても、大量にやってくる移民についてどう考えるか、というのは、国民一人一人にとって大きなテーマになってきているようだ。
(ストーリーについてネタバレあります)
13歳という多感な時期を生きる、都会の少年サンドロ。
感受性は豊かだけれど、恵まれすぎているがために、アグレッシブな部分がまったくない。そんなところを、教師や父親は揶揄する。
ところが、夏のバカンスに父とその友人と3人で出かけたクルージングの途中、サンドロは夜の海に一人落ちてしまい、いくら助けを求めても、船は遠ざかるばかりだった。
死を覚悟するような恐怖を味わったあと、サンドロは不法移民の乗る壊れかけた船に助け上げられる。
しかし、イタリア人だということがわかれば、身代金を要求される危険もある。
サンドロはとっさに、かつて移民が繰り返していた言葉を口にし、移民のふりをする。
前作『輝ける青春」の刺激的な会話にあふれた、テンポの良いきらめくような展開に比べると、
今回は移民たちの船での言葉少ないやりとり、父の経営する工場、学校、ブレーシャの街の地味な風景、サンドロの家と家族、移民の収容場所と限られた風景が映し出される。しかし、だからこそ、テーマが際立ってくるようだ。
移民の少年ラドゥが、船に引き上げられたばかりで寒さに震えているサンドロに、自分のセーターを与えるシーンがある。
イタリア語で はmettersi nei panni degli altri という言い方がある。
人の立場に立って考えてみる、という意味だが、直訳すれば、他人の来ている服を着てみる、ということになる。
ー自分が海に落ち死にそうな思いをして、移民たちと船に乗り、その服を着て自分も移民のふりをして、彼らと一緒に海の上を何日も漂うー
そのような体験がなければ、本当に移民の立場に寄り添うことなど、いわゆる先進国に住む私たちにとってはできないだろう。
完全に信じたわけでは無いが、過酷極まりない船の上で、サンドロと、ラドゥ、その妹アリーナとの交流が始まる。
やがて船がイタリアの港に入港し、サンドロは両親との再会を果たす。
だが、海に落ちる前のサンドロは一度死んでしまったのだ。もう同じ自分ではいられなかった。
新しく生まれたサンドロは、イタリアに入国したラドゥとアリーナに、自分も何かしたやりたいと強く思うようになる。
しかし、それは大変な葛藤と苦悩を生み出すことになる。
年齢制限のために、祖国に強制送還されそうなラドゥは、結果的にはサンドロやその両親の好意を裏切るようなことをしてしまう。友情の証を捨てたものの、やはり、サンドロの心には何かが引っかかっていた。
彼らは自分を裏切ったかもしれない、けれど、そうしなければ、彼らだって生きていけなかったのだ。それを、責めることができるのだろうか?
最後にアリーナが娼婦として働き始めた建物の内部の暗く重たい空気、彼女を探すサンドロの不安に満ちた表情が、この問題の深さと難しさをあらわしているように思えた。
一体、何ができるのか?どこまで関わっていけるのか?
最後のシーン、バスがロータリーを何度か行き過ぎるシーン。サンドロとアリーナがなすすべもなく座っている。
互いにかける言葉が思いつかないのだろう。
2人を映すカメラのアングルもほとんど動かず、まるで備え付けの防犯カメラのようにリアルに感じた。
すぐに答えの出ない問いかけだからこそ、観たものの 心に長い時間とどまるような映画だと思った。