読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

lucciora’s diary

「詩人が詩を書くのは、自分と同じ言葉を話す人間を見つけるためだ。」ジャン・コクトー ーー言葉はどこまで「心」に近づけるのだろう。共感する魂を求めて、言葉の海へと漕ぎ出してみよう。 自分の心に響いてきた本、映画、表現など、備忘録的に書き留めています。どうぞよろしく。

人生のほんとう/池田晶子著 備忘録4

f:id:lucciora:20160826215006j:image

 ひきつづき…人生のほんとうより

 語りのレベル p172

 

私はさきほど、「善く生きる」といいましたが、同時に「どうでもいい」と言っています。
これは矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、矛盾していません。
あるいは矛盾しているといってもいいです。実際、矛盾しているんだから。笑
池田の言うことはどうも矛盾しているのではないか。
いつも何か違うことを言っているように聞こえるかもしれません、ひょっとしたら。
けれども、物語を語ることは、どのレベルでものを言うかということです。
つまり存在イコール自己、この「イコール」さえ理解できていれば、
私の言うことが矛盾していないことが分かります。
何を言ってもいいんだ、どのレベルで語っているかの違いに過ぎないんだということが
わかるはずです。

ちょっと説明的に言うと、人間はいろいろなレベルを一人の個人が持っています。
つまり個人の某としての存在、あるいは社会的存在としての自分、
それぞれのレベルがあります。
その逆の側に、心としての、魂としての自分というレベルがあります。
魂のレベルは、当然宇宙的なものに触れていきます。
宇宙的存在としての自分というレベルがあります。
で、存在の究極というところにやがて行きます。

存在の究極というのは、究極的混沌であることを裏返しにすると、
空ですから、空の側から言えば、これはもう何でも語れるということになります。
混沌の側から語れば、どうでもいいという言葉が出てきますし、
秩序の側から語れば、善く生きるという言葉が出てきます。

混沌と秩序、これは同じことの裏返しです。
あるいは論理に沿って語るか、非論理でもって語るか、
現象の側で語るか、論理の側で語るかという言い方もできます。
どのレベルで語るか。

「ある」とすることによって語るか「ない」とすることによって語るかによっても違います。
どうとでも語れるんです。

そこまで行ってしまうと、言葉は非常に自在になります。
何を言ってもおかしくないというようなことになる。
どのレベルで語っても、語りは語りなんです。
ヴィトゲンシュタインという哲学者の言葉で、非常にうまい言い方だと思って感心しているのが
「世界とは言語が見る夢である」。
語られる世界、語られて、その語られ方によってある世界です。
物語と言うことができるでしょう。(中略)

神話などはその辺の語り方がやっぱりうまくて、「リグ・ヴェーダ」だったか、
たぶんインドの神話だと思いますが、
「神が神の夢の中へ溶けていく」、そういう言い方がどこかにあったと思います。
そういうことですね、宇宙とはそのようなものです。

「神が自分自身の夢の中へ溶けていく」だったかな。
これは本当に遥かな気持ちになりますね。

私は今までのところ、「ロゴス」つまり論理の方法によって言葉を語っています。
これに対して「ミュトス」つまり物語や神話という言葉が人類にはあります。
これは対極のようでいて、じつは互いに裏返しです。
ミュトスの言葉は、ロゴスでは語れない言葉を語れます。
けれども、究極的なことは絶対に語れないという側から見れば、
ロゴスもまたミュトスの一つと見えてきます。

つまり「ロゴス」という言葉も、哲学者たちが言語で見た夢なんです。
「ロゴス」は哲学者たちの夢物語です。
しかし、かつての哲学者たちは、今はもうみんな死んでいる人たちです。
つまり死者の言葉をわれわれは読んでいるわけです。
哲学書に限らず、文学書を読むのもそうですが、われわれは死者の言葉を
読んでいるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・

死者の言葉、であっても、
発する側と受け取る側の時間が大きくズレた出会いであっても、
受け取る側にとってそれが、ほんものの「出会い」であれば
それは貴重だ。
言葉は何千年も(何万年も…?)生き続ける。

時がながれて、ある言葉が、はじめに言われた時の意味とは、
異なる意味を持ち始めることもあるのではないだろうか。

自分の言った言葉の意味が、後になってより深い意味で
実感されることは時としてある。
ひとつのことですら、玉ねぎの皮のように、
何層もの連なりの中で、語られている。

 

人生のほんとう/池田晶子著 備忘録 3

 f:id:lucciora:20160824213022j:image

 

引き続き・・・人生のほんとう/池田晶子著 より

p150

ヘラクレイトスの断片を、もう一つ紹介しておきます。
この人は魂についての言葉をずいぶん残していて、それは非常にうまいなと思います。
ピュタゴラスよりも、私は面白く感じます。

「生きているあいだも死んだ後も、目覚めている時も眠っている時も、
また若かろうと老いていようと、同じひとつのものがわれわれのうちに宿っている。
なぜならこのものが転じて彼のものとなり、
逆に彼のものが転じてそれとなるからである。」

これなんか「胡蝶の夢」と同じような論理性をもっていますね。
「自分」のひっくり返り方です。魂にとっては生きても死んでも同じだよ、と。

★★★

彼岸と此岸。
こちら側から、向こう側へ。
向こう側から、こちら側へ。
流れている。
いつかその流れから、ふっと抜けでることはあるのだろうか…

★★★

 

・・・この哲学では神はまず「流れる」実体として、とらえられている。


この流れるものとしての神は、いたるところを貫いて流れる。
それはまた、「創造的」な産出を行う実体でもある。

 

創造は流れの休止点で起こる。
つまり月も星も風も、木々も動物もすべてが、
休止という仮の形態をとった、別種の流れに他ならないのである。

 

世界に現象しているものはすべて、神である偉大な「流れる」実体の、
休止の表現に他ならないからである。

 

森のバロック/中沢新一

★★★★

 

 

 

 

 

人生のほんとう/池田晶子著 備忘録2

f:id:lucciora:20160815143315j:image

 

ひきつづき・・・
人生のほんとう/池田晶子
第5章「魂」より p144

 

私は輪廻転生の思想というのは
人間が自己の何であるかを考えていった場合に
必ず現れてくる根強い一つの型だと思っています。
自分の何であるか、この魂はなぜこうなのかということ、
その歴史を垂直方向に求めてゆくと
必ずこの表象が現れてくる。

表象というのは、必ずしも空想ではありません。
なぜ自分は自分なのかということを水平方向に、
親から生まれた、さらにそれを遡って家系とか祖先とか、
この世の時間軸を遡る方向ではなく、
今現在においてこの魂の何であるかを問うと、
現在というのはその意味で無時間ですから、
自分をどこまでも垂直に掘ることになる。
そうすると必ず超時間的な次元というものに出てしまう。
突き抜けちゃうんですね。

この自分は何なのかと問うていった場合に、さっき話したように、
あらゆるものが、流転する魂としてのこの自分であったと気がつく。
無限のものどもが生々流転している、
そういう場所に降りていっちゃうわけです。

だから、必ずしもこれは空想ということではないんです。
水平方向の時間軸でこの話を聞いてしまうと、空想に聞こえるんです。
私はかつて誰かだった、どこで何をしていたというふうに。
この語りは並行方向で聞くと間違える。
垂直方向に聞くと、ああ、この語りはあのことだなと、
永遠性の表象だなと理解できるんです。

だから輪廻転生というのは、
超時間的な直感を時間軸に投影したというべきものです。
当然これは、嘘か本当かの真偽は問えなくなります。
そういう物語の起こし方であって、
文字通り物語なわけですから。

★★★


物語としてしか語りえないことを語る言葉ーーミュトス・・・


そして「垂直方向」、この言葉からは、
以前日記にも備忘録を残した、
池田さんの、対談本を思い出す。

「君自身に還れ―知と信を巡る対話」

大峯 顕 × 池田晶子 

この本でも垂直方向の精神について、興味深い対談がされていた。

 

垂直的精神。垂直の方向の感受性。

例えば信仰において、社会的な身分、貧富の差、教養、努力、・・・
そうしたものは殆ど意味がない。
そう、魂は心理学でもあるが宗教とも関わることだろう。

例えば、シモーヌ・ヴェイユが神に魂を捉えられた空間、
例えば、最も苦しんでいるものや、蔑まれているものが、
マリアや聖人とであう空間、
悪人と呼ばれる人たちが、
弥陀の誓願に不思議に助けられる空間、
そういう空間は、きっと垂直方向に啓いた場所なのではないかと思う。

 

そこでは自分という魂が
ほんとうは何者なのか、
それだけによって垂直方向の様々な
呼びかけや声に気づくことのできる場所なのではないかと、
半ば夢現つに思う。

 

 

人生のほんとう/池田晶子著 備忘録 1

f:id:lucciora:20160815161519j:image

 

人生の本当/池田晶子 著より

ヘラクレイトスの断片p136

ヘラクレイトスという私の非常に好きな哲学者、というより哲人なんですね、この人は面白い断片を残しています。
「不死なるものが死すべきものであり、死すべきものが不死なるものである。
かのものの死をこのものが生き、かのものの生をこのものが死している」。
これは非常に正確なアニミズム的世界観ですね。何が生きて何が死んでいるのかは
よく考えると言えなくなる。

もう一つ、同じヘラクレイトスで、
「魂の際限に、君はどこまで行っても行き着くことはできないだろう。
それほど深いロゴスを魂はもっている」というのもあります。
これは自己の底抜けイコール存在そのもの、存在の底抜けと同じことです。
この場合の「魂」は、つまり「存在」になっちゃってますね。
自分自身が何であるかということを追いかけていくと、こうなってしまう。

・・・・・・・・・・・・・・
ヘラクレイトスの言葉、美しい。
このロゴスっていうのは、
今日的なロジックとはかけ離れたものなのだろうな・・・

池田晶子さんの、2004~2005年の西武池袋コミュニティ・カレッジでの講義をまとめた本。
第五章 「魂」。
わたしにとって、とくに興味深い言葉がこの章にたくさん散りばめられている。
その始まりに、池田さんの話していることがおもしろかった。

「魂」について話すことは、池田さんにとって難しいと感じることで、
それについて話そうとすると、絶句してしまうというようなことで・・・。
なぜならそれは哲学というものの、向こう側に広がっていることがら、
たぶん本来心理学があつかう領域であるから。
池田さん本人は、これがこうだと言い切るのが好きで、だから
心理学という、曖昧で非常に多義的、これがこれだというふうに言いきれない事柄が、
そして普遍化しづらいということ自体が、ちょっとかなわないなと感じていたそうだ。
しかし年齢とともに、人生の味わい、としか言えないようなものが
非常に面白くなってきて、
同時に魂のことをかんがえたくなってきた、という。

池田さんのような思想家の方に自分を比べるべくもないが、
思考のレベルは問わないとして、傾向としてのみ
照らしあわせて考えてみると、私自身は哲学はどうも苦手で、
逆に心理学(といってもユング、アサジョーリ、ピエロ・フェルッチ、ミンデルあたり)
や、どこかに余白を残した表現、思想ーーそうしたものを好んで読んできたことに
思い当たる。
余白がないと、読んでいて時に息苦しい。
逆に、意味が多義的なほど、自分のなかの様々な層で対応する部分を感じ、自分としては
深い体験をできる場合もある。


多義的な提示、言葉やイメージを、心の中にほおりこんだ時に
ひろがってくる余韻とか、波紋の広がりのようなものを、眺めているのが好きだ。
答えを出さずに、つらつらと思いを辿る愉しみ。
焦点を一つにあわさずに、ちょっとずらしたところを見ているのも面白い。
やがて、まったく別の時に、ポーンと答のようなものを、受け取るときがある。
それを楽しみにしている。
無論、その答とは、自分にしか当てはまらないものかもしれない。
そうした自分の漠然としたものへの好みを、改めて認識している。

池田さんも引用されていたけれど、「月を指す指は月ではない」。

結局のところ、月はむしろ自分の心の中にしかないのではないかと
どこかで思う。
しかし、その心の果てもまた、自分から底ぬけていて、
月は「向こう側」へと映っているのではないだろうか。

とはいえ、もし月について誰かと話したくなるなら・・・
やはり人は月を指差すことが必要かもしれない。
自分の言葉とともに。

「砂漠はいつかお前にお返しをしてくれるだろう」

f:id:lucciora:20160731225514j:plain

「心」とは何かということに、つねに興味があったので、宗教・心理学の本をいろいろと読みかじってきた。

サイコシンセシスは、イタリアのロベルト・アサジョーリが提唱したもので、
友人の言葉を借りれば

ユングが地下の帝王だとしたら、アサジョーリはベランダ的だね。わりと楽しい気分になれる」と勧めてくれたことがあった。
そんなことで、日本でも何人かのプロセスワーカーのワークショップに参加したこともあった。
アーノルドミンデルなどの「プロセス志向心理学」なども読む分には面白かった。

ピエロフェルッチは「内なる可能性」という本を読んで結構良いなと思ったいたところ、イタリアで講演会をやっているのを偶然情報誌で見つけて参加した。
その時彼の話した「小話」が面白かった。
ほぼ忘れかけていたのだけど、思い立ってノートを探していたら見つかったので
記しておきたい。

・・・・・・・・・・・・・

昔、インドの砂漠に近い町で商いをしている若者がいた。
ある時、砂漠の向こう側にある町との取引があった。
その町に行くには二つの道があって、一つは砂漠を突っ切って向こうの街へと抜ける方法。
それは急いでいるときに通ることのある道だが、体力をうばう日差しと熱風が襲ってくる危険な道だった。
もう一つの道は、山際を通っていく道であった。だが、その道はあまりにも時間がかかりすぎた。
そこで若者は、彼の仕事の成功のために、砂漠を突っ切る道を選んだ。

暑さの中、砂漠を進み続けて道半ばに差し掛かった時、砂漠の向こうのほうに
一人の老人が倒れているのを彼は見つけた。

近づいていくと、その老人は「あ、おまえだったのか?」と驚いたように言った。
若者は、その老人のことを知らなかったので、なぜこの老人が自分を知っているのか不思議に思った。
老人は砂漠で水をこぼしてしまい、のどの渇きで今にも死にそうに弱っていた。
彼はしばらく悩んでいた。この老人に今水を与えてしまったら、自分は旅を続けることはできない。
仕事の取引も失うことになる。
しかし結局、彼はしばらく考えた末に老人に水を飲ませてやった。
そのとき老人は言った。
「砂漠はいつかお前にお返しをしてくれるだろう」

大きな取引を逃した若者はそのまま、大した成功もなく、やがて結婚し平凡だが平和な人生を送った。
彼はその後どんな取引の時も、決して砂漠を横切らず、山際の道を進むことを選んだ。

ある時、山際を歩き商いの旅を続けているとき、彼の息子が重い病に倒れたことを人づてに聞いた。
このまま山際の道を歩いて帰ったら、間に合わないかもしれない。
彼は決心してあの時以来、決して通ることのなかった砂漠の道を横切り始めた。

彼はもう若くはなかった。そして不運なことに彼は持ってきた水をこぼしてしまった。
力尽きて砂漠に倒れた彼の目に、向こうの方からやってくる人影が見えた。
ているものや、持ち物をみて彼は驚いた。なんとそれは若い日の彼自身だったのだ。
若者がやってきて、彼を見つける。
彼は知っていた。彼は若者に「お前だったのか」と言い、そして伝えることを。
「砂漠はいつかお前にお返しをしてくれるだろう」と。

・・・・・・・・・・・・・


この話を聞いたとき、鳥肌が立つ思いがした。
ピエロ・フェルッチの話の仕方もうまかったのかもしれないが、何か人生というものの不可思議な仕組みを、教えられた気がした。
描いた夢みたいなものを、どこかで捨てなくてはいけない瞬間がある。
けれど捨てたものは、別の場所で別の何かを得るきっかけになっていることがよくある。

ピエロ・フェルッチは講演を次のように締めくくった。

「人は誰でも自分の中に
芽を出すべき種子をもっている。
ただ大切なのは、それに注意力をむけることだ。
すぐにはっきりとわからないサインでも、心の中で
何度も思い出してみること。
それらは、夢や共時性の中にあらわれてくる。」

 

終わったと思ったことも、終わっていない場合がある。

何かべつのできごとの契機であったり、縁起を含んでいるのだ。

 

シーシュポスの神話ー創造と苦しさと喜びと

カミユの「意思も一つの孤独である」という言葉に惹かれて、
私も 「シーシュポスの神話」を読んでみた。
ちなみに、その言葉に出会ったいくつかの記事の中のひとつが、下のブログだった。

カミュの言葉についての考察その他、本や映画をまたいで、テーマを探っていく
書き方がとてもおもしろかった。

http://camus242.blog133.fc2.com/blog-entry-191.html

シーシュポスの神話。
感じるところはあるけれど、結局、
上のブログ以上のことは自分には書けそうにないと思った。

以前、テレビで、吉増剛造さんと羽生善治さんの対談があった。
その中で、詩を作ることにしても、勝つための将棋の手を考えることにしても、
終わりのない、苦しい作業、けれど喜びを見出す時もあるという2人の対話があった。
そこで、シーシュポスの神話について触れる場面があった。
2人の姿は、まさにシーシュポスに重なってみえた。

今の自分の生き方にしても、今までにしても、
自分はシーシュポス的な部分を持ち得てないのかもしれない。
相当悩み苦しんだし、今の自分にも苦しみはある。
でもシーシュポスのようにはなれないことこそが、苦しみだったのかもしれない。
あるいは、自分のケースはもっと別の神話、寓話であるような気がした。

そう。この神話は非常に男性的な神話なのかもしれない。

カミユの書く「不条理」について、時代性ももちろんあるだろうし、
カミユ本人の複雑かつ不条理な生い立ちや人生全体について、
今の日本で「普通」に生きている自分には、
汲むことのできない深い断絶があるのだろう。しかし、
それとは別に、自分は「不条理」な部分について、
べつの要素に視点を移しているような気がした。
それは、自分にとっての「信仰心」みたいなもの・・・かもしれない。

自分の運命や、不条理と思われる状況に絶望して、
しばらく人は空虚な生を生きる。
けれど、そこで、何か自分をおおもとから掴んでくれるものに出会えた場合、
人は「転回」することができる。大きな転回。
それはたった一つの言葉かもしれない。人でも、本でも、映画でも、かまわない、

なにか大きな自分を超えたものがあって、
その中で自分は何かしらの場や時間に置かれ、
流れているのだという漠然とした納得のようなもの。
あきらめ、ともいうのかもしれない。
明らかにみるという意味でのあきらめ。
何かに生かされているような気がする、「気がする」というくらいだけれど。

 

映画『13歳の夏に僕は生まれた』

”一度生まれた者は、もう逃げも隠れも出来ない”

f:id:lucciora:20160706000812j:image 

日本ではあまり知られていないかもしれない。イタリアのマルコ・ジョルダーナ監督の『13歳の夏に僕は生まれた』。

 

同監督の2005年の作品『輝ける青春』では、ある家族を主軸にし、1960年代から現在までの時間の軌跡を辿りながら、イタリアの美しい風景や時代の描写とともに、若さの、人生そのものの輝きが存分に描かれていた。

魅力的な様々な登場人物たちそれぞれの苦悩と喜び、出逢いや別れ、人生のテーマなど、6時間という長編にもかかわらず、私にとっては全く飽きる部分の無い充実した内容だった。

 

その監督の作品ということで、ずっと観たいと思っていたので、今回もそのイメージを初めは期待しながら観ていた。
しかし、この作品は、それとはまったく違うタイプの印象を残した。
この映画には答えは無いし、映画を見た後の心地よい充実感?のようなものもない。 しかし非常に考えさせられる、やはり良い映画だと思った。

 

移民の問題。島国日本では、ヨーロッパの国々に比べれば、まだ移民はそれほど大きな問題にはなっていない。

しかし、この映画で描かれるイタリアにしても、今回のイギリスのEU離脱にしても、大量にやってくる移民についてどう考えるか、というのは、国民一人一人にとって大きなテーマになってきているようだ。

 

(ストーリーについてネタバレあります)

13歳という多感な時期を生きる、都会の少年サンドロ。
感受性は豊かだけれど、恵まれすぎているがために、アグレッシブな部分がまったくない。そんなところを、教師や父親は揶揄する。
ところが、夏のバカンスに父とその友人と3人で出かけたクルージングの途中、サンドロは夜の海に一人落ちてしまい、いくら助けを求めても、船は遠ざかるばかりだった。

死を覚悟するような恐怖を味わったあと、サンドロは不法移民の乗る壊れかけた船に助け上げられる。

しかし、イタリア人だということがわかれば、身代金を要求される危険もある。

サンドロはとっさに、かつて移民が繰り返していた言葉を口にし、移民のふりをする。

 

前作『輝ける青春」の刺激的な会話にあふれた、テンポの良いきらめくような展開に比べると、

今回は移民たちの船での言葉少ないやりとり、父の経営する工場、学校、ブレーシャの街の地味な風景、サンドロの家と家族、移民の収容場所と限られた風景が映し出される。しかし、だからこそ、テーマが際立ってくるようだ。

 

 


移民の少年ラドゥが、船に引き上げられたばかりで寒さに震えているサンドロに、自分のセーターを与えるシーンがある。

イタリア語で はmettersi nei panni degli altri という言い方がある。
人の立場に立って考えてみる、という意味だが、直訳すれば、他人の来ている服を着てみる、ということになる。

ー自分が海に落ち死にそうな思いをして、移民たちと船に乗り、その服を着て自分も移民のふりをして、彼らと一緒に海の上を何日も漂うー

そのような体験がなければ、本当に移民の立場に寄り添うことなど、いわゆる先進国に住む私たちにとってはできないだろう。

完全に信じたわけでは無いが、過酷極まりない船の上で、サンドロと、ラドゥ、その妹アリーナとの交流が始まる。

やがて船がイタリアの港に入港し、サンドロは両親との再会を果たす。

だが、海に落ちる前のサンドロは一度死んでしまったのだ。もう同じ自分ではいられなかった。

新しく生まれたサンドロは、イタリアに入国したラドゥとアリーナに、自分も何かしたやりたいと強く思うようになる。

しかし、それは大変な葛藤と苦悩を生み出すことになる。

年齢制限のために、祖国に強制送還されそうなラドゥは、結果的にはサンドロやその両親の好意を裏切るようなことをしてしまう。友情の証を捨てたものの、やはり、サンドロの心には何かが引っかかっていた。

彼らは自分を裏切ったかもしれない、けれど、そうしなければ、彼らだって生きていけなかったのだ。それを、責めることができるのだろうか?

 

最後にアリーナが娼婦として働き始めた建物の内部の暗く重たい空気、彼女を探すサンドロの不安に満ちた表情が、この問題の深さと難しさをあらわしているように思えた。

一体、何ができるのか?どこまで関わっていけるのか?

 

最後のシーン、バスがロータリーを何度か行き過ぎるシーン。サンドロとアリーナがなすすべもなく座っている。

互いにかける言葉が思いつかないのだろう。

2人を映すカメラのアングルもほとんど動かず、まるで備え付けの防犯カメラのようにリアルに感じた。
すぐに答えの出ない問いかけだからこそ、観たものの 心に長い時間とどまるような映画だと思った。